「学問研究」らしいことの最初の対象は、イギリス文化だったのですが、なかでも大きな影響をうけて、私の書くもの全般に影響を及ぼしているのが「ジェントルマン論」です(こんなのは学問研究の対象ではない、という立場の方もいることを一応付け加えておきます)。

古今の多くの文人が、「ジェントルマンとはなにか」について膨大な量のことばを尽くしていて、そのそれぞれがほんとうに豊穣で楽しいのです。各人が、自分の視点からジェントルマン理念を述べるものだから、それこそ、「人の数だけ」ジェントルマンの定義があるのではないかと思わされるほど。

そんな豊かな世界が繰り広げられるのも、ほかでもない、「ジェントルマンの決定的定義がない」ゆえなのですね。

定義を定めれば、こぼれおちるものが必ず出てくる。定義を定めきれないからこそ、それをめぐり、ああでもないこうでもない、と多くの人が熱く議論を交わし続ける。

ああ、それが「学問」ということか・・・と自分なりに、腑に落ちた気がしたのです。

ギリシア時代、プラトンは、アカデモスのオリーブ園に弟子たちを集め、哲学を講じたといいます。「アカデメイア」と呼ばれたこの哲学教室に、アカデミズムの源としてのイメージを見ることができます。「愛とは」「友情とは」「生きるとは」「国家とは」・・・とほとんど結論に至りようのないことを延々と考え、議論し続けること。これが「アカデミック」ということ、と私はイメージしているところがあります(もちろん、私の勝手な解釈なので、専門家には専門家のご意見があることと思います)。

それが「虚しい」ことかといえばその真逆で、唯一絶対の結論に至らないことを知りながらも、それをめぐって、自分の経験ともてることばを総動員して考えつづけること。その行為にこそ、「(いずれ死んでしまうにもかかわらず)人が生きる」ことの意味(の少なくとも一部)があるように思えたのです。

なぜこんなつらい思いをしてまで生きなきゃいけないのか? 唯一の正解がないそんな問題に対しては、たぶん、必死で生きながら日々考え続けることそのことじたいを通して、絶望を読みこむことができれば救いを見いだすこともできる(つまり、「意味」を見出すことができる)。当然、経験の積み重ねやことばの蓄積の度合に応じて、毎日、その人にとっての「人生の定義」が変わってくるはずです。

おっと、話がでかくなりすぎた。

ジェントルマン理念は決定的な定義がないゆえ、今に至るまで議論され続けているのである・・・という話であった。

定義が石のように不動のものとして定まったとたん、議論は終わる。ということはそれについて、もはや他の人は考える必要はない、ということですね。考える必要がない話題は、もうその時点で、日々揺れ動く人間の心の関心の対象ではなくなる、ということでもあります。

ジェントルマンの定義を定めない、という暗黙の了解は、そんなことを知っているイギリス人の知恵ではないかと思っています。定義が定まらない、あいまいさを残した存在である限り、社会の構成員が変わろうと、「ジェントルマン」は延々と人々の関心と議論の対象であり続けることができるのです。

私が「ダンディズムの系譜」で議論と具体例を紹介したあとに「されど、決定的な定義はなく、時代や人に応じて定義は変わるだろう」という姿勢を示したのも、まさにこの伝統に敬意を表しているからにほかなりません。

「要点」と「法則」を黒太字で要約するようなハウツー本や自己啓発書を読みなれている方のなかには、「法則と定義を短く書いてくれ」とお思いになられた方も少なくないかもしれません。でも、「ダンディズム」というのは、「ジェントルマンシップ」と同様、<とりかえのきかない個人が社会のなかで生きること>と関わってくる問題であり、誰かが定めた定義に凝り固まってしまうようになれば、その時点で、「終わる」ものでもあるのです。各人が過去の例を参照しつつ、「おれの場合は・・・」と自らの経験を総動員しながら、日々、考え続けて議論を続けていく、そのことじたいに意味がある問題でもあると思うのです(もちろん、ほかにも考えるべきことが山積しているので、思い出した時には・・・という程度の話ですが)。

ダンディズムは、不動の決定的定義がないからこそ、19世紀という昔に生まれた概念でありながら、21世紀の今なお人々(決して数は多くはないかもしれないが)の関心の対象であり続けています。人間が関わることに、唯一絶対の解を押しつけてはならない。解は人の数だけあり、さらに日々変化していくこともある。このことじたいが、とてもヒューマンで豊かなことだと思い、きわめてイギリス文化的なこの伝統を尊重したい、というのが私の立場です。

他人が定めた定義を無条件に信奉する思考停止状態。北朝鮮の例をとるまでもなく、人類にとってこれほど恐ろしいことはありません。一元的価値を声高に売るハウツー本や洗脳系セミナーの隆盛に、そこにつながる不気味さを感じることがあります。

自分の頭で日々考え続けることを、止めるな。

決定的定義をすり抜け続けて生き続けるジェントルマンとダンディから、私がうけとったメタメッセージです。

2 返信
  1. AW
    AW says:

    定義は「理論の初めであり終わり」なのか,はたまた「完全には程遠いが何か生産的なことをするためのルール」なのか。私は「大志を抱け」という言葉とともに「この学校に規則はいらない Be Gentlemanで十分である」という逸話のある学校出身なのですが,「ジェントルマンたれ」と言われて定義が分からなくて悩むより,その言葉がきっかけで何か自分らしく生きるヒントが少しでも得られればそれでいいと思ってます。『スーツの神話』を読んでぼんやりとそんなことを考えたことを思い出しました。つまらないコメントでスミマセン。

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  2. nakanokaori
    nakanokaori says:

    「規則はいらない。Be Gentlemanで十分である」ってかっこいいですね。その解釈が人によってちがうから個性的な人が育ちそうですね。
    イギリスのジェントルマン史を見ると、世が乱れたり価値の転換が起こっている時代に「今、時代にふさわしいジェントルマンとは」という議論がでてくるんです。なにか人としての規範を考えねばならない、という社会の内なる要請がジェントルマン議論を盛り上げる。現代もまさに「ニュー・ブリティッシュ・ジェントルマンとは」論がでてきたりして。しなやかでおもしろいシステムだなあと感じます。

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