ヴェルナー・ゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』(金森誠也・訳、講談社学芸文庫)読み終える。買ってきてから本棚を見たら、すでに以前に同じものを購入していることに気がついた。途中で挫折していたらしい。しおりを見たら第二章の「大都市」の途中にはさんである。洋もの翻訳学術書特有の堅さになじめなかったのだ(それでも、この本を「軽めで読みやすい」と言っている方が少なくないことをおことわりしておかなくてはならない)。

今回は資料として必要というせっぱつまった目的もあり、気合いを入れて読んだ。第三章「愛の世俗化」、第四章「贅沢の展開」を先に読み始めてから最初にもどると、文体にも慣れて、すんなり入っていけたようだ。非合法的な恋愛、そんな恋愛に対する欲望と憧れが、贅沢を広め、資本主義を発達させ、劇場やレストランのある大都市を発展させていく・・・・・・という骨子はなんとかつかめた。

現在、私たちが享受しているような都会生活のメリットや、シーズンごとに変わるモード、かわいい小物やおしゃれなインテリア。そんな「あたりまえ」にさえなった「奢侈」のそもそもの起源が、違法恋愛にある!というのがなんといってもおもしろかった。「恋愛における違法原則の勝利」という見出しがいい。贅沢の発達・都市の発展に寄与したのは、合法的な愛(結婚)ではなく、違法な恋愛である・・・というのは、現代における、愛人とのおでかけ情報誌の盛況などを見ていても実感することである。以下、とくに引っかかったことばの覚え書き。

「愛妾経済」

「優雅な娼婦が進出してくるにつれ、折り目正しい婦人たち、すなわち上流階級の婦人たちの趣味の形成も、娼婦的な方向に影響されていった」

「個人的奢侈はすべて、まず感覚的な喜びを楽しむことから起こった。(中略) 感覚の喜びと性愛とは、結局、まったく同じものである」

「富がつみかさねられたところ、しかも愛の生活が自然さながらに、自由に(あるいは奔放に)くりひろげられたところでは、贅沢もまかりとおることとなる。ところがなんらかの理由で性生活の展開がはばまれた場所の富は、消費されるのではなく、物質の所有、すなわち財貨の蓄積、しかもできるだけ抽象的な形をとって、まずは未精錬の貴金属、そしてやがては貨幣を蓄積するためにだけ使われることになる」

「奢侈が一度発生した場合には、奢侈をよりはでなものにしようという他の無数の動機がうずきだす。野心、はなやかさを求める気持、うぬぼれ、権力欲、一言でいえば他人にぬきんでようという衝動が、重要な動機として登場する」

「(メルシエの引用)次から次へと新奇なものをめまぐるしく味わったところで、ふきげんな気分だけをもたらし、愚かな出費がかさむばかり。これがモード、衣装、風俗、言語を問わず、すべてのことがただ意味もなくつねに移り変わっていく根拠となっている。裕福な人々は、やがて何も感じなくなる境地に達する。(中略)欠乏が貧者を苦しめるように、奢侈が彼らを苦しめているのだ」

「すべての奢侈を生む二つの衝動力―野心と感覚の喜び―は、他人にこれみよがしにみせつけようとする贅沢を発展させるさいに、手をたずさえてくる」

「奢侈の一般的発展の傾向 (a)屋内的になっていく傾向 (b)即物的になっていく傾向 (c)感性化、繊細化の傾向 (d)圧縮される傾向(時間的な意味で。テンポが加速される)」

「初期資本主義に女が優位に立つと砂糖が迅速に愛用される嗜好品になる」

「bijoux(小間物)は、当時は狭い意味での装飾品でなく、いわば金ピカの遊び道具、貴金属と貴重な労働でつくられた小さな宝であった」・・・つまり、現金はうけとらないけど、貴金属の小間物ならうけとるという恋人のために、紳士が買ってあげる贈り物がビジューだったわけである。<自分にごほうび>というビジューがやや切ない気がするのは、こういう起源による!?

「年寄りの独身者に見られるような情熱的な美食癖は、性衝動の一種の抑圧ではあるまいか。それなら男性の美食癖というのは、独身の老婦人がネコをかわいがるようなものではなかろうか?」・・・男ひとりでレストランを食べ歩いている美食家に、ぼんやりと感じていた違和感の正体は、これだったのか!

ルイ14世がヴェルサイユ宮殿を建てたのは、愛妾ラ・ヴァリエールへの愛情ゆえだった。多くのきらびやかなビジューは、男から女への愛の贈り物としてつくられた。モテる女は文化の発展・都市の発達・資本主義の進展の原動力だったのですね。でも、21世紀には家もビジューも自分で買えちゃうたのもしい女性が増えている。こんな女性が経済の「主役」になるにつれて、女から男への「現金に代わる贈り物需要」が増えてきたりなど、新しい奢侈文化が生まれてきそうな気配(ホストクラブなどではすでに常識?)。

携帯サイト連載の最終章のための資料をまとめて読む。婚活とファッション、モテとファッション、エロスとファッションっていうのは、実際のところ、どういう関係があるのか、ないのか。婚活にもモテにもエロスにもまったく縁がない、地味~な書き手としては生活実感を欠いたところからスタートすることになるのだが、それゆえ逆に、「なまぐさく」なく、主観やルサンチマンに流されずに書ける、というメリットはあるかもしれない(なまぐさいのが好きな読者には物足りないかもしれないが・・・)。資料として読んだ本のなかで、直感的に気になったことを覚え書きまで。こうしてメモしておくと、頭のなかで勝手に「発酵」したり、ほかのデータと想定外の化学反応を起こしたりして、あとから思わぬところで生きてくることがあるんです。

○白川桃子・文、ただりえこ・漫画『結婚氷河期をのりきる本!』(メディアファクトリー)。モラトリアム王子と別れ、結婚に対する意識革命を起こし、結婚市場に乗り込み、さまざまな「婚活」をし、自分からプロポーズして「ゴール」にたどりつくヒロインの物語の進行にあわせ、具体的な方法のポイントが解説される。恋愛観・結婚観がひとむかし前とは確実に変わっているんだなあとわかる、楽しい本だった。

「最初のきっかけ作りは『女子から』が基本。狩りに行かなければ、恋人はできません」

「王子様は、ガラスの高い塔に閉じこもっています」

「男の沽券をはずした男子が買い!」

「(プロフィールカードには)男子が話を広げられそうなネタを書くこと。趣味=華道、茶道などは、今どきピーアールにはなりません。それよりも『サッカー観戦が好き』だとか、男子にもわかりやすいものを」

「(お見合いパーディーでは)スカートで行くこと。どんなファッションか迷う人は、こういう時こそ雑誌『Can Cam』がお勧めです。男受けファッションとは、ちょっとダサイぐらい、わかりやすいのがいいのです。もちろん足元はヒール!」

「玉の輿を射止めた女子がいました。『擦り切れたバッグを持っていた』ことが、セレブ男子の目に留まったとか(笑)。そう、お金持ちはケチなのです! (中略) あまりに高いブランド品を持つのも、得策ではないかもしれませんね」

「一緒に生活する男に必要ないのは、『学歴』『肩書き』。女子がキャリアなら『高収入』すら必要なし。『ワインに詳しい』とか『おしゃれなお店やブランドに詳しい』『プライドやコンプレックス』も、もちろん不必要」

「ワインがわかる人よりも、『火が起こせる人』『魚がさばける人』の方がアピールできます」

「結婚に至る出会いの基本は『囲いこみ』『時間の共有』『目的の共有』です」

「今は男女とも、『私に何をしてくれる?』と様子見をしています。それをやめて、先に『はい!』と笑顔で差し出す人が、結婚をつかむのでしょう」

○門倉貴史『セックス格差社会』(宝島SUGOI文庫)。所得格差が恋愛格差を生んでいること。高収入ほどセックスレスになりやすいこと。貧困と「できちゃった婚」、それによる貧困の再生産というスパイラル。中年童貞と負け犬が市場経済に及ぼしている効果。人口減少社会と国際結婚。などなど広範にわたり現在の状況の見取り図を示す。が、なんだかデータから結論にいたる因果関係分析の過程が、あまりにも一元的で短絡的過ぎて味気ない気がした。見取り図を示すには、このくらいの強引な単純化が必要だったんだろうか?

独身男性が結婚相手を探す際に重視するのが、女性の容貌→化粧品市場と美容整形市場が大きくなっている、という説明。

男性優位社会が崩壊し、性差の違いがメルトダウン→男性的アイデンティティからの逃避を背景にしたニューハーフの増加、という説明。

男性優位社会の崩壊→大人の女性が「女らしさ」を失っていく→「ジュニアアイドル人気」という因果関係の説明。

・・・そんな乱暴な。ちがうな~と反論する当事者もいそうな気がするのだが、それをいちいちとりあげるとこの分量の新書にはおさまらないんだろうなあ、ともぼんやりと思ったり。

○斎藤薫『されど”服”で人生は変わる』(講談社)。「彼との運命度はカジュアルの相性で決まる」とか「別れ話の服」とか「倦怠期に着るべき服」とか。こちらもやや短絡的な因果関係の説明はときどきあるものの、一理ある話ではあるよなあ、と興味深く読んだ。斎藤さんはとにかく有無を言わせずにぐいぐい読ませるのがすごい。

○山田昌弘&白河桃子『「婚活」時代』(ディスカヴァー携書)。ブームを生む契機になった本。いちばん最初に挙げた白河さんの本とかぶるところも多かったが、これはこれでキーワードの解説が多く、わかりやすかった。

「女性経験値が浅い人ほど、女性に対するビジュアルの要求水準が高い」

「高いビジュアルレベルを求める見た目重視社会は、カップリングの成立にマイナス」

「性欲よりもプライドが大事なガラスの王子様」

などなど、納得の決めフレーズも多。

それにしても、現実にべたっと密着した散文的な本ばかり読んでるとなんだかどっと疲れる。うそくさい本が読みたくなってくる・・・。

◇「ココ・アヴァン・シャネル」の試写@ワーナー・ブラザーズ。アンヌ・フォンテーヌという女性監督による映画で、シャネル役はオドレイ・トトゥ。孤児院時代~キャバレーでの歌手時代~最初の愛人バルサンの城での「囲われ(居候?)」時代~最初の恋人カペルとの出会いと死別~デザイナーとしての名声を勝ち取るまで、という「デザイナー、ココ・シャネルが誕生する以前」が描かれる。

オドレイ・トトゥの、引き込まれるような黒い瞳を生かした表情がすばらしく、最後はほんとうにシャネルの肖像写真とぴたり重なるように見えた。

20世紀初頭のファッションが驚くほどきめこまかく再現されていて、カメラもアクセサリーやレース、襟やタイやカフスのディテールまでねっとりとアップで写していく。有名な「らせん階段」のショウで使われたシャネルのドレスも美しく、衣裳・美術だけでも眼福ものである。

でもさすがはフランス映画というか。ファッションにさほど関心のない観客にとっても、シャネルとバルサンとカペルの野蛮にして優雅な三角関係は、見ごたえあるドラマとして映るだろう。友人バルサンからその愛人シャネルを「二日間借りる」というエレガントな申し出をしてイヤミではないカペルにはぶっとぶし、それを嫉妬しながらも許し見守るバルサンもわけがわからない(←ホメ)。二人の男の間で、スムーズに愛人の受け渡しが成り立ってしまう過程が、実はもっとも興味深かった。上品に淡々と描かれながらも(それゆえに)、3人それぞれが秘めた心の奥の荒々しい熱情が目に見えるようだった。他の国の映画ではなかなかこんな描き方はできないのではないか。

バルサンがたびたび、労働への軽蔑を口にする。シャネル以前は、ファッションは「労働とは無縁な」有閑階級のものであったのだ、とあらためて認識する。そういうサークルの中にありながら、労働労働、ひたすら労働によって身を立て、名をなし、ゴージャスな恋愛遍歴を重ねたシャネルは、どれほどの意志と魅力の持ち主であったろうか。

開高健さんの『一言半句の戦場』(集英社)読み終える。単行本未収録の開高コラムや対談などを編集した587ページのぶあつい本。半年以上前からずっと枕元に置いて、眠る前にちょっとずつ読んでいた。お宝写真もちりばめられている。船の上でも酒場の片隅でも畳に寝転んでいても、どんな格好をしていてもカイコウケンで、いちいち愛嬌があってシブくて絵になっている。もっと生きていてほしかったなあ。新潮文庫の『開高閉口』に帯のコピーを書かせていただいたほどの大ファンなのである。『一言半句』も、読み終えるのがさびしい、離れるのがつらい、楽しい開高ワールドだった。

とりわけ面白かったのが、淀川長治さんとの対談。「いい顔ね、あんた」とほめちぎりつつ迫る(?)淀川さんの前に、さすがのカイコウさまもたじたじとなっているところが、おかしくてたまらない。淀川さんのカイコウ評もさすが、スパッと鋭いのである。

「この人、いつ原稿書くのか思うぐらいタフな人で、私は日本の男性でこのぐらいタフで、このぐらいサッパリしていて、このぐらいキザじゃなくて、このぐらい好色的なくせに好色的でなくて、こんなん珍しいと思います」。

好色的なくせに好色的でない。そうそうそう。そういうところが好きなのである。たしか帯のコピーにも「雲古、御叱呼を書いて清潔・・・」というようなことを書いた記憶があるが、不潔なのは対象をそのように見るコチラの目であって、対象そのものではない、ということをカイコウさんは教えてくれる。

巻末、谷沢永一さんが、カイコウさんの強運っぷりについて綴っている。天性の無邪気と才能と強運に恵まれていた人だったのだなあ、と納得させられる反面、「書けない」ときの苦しみ&それを乗り越える努力も半端ではなかったのだと知る。「その、開高健が、逝った。以後の、私は、余生、である」のラストのコピーが泣かせる。

「放射能を持った文章を書こう」

「父を疑え、母を疑え、師を疑え、人を疑え。しかし疑う己を疑うな」

「動機が問題になるのは結果がまずい時だけ」

「風俗は変わるけど本質は変わらない」

「読者と著作者はあわないほうがいい(ゲーテ)」

「小説家になるにはピアノ線のようでないといけない」

などなど名言も多。

◇地震のときにこれが落ちてきたらぜったい重みでつぶされる、と感じた過去何年分かの資料のスクラップを一部整理。ほんの2~3年前の切り抜きですらまったく「使えない」情報と化していることにガクゼンとする。自分はおそろしく虚しいことに時間を費やしてきたのではないかという徒労感に襲われ、しばし落ち込む。気をとりなおし、ざっと目を通した上で30冊分ほどのファイルを捨てたが、「切り抜きを処分する前にいま一度覚えておきたい」と思ったことがらを、以下に記す。ジャンルは雑多だが。

・藤沢周さんが今はなき「ストレート」に連載していた「独酌余話」の第4回「反・蘊蓄」より――「知識があること。あるいは極言すれば、頭がいい、ということに対する恥じらいを知らない大人は、見苦しく情けない。不惑過ぎれば、嫌でも何かしら一家言持つであろうに、何も衒うほどのことでもなかろう。むしろ、それを隠す所作にこそ色気が生まれるのである。・・・(中略)・・・何より、人間の抱える知識や経験の豊穣に対する面白さは、そこに執着してしまうその人の狂いが面白いわけで、知識なぞ本にいくらでも詰まっている」。

・シチュエーショナル・インティマシー(situational intimacy)。恋愛関係にあるわけではないのだけれど、場所や行動をともにしているために、いやでも発生してしまう親密な感情のこと。職場の同僚とか、社長と秘書の間に発生する感情がコレ? 案外見過ごされがちな感情に名前があったり、感情に名前をつけたりすることは、なかなか面白い。

・2006年7月31日のAERAの記事。「ストーリィ」8月号と「NIKITA」8月号の表紙が同じ「ダイアン フォンファステンバーグ」の格子柄ワンピでかぶってしまったという記事。業界的には、かなり恥ずかしい失態として話題になっていた。でも、「上品奥様」と「アデージョ」(恥)がともに着こなせる服として、かえってブランドにとってはよい宣伝になったのではなかったか。たしかこの事件をあるファッション誌に好意的に書こうとしてダメ出しをされたのだった。ブランド的には二度と触れてほしくないタブーだったので。でも、時間がたって「歴史」となれば、ブランドにとってはよい効果をもたらしたできごととなっているはず。それにしても、「NIKITA」は笑える雑誌で、言語感覚もシャープ、毎号ほんとうに楽しみにしていたのに、「ヴァケーション」に行ってしまった。復活を強く望む。

・「恋愛サイクルMD」。たぶん「繊研新聞」の切り抜きだと思うが、掲載紙と日づけをメモしていなかった。9月は合コン強化月間として、キメ服であるワンピースを仕掛ける、というMDの話題。9月に本命をゲットし、10月から付き合い始めないと、クリスマスを一人で過ごすことになりかねないので、9月は合コン市場が拡大するんだそう。季節に応じたMDよりも確実なのかもしれない、と苦笑。

・2006年9月8日(金)朝日新聞の「ニッポン人脈記」。鷲田清一先生がモードについてお書きになっていた当初、恩師の一人にさりげなく言われた言葉が、「『世も末だな・・・・・・』」。「ファッションに無関心だという人ほど、たとえばドブネズミ色の背広といったその時代の流行服を敏感に着ている。『そんな皮肉の意味を解き明かすことも面白かった』」。私も「世も末」に似たようなことばを何度も頂戴している。「そんな仕事はカス以下」と吐き捨てるように言われたこともある。さらさらと受け流すことのほうが多いが、心のどこかに残り、ことばが蘇ってきては「そうかもしれないなあ」と力なく思う自分もいる。

・同記事の深井晃子先生。「モードのジャポニズム展」など国外で高い評価を得たすばらしい展覧会を開催しても、「国内での反響はいま一つだった。特に『服飾関連業界からの反応が冷たかった』という。ファッションは理屈や歴史で考えるものではない、との当事者の考え方が強かったからだ」。アカデミズムからはカス以下呼ばわりされ、ファッション産業からは冷ややかに無視される。それが日本におけるファッション学である。鷲田先生、深井先生はそんな厳しい状況のなかで世の尊敬を勝ち得てきた。並大抵のことではない。そこまでのレベルに行くために必要なのは、執着する「狂い」?

◇どこまで信用できる情報なのか定かではないが、駿河湾から神奈川にかけてイオン濃度が高くなっているとか。ガセの可能性も否めないが、最近2~3日おきに続く地震のこともあり、いちおう、ヘルメットなど用意しておく。ちょうど模試を終えてきた長男が、「明日の朝あたりデカいのがくるかもしれん」→「今日の晩飯は最後の晩餐になるかもしれんな。助かってもしばらくは非常食だな」→「後悔しないようにうまいもの食べておこうぜ」というおそろしく飛躍した論理を展開する。買い物行くにも暑いしなあとひそかに思っていた私も賛同し、近くのヘイチンロウに北京ダックのコースを食べにいく。白ワインも(ひとりで)1本あけて、「これで明日きても悔いなし」状態。これも「備え」のひとつ、ということにする。

◇東理夫さんの『グラスの縁から』(ゴマブックス)読み終える。いつも持ち歩いて少しずつ読み進め、一か月ぐらいかかってゴール。時間をかけたのは、「この本の世界から離れるのがいやだ」ということもあった。シブくて、ジャジーで、ピリッとしていて、ハードボイルドなんだけどサービス精神たっぷりのシャイな愛にあふれている。好きだなあ。

ちょうど私が日経新聞に連載していた時期も期間もほぼ同じころ、東さんもこのコラムを連載なさっていたようだ。7年半とのことなので、半年間分、東さんが長い。連載中は、「グラスの縁から」と「モードの方程式」を楽しみにしています、とおっしゃってくださる読者の方がとても多く、東さんにはたいへん失礼なことだが、ひとり勝手に戦友のようなイメージを抱いていたのであった。

酒&ミステリー&アメリカ文化&映画がカクテルになったようなコラムのあとに、毎回「サイドオーダー」として本や酒瓶の写真とともに220字ぐらいのひとことコメントが紹介されている。これがまた楽しい。これだけの字数で読者をクスッとさせたりうならせたりすることはかなり難しいことなのだが、それをさらっとやってのけてくれる。うれしすぎる。

なかでもいちばん笑った「サイドオーダー」は「文豪の作ったカクテル」の回についていた文章。

「煙草をやめた時、これからは人生の半分しか生きないんだぞ、と友人に言われた。それと同じように、酒を飲まないのも、人生の半分しか生きていない、とも思う。となると、酒の本も酒そのものもない人生とは、倍の四分の一になってしまうのだろうか。かといって四分の四の人生でも、そう面白くないけれど」。

・・・・・シブく決めましたね。

「老後の酒」の回のサイドオーダーにも名言発見。

「紳士は身分ではなく、心意気だろうと思っている。どんなに高貴な生まれでも紳士でないやつもいれば、どれほど貧しい出自でも、紳士だ、という人がいる。田舎者、というのが地域のことを言うのではなく、その人の生きようをさしているのと同じだ」。

「生きよう」という表現がまたいい。センスがない人はここで「イキザマ」と書いたりするんだけど、そんな野暮な書き手ではないのである。

「なぜ酒を飲むのだろうか」の回は、酒飲みならばみんな深くうなずくであろうトマス・ラヴ・ピーコックのことばが紹介されている。

「『酒を飲む理由に二つある』と彼は、1817年に発表した風刺小説『メリンコート』で書いた。『一つはのどの渇きをいやすため』・・・(中略)・・・、『もう一つはのどの渇きを予防するため』。膝を打ちたくなってくる。そしてこうつづく。『わたしはたぶん、渇きを予測して飲むのだろう。予防は治療よりいいからだ』。その後がいい。『「魂は」聖アウグスティヌスは言った。「渇きの中では生きていけない」と。死とは何か。塵であり灰である。乾き以外の何ものでもない』」。

覚えておけば、酒飲みの言い訳として、申し分ない。

ただ、「シャンペン」の表記だけが、どうにもこうにも引っかかった。これは東さんの問題ではなく、慣例的に用いられている日本語表記そのものの問題だと思うのだが。「シャンペン」って字面で見ても、耳から聞いても、まったくへなへなの薄い酒のイメージしか浮かんでこないじゃないか。このお酒をこよなく愛する私としては、ぜったいこんなふうに発音したくない。せめて「シャンパーニュ」ぐらいにしませんか。これじゃあ、気どりすぎに聞こえる?

◇親族で墓参。毎年、暑さで汗だくの中の墓参りなのだが、今年はカーディガンを羽織る必要があるほど肌寒かった。この気候は異常だ。稲の穂もまだ短くて青い。農作物、大丈夫だろうか。

外山滋比古さんの『思考の整理学』(ちくま文庫)読み終える。20代のときに読んでいたはずなのだが、きれいに忘れている。というか、たぶん20代のときにはピンときていなかったことが、今であればこそしみじみ納得できるのだろうなあ・・・・・・というところがたくさんあった。

忘れることが「古典化」に不可欠という考え方が強く印象に残った。「忘れたくない」ので(笑)メモしておく。

「"時の試練"とは、時間のもつ風化作用をくぐってくるということである。風化作用は言いかえると、忘却にほかならない。古典は読者の忘却の層をくぐり抜けたときに生まれる。作者自らが古典を創り出すことはできない。 (中略) きわめて少数のものだけが、試練に耐えて、古典として再生する。持続的な価値をもつには、この忘却のふるいはどうしても避けて通ることのできない関所である」。

人の思考を「古典化」するためは、こんな自然の忘却のふるいを待っているわけにはいかない。人為的に忘れろ、どんどん忘れて思考を古典化せよ、と外山さんは説くのである。

「忘却は古典化への一里塚」「生木のアイディアから水分を抜く」など、思わず座右の銘にしたくなる言葉が満載。ほかにも名言あり。

☆「ひとつだけでは多すぎる」―複数のテーマを同時に進めたほうが、煮詰まることもなく、頭も伸び伸びと働き、思わぬセレンディピティを得られるなどの利点があることは、経験からもよくわかる。

☆「没個性的なのがよい」―素材たちに化学反応を起こさせて独創的なアイディアを得るためには、考える本人の自我や個性などが強く出ないほうがいい。今後、心がけたい最大の課題。

☆「ほめられた人の思考は活発になる」―中傷は心を「殺す」ことに等しい、とは経験からの実感。「どんなものでもその気になって探せば、かならずいいところがある。それを称揚する」というすすめに共感。

☆「思考を生み出すにも、インブリーディングは好ましくない」―インブリーディングとは近親結婚のようなもの。異質な要素がかけあわされてこそ新しい風が入る。

☆「発明するためには、ほかのことを考えなければ、ならない」―なにかほかに拘束されることがあって、心が遊んでいるような状態のときに、よい発想が浮かぶ。

☆「人間には拡散と収斂というふたつの相反する能力が備わっている」―読んだものを自由に解釈して、尾ヒレまでつけていくのが拡散。筆者の意図を絶対として「正解」に向かおうとするのが収斂。「読みにおいて拡散作用は表現の生命を不朽にする絶対条件であることも忘れてはならない。古典は拡散的読みによって形成される」。

一方、「拡散のみあって収斂することを知らないようなことばがあれば、それは消滅する」。

背骨に太い支柱を添えてくれるような1冊。迷ったら、また読み返したい。

ビー・ウィルソンの『食品偽装の歴史』(高儀進・訳、白水社)読了。「フラウ」連載のネタにと思って読み始めたが、「ドルチェを待ちながら」こんな話題をふられたらぜったい食べる気なくすよな、っていう話のオンパレードで、コワ面白かった。とりわけアプトン・シンクレアの小説『ジャングル』(1906年)のソーセージ工場の描写ときたら・・・・・・。

1820年代、産業革命とともに問題になり始めた、食品偽装の歴史。偽装そのものはローマ時代からすでにあったのだが、大量生産時代に入り、「利益」が追求されるなかで、信じがたいような偽装がエスカレートしていったようだ。

偽装が必ずしも悪とかぎらない、と考えさせる視点も豊富で、「何が善で、何が悪なのか?」と頭がぐるぐる回り始めてくる。それがこの本の面白いところ。

有機栽培でつくられた原料をつかったものには必ず昆虫が一定の割合で混ざることは避けられず、昆虫の入らない製品を作ろうと思えばどうしても殺虫剤を使わねばならない。どっちがいいんだろうか・・・(涙)。

新しいことばもいろいろ学んだ。以下備忘録として、ランダムに記しておきます。

*「深鍋の中に死がある」――19世紀の食品安全運動のスローガン。ピクルスが銅で緑色になっている、胡椒には掃き寄せた床の屑が混ざっている、菱形飴がパイプ白色粘土から作られている、紅茶がリンボクの葉でごまかされている、というような、命にかかわる食品偽装を警告するスローガン。19世紀にはほかに、カスタードに風味を加えるために危険な西洋博打木の葉を使う、チーズの発色をよくするために染料を使う、パンを白くするために漂白剤を使う、というようなことがおこなわれていた。

流通経路が複雑に枝分かれすればするほど、どこに偽装の源があるのかわからくなってしまうのは、現代にも通じる話。

*「買い手危険負担」(caveat emptor)――もし消費者が偽装品を選んで買うなら、それは消費者の責任である、という議論。

たとえば、「現代の露天売り場で、売り手が<デザイナー>香水を信じがたいほど安い値段で売りつけてくれば、ちょっとでも考えると、それは盗品か偽物に違いないのがわかる。それでも買うなら、買い手は欺瞞の共謀者になる」

*「食品恐慌」疲れ――ある週は「油分の多い魚をもっと食べるべき」と推奨され、翌週は「油分の多い魚を食べ過ぎると水銀中毒になる」と脅される。そのうちに、人はそういう記事を読むと目がどんよりしてくる。これが食品恐慌疲れ。新聞は恐怖を商売にし、読者は、デマと真実を区別するのが難しくなる。

*「純正食品会社」――1881年、悪質な食品偽装に戦おうとして、ハッサルがおこなった食品改造計画。「純正」な食品だけを売り出したが、会社はつぶれた。モノは純正だったかもしれないが、まともな「食べ物」ではなかったのである。欺瞞を憎むあまり、おいしい食べ物の必要を忘れたという皮肉な結果が待っていた。(・・・正しさの追求は必ずしも幸せをもたらさないのだなあ・・・)

*「代用食品病」――戦争中、代用食品は、資源を保存する愛国的な手段として奨励された。灰はきれいな包みに入れられて「代用胡椒」。挽いたクルミの殻を入れたものを「コーヒー」と呼んで飲むのは、良き市民のしるし。飢えと不気味な代用食品を食べることが一緒になって生まれたのが、代用食品病。その代用食品の多くは「動物の消化不能の残骸」を含んでいた。(・・・こわすぎ・・・)

*モック食品――本物そっくりに見せる、見せかけ食品。戦争中に発達。モック・クリーム(ゼラチンを混ぜた無糖練乳)、モック・チョップ(すりつぶしたジャガイモ、大豆の粉、タマネギ)・・・・・・まともな味を出すよりも、本物に見えるような視覚効果が強調されるようになっていった。食卓での「幻想」が士気を維持するのによい方法。配給制度が何年も続いた結果、まやかしものの代用食品に人々が慣れてしまって、戦後、以前よりもそれを食べるようになってしまった。低価格で食品が自由に選択できるという幻想を、代用食品が与えてくれたから。1960年代には、果物屋で「すてきな熟成梨――缶詰と同じくらい美味!」という掲示が出るほど。(・・・缶詰みたいにおいしいフレッシュフルーツ、というものが売り物になる皮肉!・・・)

*オーソレクシア――ひたすら正しい食事をすることに取りつかれる病気。エコロジー的にもっとも健全な食べ物を食べたいと願うあまり、極端に限られた、社会的に孤立した食餌で生きていくことになる。自然食品は一切の分別を捨て、「有機」というブランドの純正を信じ込めと暗黙のうちに促す。しかし、分別を捨てるというのは、騙されたくなければ、最悪のこと。多くのすぐれた食品は自然食品である。が、すべての自然食品が優れているというわけではない。

欺瞞と戦い、食べ物の安全を守り、おいしさを楽しみ、分別を失わずにすむ正しい方法は? 著者はいちおう「正論」を提示してくれるが、その実行の難しさも同時に感じたのであった。