荒川洋治さんの『ラブシーンの言葉』(新潮文庫)読了。さまざまな官能のことばのサンプルを集めたエッセイ。それぞれに対する、荒川さんの短くもとぼけたコメントがなんともおかしくて、楽しい1冊だった。

鋭いなあ、と思ったのが、おしゃれと愛についての観察。だいたいにおいて、官能小説においてトレンディなファッション用語などでてこないのだ。服の描写が出てくるにしても、たとえば「ズボンのバンドをゆるめる」みたいに、どろくさくて、モードのかけらもない。虚飾とは遠い世界なのである。これについて荒川さんはこんなふうにさりげなく。

「一般におしゃれをするのは、そこまでしなくては異性にもてないという心のあらわれ。何を着ていてもいいの、あなたを好きよ、といわれたことのない人、まだ愛を知らない人が装いを凝らすのだ、と考えてみよう。この小説の男女は『自分たちは愛し、愛されているのだ』という気分のどまんなかに、構えている」。

痛い真実だ・・・。

昨年、40半ばで結婚したプレイボーイの同窓生(男)のことをふと思い出した。彼はカサノバ顔負けの「冒険者」だったので、一生結婚しないものと思われていたのだが、「最後の女」と出会ったとかで結婚。友人間でのお祝いの会でその女性をつれてきていたのだが、一同、心の中で少し当惑していた。これほど女にうるさい男のことである、どれほど洗練された絶世の美女なのかな・・・と構えていたら、あれっ?と拍子ぬけするほど、素朴な印象だったのである。もちろん、ふつうにかわいらしい人ではあったが。その彼女が「彼は私と出会ってようやく、愛し愛される喜びを知ったので、もう大丈夫です」というようなことを語っていらして、そのあまりにもどっしりとした自信に、一同、思わずひれ伏しそうになったのであった。愛とファッションには、巷で思われているほどの相関関係はないらしい。

同じような設定、同じような描写ばかりにも見える官能小説を、人が飽きもせずに読み続けるのはなぜか?という疑問に対する荒川さんの解説も、なるほどな鋭さ。

「こんなにいっぱい、ことばで性器を見たのに知ったのに、またまた別の小説の濡れ場で性器を『読み』つづけるのはなぜか。『確認』するのはなぜか、それは書かれていたことに興奮した自分をも、忘れてしまうからである。ここでもまた男の記憶は失われるのだ。まだ、ある。官能小説の濡れ場は、それがことばによるものであるだけに、フィクション。どんなこともフィクション。リアルに書いてあっても、ほんとうにそのようなものであるのかという疑いが、読者を苦しめる。かくして二重三重の忘却と疑念が、男を官能小説へ突き返すのである。(中略)わかったでしょ、といわれても、男はいわれた通りには生きられない。セックスの経験は蓄積しない。それでまた女体に向かう。その意味で官能小説は男の現実そのものだ」。

そうして同じように見えながらも差異はしっかりとある、豊かなことばがつむがれていく。

この本の単行本がでたのが、4年前。引用されていた本の作家の何人かが、すでにもう名前すら見なくなっているという現状に驚く。本の世界にも、芸能界とおなじように、「一発屋」みたいなのがある。書き続けていくことができるということは、ほんとうにレアなことであるようだ。

0 返信

返信を残す

Want to join the discussion?
Feel free to contribute!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です