◇東理夫さんの『グラスの縁から』(ゴマブックス)読み終える。いつも持ち歩いて少しずつ読み進め、一か月ぐらいかかってゴール。時間をかけたのは、「この本の世界から離れるのがいやだ」ということもあった。シブくて、ジャジーで、ピリッとしていて、ハードボイルドなんだけどサービス精神たっぷりのシャイな愛にあふれている。好きだなあ。

ちょうど私が日経新聞に連載していた時期も期間もほぼ同じころ、東さんもこのコラムを連載なさっていたようだ。7年半とのことなので、半年間分、東さんが長い。連載中は、「グラスの縁から」と「モードの方程式」を楽しみにしています、とおっしゃってくださる読者の方がとても多く、東さんにはたいへん失礼なことだが、ひとり勝手に戦友のようなイメージを抱いていたのであった。

酒&ミステリー&アメリカ文化&映画がカクテルになったようなコラムのあとに、毎回「サイドオーダー」として本や酒瓶の写真とともに220字ぐらいのひとことコメントが紹介されている。これがまた楽しい。これだけの字数で読者をクスッとさせたりうならせたりすることはかなり難しいことなのだが、それをさらっとやってのけてくれる。うれしすぎる。

なかでもいちばん笑った「サイドオーダー」は「文豪の作ったカクテル」の回についていた文章。

「煙草をやめた時、これからは人生の半分しか生きないんだぞ、と友人に言われた。それと同じように、酒を飲まないのも、人生の半分しか生きていない、とも思う。となると、酒の本も酒そのものもない人生とは、倍の四分の一になってしまうのだろうか。かといって四分の四の人生でも、そう面白くないけれど」。

・・・・・シブく決めましたね。

「老後の酒」の回のサイドオーダーにも名言発見。

「紳士は身分ではなく、心意気だろうと思っている。どんなに高貴な生まれでも紳士でないやつもいれば、どれほど貧しい出自でも、紳士だ、という人がいる。田舎者、というのが地域のことを言うのではなく、その人の生きようをさしているのと同じだ」。

「生きよう」という表現がまたいい。センスがない人はここで「イキザマ」と書いたりするんだけど、そんな野暮な書き手ではないのである。

「なぜ酒を飲むのだろうか」の回は、酒飲みならばみんな深くうなずくであろうトマス・ラヴ・ピーコックのことばが紹介されている。

「『酒を飲む理由に二つある』と彼は、1817年に発表した風刺小説『メリンコート』で書いた。『一つはのどの渇きをいやすため』・・・(中略)・・・、『もう一つはのどの渇きを予防するため』。膝を打ちたくなってくる。そしてこうつづく。『わたしはたぶん、渇きを予測して飲むのだろう。予防は治療よりいいからだ』。その後がいい。『「魂は」聖アウグスティヌスは言った。「渇きの中では生きていけない」と。死とは何か。塵であり灰である。乾き以外の何ものでもない』」。

覚えておけば、酒飲みの言い訳として、申し分ない。

ただ、「シャンペン」の表記だけが、どうにもこうにも引っかかった。これは東さんの問題ではなく、慣例的に用いられている日本語表記そのものの問題だと思うのだが。「シャンペン」って字面で見ても、耳から聞いても、まったくへなへなの薄い酒のイメージしか浮かんでこないじゃないか。このお酒をこよなく愛する私としては、ぜったいこんなふうに発音したくない。せめて「シャンパーニュ」ぐらいにしませんか。これじゃあ、気どりすぎに聞こえる?

◇親族で墓参。毎年、暑さで汗だくの中の墓参りなのだが、今年はカーディガンを羽織る必要があるほど肌寒かった。この気候は異常だ。稲の穂もまだ短くて青い。農作物、大丈夫だろうか。

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