◇開高健『眼ある花 / 開口一番』(光文社文庫)読み終える。五感を総動員して読まねばならない豊饒なことばがあふれているエッセイ集。一筆書きのように読ませるエッセイばかりだが、それぞれ、鮮やかな物語が眼前に浮かぶ。

たとえば、「パリで、娼婦を買おうとして、いざ二人になって相手をまじまじと見たらやる気をなくしたのでお金だけ置いて逃げた」というだけの話。このまま平たく語っても凡庸で下品なネタとして終わりだが、これを、意外な比喩と、リアルな会話と、けれんたっぷりの情景描写と、人間の真理をつく観察を絶妙にブレンドして語ることで、こちらの感情をゆさぶり、にやりと笑わせ、酔わせてくれるのである。いいなあ。

そのほか、強く印象に残った表現を、メモ。

○(神話・古譚を評して)「物語は予測できるのとおなじ程度に予測できず、いっさいが必然の明晰のうちにはこぼれつつそれとおなじ程度に無秩序きわまる偶然のはたらきに左右される。明察のなかに即興があり、真摯とおなじほどにたわむれがあり、矛盾や逸脱をあまさず微笑と冷知をもって眺めているので、惑乱的な豊饒に接する陶酔が登場している。ゼウスにしてもアポロンにしても、それぞれが神でありながら絶対や純粋という、虚無を内蔵した自己拒否の彼岸願望からとらえられていないから、どんな非情、むちゃくちゃの言動にでてもそこで絶望しないで、つぎの頁にすすむことができる」

→抽象的な表現だが。前々から、神話の類を読むたびに、「神さまっていうのは、いつも激しい感情をふりまわしたり喜怒哀楽にふりまわされたりしている、気まぐれで過剰なヒトたちだなあ・・・」とうすうす思っていたことを、なんとなく、高尚な表現で代弁してもらったような感じ。

○(神話としてのトロイ戦争を評して)「戦争というものは、進行過程にくらべて発端や動機はさほど重要ではないのだということ。まぎれてしまって見えなってしまうものだし、誰もさほど気にしなくなるものなのだということ。ヘレネの美女ぶりはほとんど語られないが、戦役全史をみたす惨苦痛恨の総和がそれを語らずして語っているのだと考えれば、この世にはひょっとしてそういう、語りようのない超絶美女が発生することもあるということ。(中略)無数の英雄と、将と、雑兵が双方ともに肝脳地にまみれて青地のぬかるみに埋もれたあと一人の美女が生きのこってもとの夫のところへもどっていくだけであるということ。これは現代でも戦争そのものと戦後にくるものとについての本質が何ひとつとして変ることのない宿命的生理であるらしいこと。ヘレネの扱い方のひどい軽さを見ればこれを現代のどんなイデオロギー用語や宗教用語のスローガンに入れ替えてもピタリとハマるものではあるまいかということ」

→人がなぜ戦争をするのか、戦争のあとに何が残るのか、について、これほどわかりやすく説明してくれたものはなかった。<原因はなんでもいい、そんなものは途中からどうでもよくなってくる。ただ人は戦争に突っ走り、大勢の死骸のあとに、原因だったはずのものだけが元気でもとのさやに戻っている。> 現代の多くの戦争にもあてはまることかもしれない。

◇朝日新聞12日付夕刊、「千宗屋の茶のある暮らし」。心地よく、飽きない茶碗の条件にふれて。

「見た目に重そうに見えて持ってみると案外軽い、或いは見た目より重さがしっかりしているように感じるものに、飽きの来ないものが多いように思う」

人もそうかも、とつい思わされるあたり、うまい。

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