曽野綾子『晩年の美学を求めて』(朝日文庫)読み終える。いきなり老後の準備を始めるわけではないが、「晩年」を気持ちよく過ごしてこの世を去るためには、いま何を心かげておけばよいのかということが気になり始めた。ついこの間のこと、と思っていた「年末」がまたたく間に巡ってきたためか。たぶん、このペースで時が進むと、あっという間に「晩年」を迎えることになる。

曽野さんの考え方は、ちょっと趣味が良すぎたり、幸福で教養の高い都会人特有の偽悪っぽい言い回しがあったりして、イヤミすれすれのところもあるのだが、それがまた文章に深みと渋みを与えるいいスパイスになって、心に留めておきたくなる言葉が多い。とくにいいなあ、覚えておきたいなあ、と感じた表現を以下、記しておく。

「犯罪を犯して記憶されるよりは、悪いこともせずに済んで、誰からも深く恨まれることなくこの世を去っていけるだけで、この上ない成功である。晩年の義務は、後に、その人の記憶さえ押しつけがましくは残さないことだと私は考えている」。

・・・そう考えてしまえば、アルバムも手紙もすっきりと整理できる。

「善は言葉で言うものではなく行動で示すものであり、悪は口先だけで盛大に言って実行しないのが、羞恥を知る者の行為であった」。

(ヘブライ学者の前島誠さんのエッセイを引用して)『人はいつ完全と言えるのでしょうか。自分のありのままを自分で認めたときです。飾らず恰好つけることなく、そのままの自分を「これがわたしです」と心から言えた時、その人は完全への道にあるのです』。

「親孝行な子供は、幼い時から、どこかで耐えることをしつけられて来た家庭に生まれている。もちろん、耐えることの全くない子供などというものはないだろう。しかし物分かりのいい、甘いしつけの家庭には、なかなか親孝行な子供は生まれにくい」。

「聖書には『愛』と訳されているギリシャ語の原語が二つある。アガペーとフィリアである。世間が考える愛はフィリアである。(中略)ほんとうの愛はアガペーで、これは相手がそれに応えようが拒否しようが、関係のない誠実である。だからほんとうに愛する人に対しては、私たちは、相手にそれが通じようが通じなかろうが、いや時には憎まれようが、尽くすべき誠実を尽くす。時には『あんなやつは死んでしまえ』と思っても、救いの手は止めない。(中略) これは見方を変えれば、ほんとうの愛は作為的なもの、作ったものであっていいのだ、ということになる。正直など何ほどの美徳か、ということだ」。

「晩年も感謝して明るく生きることである。いや、もっとはっきりいえば、心の中は不満だらけでも表向きだけは明るく振る舞う義務が晩年にはある。心から相手を好きではなくても、愛しているのと同じ理性的な行為をとることだけが、むしろ本当の愛なのだ、と聖書が規定しているのと同じである。長く生きた人々は、或いは病気で苦労した人々は、それくらいの嘘がつけなくてはならない」。

・・・これがこの本のなかにおいて、もっともガーンとやられた考え方だった。内心などどうあろうと、愛しているのと同じ振る舞いをする。それこそが本当の愛、と。正直よりも、愛ある振る舞いをできることこそが、ほんとうの愛である、と。「自分の心に正直になろう」という近頃の軽薄な自己啓発の教えなんか軽くふっとぶ、深い人類愛に基づいた考え方を、しみじみ反芻する。

「内心はどうあろうとも、明るく生きて見せることは、誰にでもできる最後の芸術だ。(中略)優しくしてもらいたかったらまず自分が明るく振る舞って見せることだ」。

「人間の優しさもいろいろな形を取る。人間の残酷さも表現はさまざまだ。そのからくりを死の前に知って、私は大人になって死にたい。それゆえにこそ、簡単に人を非難せず、自分の考えだけが正しいとも思わず、短い時間に答えを出そうとは思わず、絶望もせず落胆もせず、地球がユートピアになる日があるなどとは決して信じず、ただこの壮大な矛盾に満ちた人間の生涯を、実におもしろかった、と言って死にたいと思う。深い迷いの中で、とりあえず自分の好みに近い人生を送れたとしたら、それは世界的レベルにおいても、法外な成功だったのだから」。

実際に「晩年」にきたらもう一度、読み返したくなるような、人間の重さを感じさせながらも心が軽くなる言葉の数々に癒される。

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