バイク乗りのクラブ「Hells’ Angels」が、自分たちのロゴをパクったとしてアレクサンダー・マックイーンを訴える。インデペンデント28日付ニュースで知る。

暴走族かと思いこんでいたが(失礼しました)、Hells’ Angelsは、1848年にアメリカで結成された、由緒ある(?)バイク乗りたちの非営利相互協力組織のようなものであるらしい。

ロゴマークは、横顔のスカルが、ギリシア神話の軍神マルス風ヘルメットをかぶっているデザイン。「デス・ヘッド」と呼ばれているもの。

スカルがあっちこっちのファッションアイテムにくっつく昨今、このロゴマークに目をつけるメーカーやデパートその他があとをたたず、「ヘルズエンジェルズ」側は、このロゴマークに類似したマークをつけるあらゆるファッションアイテムの撤退を求める訴訟を起こした。そのなかに、アレクサンダー・マックイーンの860ドルのドレスもある。高級デパートのサックスも訴えられている。最近ではディズニーともこのロゴマークをめぐって闘っていたらしい。

バイカーたちにとっては、ハーレーにもホンダにもまたがる気のないヤツらに、ファッションとしてデスヘッドをちゃらちゃら使われるのは許せん、というところもあるだろう。ましてや、金もうけのタネに使われて売れなくなったらポイ捨てというのでは、たまったもんじゃない。

それにしても、誰もがマネしたくなるというのも納得の「デスヘッド」のロゴ。考案者のセンスに感心。

「マッドメン」シーズン3、残りのディスクをすべて見終える。とりわけ第12話の「JFK暗殺」、第13話の「解雇通知」の、緊迫感と驚きの展開に深く嘆息。

「JFK暗殺」では、当時の映像がドラマのテレビの中で流れるなか、よりによってその日に結婚式を挙げるロジャーの娘の悲惨、ドンの秘密を知ってしまったベティの混乱はじめ、あらゆる登場人物の虚無や孤独や苦い後悔などなどが、あくまで控えめに、でも厳しく情け容赦なく描かれていく。社会的な大事件と個人の感情がぐるぐるとタイトにからみあって、大きな渦巻きになっていくような眩暈感。

「解雇通知」のスリリングであっと驚く急展開。会社がマネーゲームの対象になって翻弄されることに抵抗し、クーデターを起こすドンたちの、ここぞの結束にしびれる。ジョーンが「帰ってきた」場面で喝采したファンはさぞかし多かっただろう。まさかのベティの冷やかな離婚宣言にも凍りつく。「新しいパトロン」とともにいるベティが、決して笑顔ではなく、幸せそうではないことにもひっかかる。多くを失い、絶望のどん底に落ち、それでもふんばって、ささやかな新スタートを切るしかないキャラクターたちの淡々とした表情や後姿のショットに、ロイ・オービソンの「シャダローバ」が流れる。このラストがシブすぎる。

「シャダローバ(Shahdaroba)」は、夢が破れて心が叫びだしたいときにつぶやくことば。未来は過去よりもきっといい。「シャダローバ」は、途方にくれて絶望したときにつぶやくことば。きっといつか永遠の愛にめぐりあう。「シャダローバ」、運命が導いてくれる。

こんな感じの歌詞で、短調からスタートして長調がいい塩梅でまじりあっていく、セ・ラ・ヴィなメロディ。大人のリアリズムと哀愁が、深い余韻となって続く。

新会社はどうなるのか。シーズン4までお預け(アメリカではとっくに放映されているが)。

昨日訪れた、ドガ展@横浜美術館。「サライ」読者のみなさまとともに、学芸員のレクチャーを20分ほど聴いたあとでの鑑賞。

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第1章「古典主義からの出発」、第2章「実験と革新の時代」、そして第3章「総合とさらなる展開」という三部構成になっている。基本をきわめ、実験と革新に入り、晩年にはそれらすべてを総合する表現へ、と昇華していった芸術家の道筋がわかる。

有名な「エトワール」(意外と小さな絵であることに驚き)はじめ、「バレエの授業」、メンズファッションの本に必ず出てくる「綿花取引所の人々」などは、すべて第2章の時期に。

「エトワール」だけが他の絵とは距離をおかれ、別格扱いされていた。初来日とあって、この絵の前にはとりわけ人だかり。チュチュ(踊り子のスカート部分)から光を受けて透ける足のなまめかしい美しさに、見入る。「綿花取引所の人々」は、1873年当時のメンズファッションの「実例」としてしばしば引用される絵なのだが、ゴミ箱に捨てられた紙屑の細部、新聞のレイアウトにいたるまで、細かい仕事がなされていることがわかり、あらためて感心。

第2章では踊り子ばかりを描いていたようにも見えるドガは、第3章では執拗なほどに「浴女」を描く。見られていることをまったく意識していない、無防備に体を洗ったり拭いたりしている裸の女の後姿。「浴後(身体を拭く裸婦)」にいたっては、マニエリスムがいきすぎて頭部がどうなってるのかわからない(その異様なクネクネが魅力になっている)。

晩年は視力が落ちて、彫刻をたくさん作っていたということもはじめて知る。まとまった数のドガの彫刻が、一部屋分。

遺品の展示も含めて、132点。オルセイ美術館からは46点。素描の展示がやや多すぎる感もあったが、「古典」→「実験・革新」→「総合」にいたる芸術家の軌跡は、示唆に富む。女嫌いで独身を通した、というドガの顔の変遷も味わい深く。

20年ぶり、というかなり久々のドガ回顧展になるが、それは顔料が繊細なパステルだから。輸送中にパラパラと落ちるので、海外の美術館はなかなか貸与してくれないのだ。ということを学芸員の話から知る。

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乾いて澄み切った冷気がほどよく心地よい、みなとみらい。冬の兆しの気配。

ニューヨーク・タイムズの「T マガジン」が、ツイッター ‘The Moment’ で、ファッションIQテストというのを発信している。私自身はツイッターはまったくやらないが、IQテストがある程度まとまった段階で、不定期にチェックして楽しませていただいている。

マニアックな問題ばかりなのだが、モードニュースがオタク級に好きな人は、挑戦しがいがあるかも? 最近のテストから、比較的簡単なレベルに属するテストを、いくつか抜粋して紹介。

Q.1 次のデザイナーのうち、アルマーニ、プラダ、YSLすべてのブランドで働いたデザイナーは誰?

a) ステファノ・ピラーティ   b) トム・フォード  c) クリストファー・ケイン

Q.2  次のモデルのうち、11歳のときにリチャード・アヴェドンに撮影されたのは、誰?

a) ブルック・シールズ   b) シンディ・クロフォード  c) ミラ・ジョヴォヴィッチ

Q.3  バイアス・カットの考案者としてクレジットされているデザイナーは、誰?

a) マリー・クワント  b) オッシー・クラーク   c) マドレーヌ・ヴィオネ

Q.4 当初、シンプルなエプロンだけを作っていたブランドは、どこ?

a) アクリス  b) エスカーダ  c) エレス  d) アルベレタ・フェレッティ

Q.5 ベルギーのブリュッセル生まれのデザイナーは、次のうちの誰?

a) リズ・クレイボーン   b) オレグ・カッシーニ  c) 二コル・ミラー

さて、いくつわかったかな?

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写真は恵比寿ガーデンプレイスのコスモス。とくに意味はないのですが。「間」。

さて答えです。Q1,が a のステファノ・ピラーティ、Q2は c のミラ・ジョヴォヴィッチ、Q3が c のマドレーヌ・ヴィオネで、Q4は a のアクリス、そしてQ5が a のリズ・クレイボーンでした。

ファッションIQが高ければ高いほど、世間からは冷ややかな視線を浴びそうですね……。

◇ロンドン発のメンズ秋冬トレンドとして、テイラードのひざ丈オーヴァーコートが復活、という記事。ファイナンシャル・タイムズ、22日付。

ここしばらくは、冬場でもトレンチとか、ピーコートなどが主流だったが、フォーマルへの回帰の流れか、テレビドラマ「シャーロックホームズ」の影響か、ミリタリーの流れか、今冬はエレガントなロング丈のコートが大きなトレンドになる、と。

日本の市場にもそのうちにちらほら出回るとは思う。でも、スーツにナイロンジャケットが定番、という日本のビジネススタイルには、いつどの程度浸透するのか。こちらはこちらで独立したカルチュアになっている感もある。

ロンドン発のトレンドといっても、作り手にとっては、とにかく「去年とは違う」アイテムを買ってもらわないとビジネスにならない、というのも本音としてあるだろうし。

◇フェイク・ファー人気がリアル・ファーの需要を押し上げている、という記事。インデペンデント、17日付。

テクノロジーの発達で、フェイクファーがとてもしなやかで加工しやすくなり、リアル・ファーとの区別すらつかないくらいに完璧になった。

かくして、いたるところにリアルかフェイクかわからないすてきなファーが気軽に使われるようになる。「ファーは動物虐待に加担」というPETAが作り上げたようなムードは薄まり、文化的にファーはOK、という流れになっている。それが逆に、ヴィンテージ・ファーも含めたリアル・ファーに対する人気を高めることになった、と。

偽物が、本物に対する需要を刺激する。

皮肉だが、本物が真に「ホンモノ」であれば、いろんなケースでこの法則は成り立つように感じる。

◇某女性大臣のヴォーグ出演に関し、英紙の報道を見ていたら、いい格言に出会う。

Shirts should not speak louder than words.

「服は、ことば以上に大きな声で語ってはならない」

政治家はじめ、ことばを武器ないし商売道具とする方は、心に刻んでおいたほうがよいでしょう。自戒をこめて。

「マッドメン」シーズン3のボックスを観はじめる。まずはDisc1からDisc3まで。第6話の「ガイ・マッケンドリック」の話が衝撃的だった。

ロンドン本社から重役が訪れ、社長を引き継ぐ予定の男が、パーティー最中の「おふざけ」による事故で足を失う。重役たちは「ゴルフもできない男に仕事はムリ」と冷たい。夫の昇進とともに寿退社予定だったジョーンが、まさかの昇進フイで夫から「仕事を続けろ」と命じられるが、寿退社を祝う同僚にはとても言えない。退社パーティーでの涙の意味を、同僚は知らない。

「絶好調のときに、思いもよらないことに足元をすくわれて転落する。それが人生だ」みたいなドンとジョーンのやりとりが、そのエピソードに対する「警句」として効く。

「営業のコツは、流れには逆らわず、獲物がきたら確実にとらえること」。ラインナップから外されたロジャーに対し、クーパーが淡々と言う。

ささやかなエピソードひとつひとつに、苦いオチと渋いセリフがさりげなくついてくる。

くだらないことにはかかわらない、というドン・ドレイパーの態度は相変わらずかっこいいし、男性も女性も60年代ファッションを堂々と着こなしている。

衣装デザイナー、ジェイニー・ブライアントのことばがBOXにつく小冊子に紹介されている。

(男性キャストの衣装のポイントを聞かれ)「Tシャツをとてもぴったりに、パンツをとても高めに着せるようにしているの。おへその高さでね。それにパンツに折り目がないのは、あの時代の大きなことだったの。足首のところのたるみはとてもきらいなの。すべての男性は、最初、シャツのえりがとてもきつすぎていやだったのよ」

ドン、ロジャー、クーパーはグレイスーツが多い。なのに、襟の大きさ、選ぶタイの趣味と結び方、ジャケットのシルエットの違い、ウエストコートの有無、チーフのあしらい方などの微差を重ねることによって、同じグレーでも、3人それぞれの個性の違いが際立っている。ファンデーション(下着)からみっちり構築されている女性服は言うに及ばず。社会的な場面における服の威力を考えさせてくれるドラマでもある。

幻想がくずれそうな気もして保留にしていた、「新潮45」付録の白洲次郎DVD、ようやく観た。

最初の数分は写真による次郎の生涯紹介。つづいてようやく「動く次郎」(!)が登場。1957年11月20日の、内閣総理大臣官邸でおこなわれた「憲法調査会」第6回総会。白洲次郎が参考人として召集されたときのNHKの映像とかで、ほんとに短くて、しかも前後の文脈がわかりづらいので(本誌に解説があったが、それが詳しすぎてよけいわからない)、「ええっ?これで終わり?」感もあり。

ほんの短い映像とはいえ、人柄はうっすらと伝わってくる。次郎の左右に座っていた人が「原稿読み上げるだけ」の、絵にかいたようなお役人タイプだったからよけいに違いが際立ったのかもしれないけど、ちゃんと相手に言葉を届けようとする話し方だった。でも声は意外としゃがれていて、話し方もべらんめえ風味入る。スーツの着こなしは、周囲に抜きんでて美しい。

「劇的かどうかということは、これは人間の感情問題なので、劇的と思う人もいるでしょうし、劇的と思わない人もいるでしょうから、劇的なシーンのように本に書いてあることが違っているとは申しませんがね」

こういう表現のしかたに、イギリス紳士階級によく見られるシニカルなものの言い方に通じるものを感じて、にやっとしてしまう。

これだけの映像だけでは、憲法調査会の内容なんてまったくわからないので、「動いてしゃべる次郎が見られる!」だけで喜んでしまう、マニアックな次郎ファン向けかな。

ガーデンプレイスついでに、東京都写真美術館に立ち寄る。2階で「ラヴズ・ボディ 生と性をめぐる表現」展、3階で「二十世紀肖像」展。

前者の方はメディアでもとりあげられていて、期待が大きかったものの、点数が思ったよりも少ない。とはいえ、衝撃とともに「生と死」を考えさせられる写真と出会う。

ポスターにも使われている「転げ落ちるバッファロー」。デイヴィッド・ヴォイナロヴィッチの作品。生と死の境界にいる、というか死へ転がり落ちていくバッファローの姿が、どこか白日夢のようでもありながら、荘厳な印象。死ぬときはこんなふうに、ふわり、くるり、なんだろうか・・・とか、とりとめなく想像が続いていく。

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ウィリアム・ヤンの「独白劇(悲しみ)より<アラン>」という一連の写真も、凄絶。エイズで死んでいく一人の若い男アランの顔の変化を、1988年10月から1990年7月まで、撮り続けたもの。各写真の下に手書きの覚書あり。

「エイズよりも自己憐憫で人は死ぬ」。

死の直前の昏睡状態の顔と、死んでしまった直後の顔も並べられる。「まるで死人のようだと思ったけれど、昏睡状態にあっても生きているアランと、死んでしまったアランとでは、その落差は言葉に尽くせないほど大きかった」。

目をそむけたくなる写真も少なくなかったが、死を考えていると、大なり小なりつきまとう現世の諸問題はいくらか軽減していくのがわかる。他人の理不尽な評価はじめ、慣例にふりまわされるだけのつきあい、自分がもたない美や富に対する羨望、虚栄でしかない体裁づくろいなど、「どうでもいいこと」がはっきりとわかって、ほんとうにどうでもよくなってラクになる。逆に大事なことも、見えてくる。

「二十世紀肖像」のほうは、好みどまんなかの展示。二十世紀初頭から現在までに撮られてきたさまざまなポートレイト写真を通して、時代の美意識や、社会に通底していた感覚、個人の内面までもが、容赦なく浮き上がってくる。太宰治、チャーチル、坂口安吾、桜田淳子、寺山修二&天井桟敷など、時間が経っているからこそ「わかる~」と感無量になる肖像写真も多数。

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「ポートレイトとは、今ここを生きる人間の似姿を、オブジェとして所有しようという願望」が生んだフェティッシュなもの、という解説に感心。

「ミス・アシダ」2011 S/S コレクション@恵比寿ガーデンホール。

エッジイな洗練とかわいらしさ、正統派エレガンスと茶目っ気のあるハズシ、保守的風味と艶っぽい大胆が、選び抜かれた素材と高度なテクニックによってなんの矛盾もなく調和する、という芦田多恵ワールドを堪能。そのまま「すぐに着たい!」と思わせる作品ばかり。

大柄のシルクシフォンとレザーの組み合わせを軽妙に生かした作品が目をひく。ミディ丈、ロング丈のスカートでも、前後の長さをアシンメトリーに変えたり、布をあえて重ねてひらひらさせることで、逆に軽やかさが生まれることを知る。各パーツの縁取り、レースのあしらい方、後ろ姿のアクセントにいたるまで、きめ細やかで丁寧な仕事ぶりが貫かれており、それが作品全体の品格につながっていることも感じる。一流の仕事というものは、分野がまったく違う仕事にも適用できると思わせるインスピレーション源に満ちている。

多くのモデルの髪型が、夜会巻きのバリエーションで、前髪のみ極端に長いなどの退廃風味がアクセントになっている。冨永愛も金髪のロックな夜会巻き風で登場、ひときわ迫力あり。強い眼力をもつこの人が着こなすマリンジャケット+白のハーフパンツが、強烈に印象に残る。

「ゴシップガール」セカンドシーズンの後半、BOX2を見終える。いろいろあったハイスクール生活も卒業式を迎え、これで、完。ほっ。

ここにくると登場人物ほとんど全員が「兄弟姉妹」(あらゆる意味で)になっており、なにがなんだか。くっついたり離れたりのめまぐるしさと、ここまでやるかの当惑の振舞いの連続に、やや食傷ぎみになる。最後の方は、矛盾もちらほら、つっこみどころも満載で、展開もやや雑になってきた印象。

とはいえ、食傷すれすれの振舞いが興味深いからこそ最後まで一気に見られたのだけど。あと味は、必ずしもよいとはいえない。むしろ、やや落ち込む(笑)。例えるならば、スキャンダルやゴシップでぎっしりの扇情的な週刊誌を思わず数冊まとめて読みふけってしまったときのあと味というか。そうやって読ませる側が、読者よりも一枚上手であるのと同じように、このドラマの作り手も、引っ張り方がうまい。

どろどろのなかにあって、ブレアのメイド、ドロータのキャラがおもしろく、この人をもっと見たいなあと感じていたら、DVDにはおまけとして「ドロータ物語」がついていた。短い話なんだけど、実はドロータは故郷のポーランドでは伯爵夫人だった!という話。本編がアッパークラスの華麗なるスキャンダルライフだとすれば、このおまけの世界は、メイドやドアマンたちのささやかなお楽しみの世界。19世紀のイギリス社交小説の、「貴族の世界」と「台所での召使たちの世界」の再現みたい。階級それぞれのお楽しみを、同じ階級の人間どうしで分かち合う。植民地からの移民が「別社会」として下層階級を構成していく、19世紀の階級社会そのまんま。

特典映像には、ファッションやアートの舞台裏も詳しく紹介される。ジェニーがデザインするとすればどんな服?とジェニーに代わってデザインする「ゴーストデザイナー」や、「ゴーストアーチスト」の存在を知る。見ごたえのある部分には、やはりお金も手間ヒマもたっぷりかかっている。

「サライ」誌記事のため、「デンツ」のグローブに関するお話を、「リーミルズ・エイジェンシー」の長渕靖社長にうかがう。

一双3万円~5万円の手縫いの革手袋には、なるほど価格だけの時間と手間ひまがかかっていることを知り、納得。詳しくは本誌にて。

「リーミルズ・エージェンシー」はデンツのほかにも、ジョン・スメドレーのニット製品、ジョンストンズのカシミア製品、パンセレッラの靴下などなど、スノッブな英国ブランドを数多く扱っていて、ちょっとした興奮続き。下の写真はジェイムズ・ボンドも愛用のパンセレッラ。英国仕様のカラフルな柄や、「脛が見えない」ロングホーズもそろう。この靴下についてはまたあらためて取材したくなる。

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「英国王室御用達」のはずなのに、マークがついてないブランドばかりであることに気づく。「最近では、意識の高いブランドは、逆にあえてつけない」傾向があるらしい。ロイヤルワラントをありがたがるのは、イナカモノ(地理的な意味においてではなく、メンタリティにおいて)ということか? この背景については、気になったので、正確な実態を調査中。

ドイツの「シーサー」という下着ブランドとも、驚きの出会い。説明されなければ、「おじいさんの箪笥の中から出てきた」ような印象なのだが、下着としてはかなり高価な品である。くたっとした雰囲気、しぶい色出し、布でくるんだ上に箱に収納するパッケージという細部などに、「いまどき」の男性に好まれるであろう絶妙の「こだわり」感覚が見え隠れする。

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「こだわり」というワードじたいは、「サライ」ではNGなのですが。

◇現存する唯一の「白洲次郎」秘蔵映像DVD、という付録にひかれて「新潮45」購入。DVDはなんだかもったいないくてこわくてまだ見る気になれない。本誌には、これに合わせて、知られざる「白洲次郎」特集。「憲法調査会」の発言の全貌あり、娘の牧山桂子さんによる「父の思い出」のエッセイあり。

桂子さんのエッセイでは、「マッカーサーを叱りつけた」という伝説に関し、そんなことはなくてやはりあれは「伝説」にすぎないらしいことがわかる。

旧朝香宮邸(=庭園美術館)に部屋があり、ほとんど家には帰っていなかった、ということも明かされる。

「父は日本人と外国人を区別することはありませんでした。上等と下等な人間の区別ができたということだと思います」

「白洲家は、父母を含め5人家族だったのですが、家族というものはこの世の仮の姿。実際は、ひとりひとりが独立した人格で、夫婦と言っても別個の存在だった。そこが、よその家庭とは違っていたところで、家族の集合写真を撮ったり、正月に家族が集まったりすることなどありませんでした。現に、白洲家には、家族写真など一枚もないのです」

◇同誌、巻頭の曽野綾子のエッセイ「ドグドグ・グダグダ」も思わぬ収穫。

do-gooder(空想的社会改良家)=独善的な慈善家心理、を批判した最後のあたり。

「最近のマスコミや組織で働く人々の日本語が、非常に防御的な姿勢になっていることを感じることがある。つまり悪人だととられないように、できれば人道的人間であることを示すことができるように、必死なのである」

悪い人だと思われないよう、ドウ・グッダー的な逃げの文章を書くことで、文章が生気を失い、グダグダになる、と。

共感。自戒をこめて。

◇朝日新聞、19日付「世襲の作法」、林家正蔵の「『芸は一代』継げませんから」。3回ぐらい繰り返して読んでしまう。「芸は一代」。息子は父が、父は祖父が、基準になってしまう。それゆえ苦しさがいっそう重い。苦しんだ末に自分の芸、形を、一代で編み出していくしかない、という話。

堀井憲一郎『江戸の気分』(講談社現代新書)読み終える。落語を通して、江戸のリアルな気分のなかにひたって、江戸の庶民になった感覚を想像してみよう、という趣旨の本。

肩肘はった分析を試みる評論家の態度じゃないのが、いい。ゆるい「江戸内部の人」感覚でおしゃべりをするような感じで書かれているが、ゆるさを正しく表現するのも、筆力が要ることである。以下、なかば衝撃とともに知ったこと(の一部)。

・医者は患者を治さない―「落語では『病い』を『引き受ける』という。(中略)病いは自分の内にあると考えているわけで、そのへんは、江戸の人の方が長けている。(中略)近代人は、病気をすべて『外のもの』として捉えるのがいけないやね。外のものがやってきて、自分のからだを侵食していくから、これをまた外に排除してくれ、医者だったら排除できるだろう、と考えているのは、近代人の異常性だとおもう。(中略)よくわからない身体の不都合は、『引き受け』ないとしかたがないのだ」

・武士とは武装軍人である―「武士はそう簡単に刀を抜けない。抜いたら最後、相手を倒さねばならず、いろいろと面倒である。(中略)となると、乱暴な町人側から見れば、武士にいくら悪口雑言を浴びせても、相手が抜かなかったらセーフ、ということになる」「武器をいつも携帯している軍人である武士がそこにいれば、身分の差がありありとわかる。武装軍人は、身体的に別存在である。関わりたくない。まったく別のエリアで生きているし、別のエリアで生きていたいとふつうにおもう。身分差とはそういうものである。頭でわかるものではない。身分の差はカラダでわかる。見た目でわかる」

・なぜ花見をやるのか―「冬が終わった確認のためである。(中略)飲んで眠ってしまっても凍死しない季節の到来、それが桜の開花なのである」

・蚊帳は結界―「蚊が多すぎて、少々殺したところで、事態が変わらない。(中略)殲滅するという無駄なことに労力をかけるよりは、自分たちの身の回りに蚊を近寄らせなければいい、という考えです。自らの非力を知って、自然の中で被害を小さくする方法を考えるってことですね」

・手厳しい長屋―「三月裏は、家の形が菱餅みたいにひしゃげている裏長屋。八月裏は年がら年中、裸で暮らしている裏長屋。長屋ぜんたいで釜が一つしかない釜長屋。長屋四十軒のうち三十八軒は冬の寒いおりに戸を叩き割って燃やしてしまっているのが戸なし長屋」「ついこのあいだまでは、わが邦には、本物の貧乏がそこかしこにあった。誰もが、いくつかの角を曲がると、死と貧しさを一緒に抱えてるエリアがあることを知っていた」「落語を聞いていると、おそろしく貧しい人たちも、バイタリティに溢れて生きていることがわかる」

・無尽―「十人で集まり、三万円ずつ出す。三十万円集まる。それを一人がもらう。その会合を十回続ける。(中略)あまり負担をかけずに、共同体内でまとまったお金を用意するためのシステムだった」

・金がなくても生きていける―「それを昭和の後半から末期にかけて、みんなで懸命に押し潰していった。(中略)社会全体が『金』でものごとを測ると決めたのだから、社会の端まで徹底的にそれで染めていったばかりである。ひとつ価値を社会の隅々まで広めないと気が済まないのは、うちの国の特徴であり、病気であり、また強みでもある」

・「顔」がお金の代わり―「同じところに住み続けているのが信用である。逃げない、ということだ。(中略)だから身の回りにあるもので生活する。豆腐は町内で買う。(中略)いま流行りの『お取り寄せ』というのは、つまり地域社会の破壊ですね。我欲で小さいコミュニティをどんどん潰していきます。お取り寄せの多くは、その土地に関する体験も経験もないまま、情報によって取り寄せて消費するという脳内先行社会によって支えられている」

・死なないまじないとしての食事―「朝は、あたたかいご飯と漬物。昼は、あたかいご飯と漬物におかず一品。番は、冷や飯に、漬物。これが日常食である。落語のなかで、夜によく茶漬けを食べてるシーンがあるのだが、それは夜のご飯が冷や飯だからだ」「食物を、カラダにいいという物語性の中で語ってくれなくていいです。死なないまじないの限度が知りたい」

東海道ラインが機能しなくなっても、東京から大阪まで歩くことを想像できる、という堀井さんの落語的感覚が描きだす江戸ワールドにひたっていると、ほどよい塩梅に力が抜けてくる。「最低限、死なない限度」を淡々と保つ心の持ち方のヒントを教わったような読後感。

◇「大人のロック!」特別編集「永遠のクイーン」(日経BPムック)発売です。来年度のカレンダー付き。フレディ・マーキュリーのファッションについて語っております。機会がありましたら、ご笑覧ください。

◇ゼミ生とともに、「きらめく装いの美 香水瓶の世界」展@東京都庭園美術館。

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古代から現代まで、年代を追って香水と香水瓶の歴史がよくわかる、秀逸な展示。香水の歴史そのものには親しんでいたが、本物のボトルコレクションをこれだけまとまった形で見るのははじめてのことで、新しい発見が多かった。

1981年のキャロンのバカラ社製の「フォンテーヌ・ア・パルファン」には驚く。香水を生ビールのようにディスペンサーから量り売りするための巨大なボトル。

1990年にエルメスが天皇陛下御即位記念香水瓶として作った、ティアードスカートのような三重の塔のような荘厳なボトル。サン・ルイ社製。

1940年のランヴァン、「プレテクスト(口実)」の、なぜか雪だるま型香水瓶。1938年のスキャパレリ、「スリーピング(おやすみなさい)」はユーモラスなキャンドル型。

19世紀の卵型香水キャビネット(卵が開くと中には数種類の香水ボトルが収められている)。などなど。ボトルの形、素材、装飾、そしてネーミングに、あらゆる想像力が駆使されている。ルネ・ラリックの「キャトル・シガル(4匹のセミ)」、やはりラリックの「エピーヌ(棘=トゲ)」。なぜに、セミ(笑)。

アールデコ様式の旧朝香宮邸=庭園美術館の入口で出迎えてくれる、巨大な「香水塔」からはほのかによい香りが漂う。噴水塔の上部の照明部分に香水をたらし、照明の熱で気化させ芳香を漂わせたという「塔」。気化させた香りであるためか、アロマデフューザーなどで放たれるフレグランスよりもまろやかな印象。

図録もずしりと厚く、香水の歴史の本として読み応えがある。巻頭序文には、監修者でもあるマルティーヌ・シャザルによる力強いことば。「限界を乗り越え、美を刷新し、創造する能力を示す人間の最大の美点がそこに発揮されていることがわかるでしょう」

「限界を乗り越えようとする力」。ファッション史に惹かれるのは、まさにそんな力が見え隠れするからだ。理屈ではどうにもできなくなった現状を突破できるような新しい美というエネルギー。嗅覚に直接働きかける香水にも、そんなパワーが確実にある。

オーガニック・フレグランスの最先端をいくパルファン・オノレ・デ・プレから新しいライン、"WE LOVE NY"コレクションが登場。

<マグノリア・ベーカリーでの朝のコーヒー>風の紙カップに入った、いまどきニューヨークのナチュラルスタイルを体現する香水。なかでも「Vamp a NY」は前例がすぐに思い浮かばないほど個性的で強い印象。チュベローズ、ラム、三種類の樹脂からなる、天然のままで妖艶なヴァンプをイメージさせる魅惑的な香りで、つけたとたんに「ゴシップガール」のブレアやセリーナを連想してしまった。今回のラインは、持続性もやや高い。

このラインにはほかに、’I Love les carrottes’(ニューヨーカーの健康の源、キャロットから広がるイメージを生かした香り)、’Love COCO’(毒にも解毒剤にもなるココナツの香りがベース)がある。

最先端のライフスタイルのモデルとしてのNYを表現するイメージワードが、<純粋・自然>。

でありながら、その中身は「週末はココナツ香るハバマやプエルトリコ」であったり、「夜は五番街で妖艶なヴァンプ」となるあたりが、スノビッシュというか。

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「ナガホリ」秋の創美展@帝国ホテル。「孔雀の間」にひしめく豪華な宝石の数々に目の保養をさせていただく。「スカヴィア」や「レポシ」などの遊び心のある大胆なデザインのジュエリーを目にすると、いつもながら、脳内を電気が走る感じ。スケールと歴史と発想が違う。値札には「0」が数え切れないほどついているのでチェックする気にもなれない。ひたすら美術品として崇める。

今回、感動的な出会いだったのは、「ロイヤル・アッシャー」のダイヤモンドである。なんでも「セックス&ザ・シティ」に登場してからアメリカでの売り上げが急上昇したというダイヤモンドなのだが。もとよりそんなミーハーなブランドではない。

1854年、オランダのアムステルダム発祥、創設者は技術者のアイザック・ジョセフ・アッシャー。1907年に、史上最大のダイヤモンド原石「カリナン」(3106カラット、621.2グラム)のカットを、当時の英国王エドワード7世にゆだねられる。

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カリナンのレプリカは写真左から2番目。あとの道具は、これをクリービングするためだけに準備された特別なツールたち。

このカリナンは、9個の大きなダイヤモンドと、96個の小さなダイヤモンドにカットされたのだが、そのうち最大のものは、「偉大なアフリカの星」と呼ばれて英王室の王笏に、二番目に大きなものは大英帝国王冠に飾られている。会場にはそのレプリカが飾られる。レプリカとはいえ、金銀ダイヤ3000個、真珠270個、ルビー、サファイア、エメラルド、オコジョの毛皮がついた、かのインペリアル・ステイト・クラウン実物大を間近に感じて、しばし静かに感慨にふける。

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王笏は、十字架のもとでの君主の俗界における権威を象徴し、戴冠式の時に、国王または女王の右手に渡される。この引き渡しの時の式文が、タイトルに記した文句。

GOD SAVE THE QUEEN.

「ジュン アシダ」2011 S/S  コレクション@グランドハイアット東京 ボールルーム。

永遠のエレガンスの模範だなあ、とあらためて感動。流行を超えてコンサバティブだけどモダンエッジが効いていて、国境・時代を超えて万人が好感をもつであろう普遍性のある優雅を感じさせる。素材、カッティング、ディテールがひとつひとつ凝っていてバリエーションは多いのに、トータルで見ると「ザ・芦田淳ワールド」として不動の統一感を保っている。BGMもクラシック音楽のモダンバージョンで、コレクションの雰囲気にぴたり合っていた。

31カ国の駐日大使、大使夫人も来場。

長期にわたる先駆的でグローバルなキャリアに対し、芦田淳先生はこのたび、フランス共和国芸術文化勲章オフィシエを叙勲された。

おめでとうございます!

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「北原照久の超驚愕現代アート展」@六本木ヒルズ森アーツセンターギャラリー。

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精巧でキッチュな、おどろおどろしくて驚きあきれる現代アートの世界。山下信一のフェティッシュなフィギュア、荒木博志のロボット型巨大オーディオ、逆柱いみりの少年白日夢的世界、堀哲郎の正確すぎるドールハウス、松井えり菜の「ブキミながら、なるほど」な「ふたつのきもち」の絵、武藤政彦のSFちっくな自動人形からくり箱、柳生忠平の妖怪画、山本高樹の超リアルな昭和の心象風景・・・・・・。ぶっとんだ発想そのもの、それを実現するテクニックや執念(!)、認めてくれる人(=北原氏)との出会い、すべてをふくめて「才能」だなあ、と感じ入る。

巨匠・横尾忠則は期待を裏切らず力強く、加山雄三、石坂浩二というマルチな才能のスターの作品も味わい深い。

唐沢俊一が逆柱いみりの「赤いタイツの男」という本の帯に書いたというコピー、「困った 内容がない」に笑いつつ共感する。

なんだか得体のしれない電磁波のようなものを深いところまで浴びた気分がする。

森美術館のほうでは、「ネイチャーセンス展」。体感型のアートな空間を歩く。こっちはどちらかといえば「癒し」系アート。でもちょっと歩き疲れる。

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「ゴシップガール」2nd season Box 1、見始めると止まらなくなり一気にDisc 5まで。ファーストシーズンよりも過激にパワーアップしている。

新しい人物が現れると必ずなにか裏があり、その裏をあやつっている人物がおなじみのキャラクターのなかにいて・・・というあらゆる人間関係が「ここまでやるか」という緊密な濃厚さ。セリーナとブレアはファッションウィークやイエール大学への進学をめぐって、嫉妬や敵意丸出しの露骨なキャットファイトまで繰り広げ、それでもなおすべてを受け入れて親友であり続ける。いまわしい過去も憎たらしい欠点もすべて受け入れた上でなおフレンドシップを強めていく。表面ばかりのあたりさわりのない薄い関係にかえって疲れている現代人にとっては、本性をさらけだしてとっくみ合うような「友情」は、現実にはなかなかありえないからこそ、あこがれとして見てしまうものなのかもしれないなあ、と思う。

どろどろの闘争や駆け引きのなかにも、必ずほかの仲間の誰かが救われたりする挿話も入るので、ひとつのエピソードが終わると意外とさわやかな印象が残る。回がすすむにつれて、また家族のトラブルが大きくなるにつれて、それぞれの本来の姿がいっそう鮮明に現れていくのも、快感のひとつ。誰も円満に「成長」なんかせず、ただますます「らしく」なっていく。ブレアの「得意科目」、意地悪と復讐の見せ場がくると、「待ってました!」と拍手したくなる(笑)。

チャックとブレアの関係が、「危険な関係」のヴァルモンとメルトイユ侯爵夫人のよう。お互いに愛しあっていることはわかっているのだけれど「負け」られない。綱引きのようなゲームが続いていく。ブレアの欲望と誘惑の描写がかなり生々しくて、イタいほど面白い。

チャック・バスのファッションは今秋のトレンド「プレッピー」のお手本としてあちこちで取り上げられている。いちいち、細かいところまで手抜きなくスタイリッシュで、見惚れる。演じているエド・ウェストウィック本人も、スタイルアイコンとして誌面でよく見かけるようになった。たしかに、あの個性的迫力はやみつきになる。ネイト役のチェイス・クロフォード並の美男はたくさんいそうだが、エド・ウェストウィックはとりかえがきかない。一見、標準的美男の範疇には入らないルックスを、とりかえ不可という強みに転じている。そこがかっこいい。

講義終了後、シャガール展@東京藝術大学大学美術館。終了間近だからか、雨なのにたいへんな混雑。入場制限にひっかかり、およそ20分待ちでようやく入場できる。

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強い色彩で描かれた、幻想的というか白日夢のようなシャガールワールド。超有名な「ロシアとロバとその他のものに」(1911)はやはり圧巻で、しばらく絵の前で呪縛にあう。

1966年から67年にかけて、シャガールがニューヨーク・メトロポリタン歌劇場のために「魔笛」の舞台美術の仕事をしていたということを初めて知る。舞台の背景幕の下絵もシャガール印の濃厚さがうずまいてこってり楽しいが、シャガールによる衣装デザイン画の数々がなかなかかキュートで、思わぬ拾いものをした気分。

ただ期待が大きすぎたせいか、肝心のシャガールの作品の点数が少なかったことと(ほかのロシア前衛芸術家たちとの出会いもそれなりによかったけれど)、関連ドキュメンタリー映画を観たかったのに、立ち見の人が外まであふれていてまったく観られなかったことが、残念。52分の上映なので、交替まで小一時間も待たねばならないのだ(待てません)。この映像だけDVDで発売してないだろうか。

そんなわけで若干の不完全燃焼感は残るものの、戦争やら革命やら亡命やら愛妻の急逝やら再婚やらのさまざまな劇的なできごとを経ながら描き続け、90歳でなお傑作「イカルスの墜落」を完成させているシャガールの画家人生に、静かに励まされた。

藝大周辺は、独特の雰囲気のあるところで、しばし散策。雨にけぶる「旧東京音楽学校奏楽堂」のたたずまいも、味わい深い。

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◇「サライ」11月号発売です。連載「紳士のもの選び」で白山眼鏡店のメガネについて書いています。機会がありましたら、ご笑覧ください。

◇次号で扱う、数種類の絵柄トランプたちをひとつひとつチェックする。テーマごとに54枚のカード(ジョーカー含む)に異なる絵がついているというジャンルのトランプ。詳しくは本誌で紹介するが、そのなかのひとつ、「クラシックムービースター」のトランプにあったセリフから。

スペードの4、クローデット・コルベールのポートレイトに「パームビーチ・ストーリー」(1942)のセリフ―’Men don’t get smarter when they grow older.  They just lose their hair.’ (「男は年とともに賢くなるわけではないわ。髪が薄くなるだけよ」)

クローバーの7、ラナ・ターナーのポートレイトに「ペイトンプレイス」(1957)のセリフ―’All men are alike.  The approach is different. the result is always the same.’ 「男はみんな似ているわ。近づき方が違うだけで、結果はいつも同じ」)

CGなどに頼れない、脚本がしっかりと書かれていた時代の映画のセリフはよく練られていて、だからこそ色褪せないなあ、と感じ入る。

◇何ヶ月か前に、まったく別々に予約注文していた「マッドメン」シーズン3のボックス、「ゴシップガール」シーズン2のボックス1、「ビートルズアンソロジー」のボックスがほぼ同時に届く。そんな。どれを先に見るべきか。

◇とはいえ、目前の締め切りをクリアするまで封印。インスピレーションを求めてフィリップ・メイソン『英国の紳士』を読み直したら、新しい発見がいくつもあって、しばし没頭してしまう。やはり「ジェントルマン学」は奥深くて面白いとあらためて実感する。

チェスタトンの引用に、にやりとさせられる。

「近代イギリス国家の少数独裁的性格は、多くの独裁国とは違い、富者の貧者に対する残虐性に基づいてはいない。富者の貧者に対する思いやりにさえ基づかない。貧者の富者に対する永続的で確実な思いやりに基づいている」

紳士の美徳を支えてきたのは、紳士階級ではない人々の、紳士に対する「思いやり」。この視点がまたイギリス的。

パリコレの会場外でエディターやモデルの「私服」を撮影する日本人カメラマンが増加しているという記事、「ニューヨーク・タイムズ」10月4日付。byエリック・ウィルソン。

大勢の日本人カメラマンが、デザイナーや作品を撮ることを目的としているわけではなく、パリコレの会場の外で何時間も待って、おしゃれエディターやモデル、とりわけ彼女らの「靴」「バッグ」「コート」などをターゲットに「ストスナ」の題材を撮りまくっているという記事は、やや冷笑的。コミカル、とまで書かれる。「Spur」誌は「日本のストリートスタイル・マガジン」と紹介されている。モード誌だと思っていたが、海外と認識に大きな違いがあるようだ・・・。

湊かなえ『夜行観覧車』(双葉社)。高級住宅地でのエリート医師家庭内殺人事件とその近隣の家庭内暴力、おせっかいおばさんの干渉などがぐるぐるとからみあってあぶりだされる人間の心の暗部。凄惨な状況のはずなんだけど、フィクションとして読んでて爽快。『告白』級のアナーキーを期待したが、こっちはちょっと救いと希望がさして終わる。

なぜ観覧車なのか、と思っていたら、「一周まわって降りたときには、同じ景色が少し変わって見えるんじゃないかしら」という一文にいきあたる。なるほど。

ぐるぐるぐると観覧車が上っては降りるように、「明日は我が身」になるかもしれないことへの警告も感じる。「こうやって他人を貶めているうちにも、今度は自分が加害者やその身内になる可能性があることを、なぜ考えないのだろう」。妻が夫を殺した高橋家や母が娘を殺しかけた遠藤家の人々は、多くの日本人がそうであるように、「善良」だったり「小心」だったり幸せになりたかったりする、ごくふつうの人なのだ。

2011年春夏のパリ・ファッションウィークは「ポスト・サイズ・ゼロ時代の幕開け」として記憶されるという記事、ガーディアン9月30日付。

パリコレ2日目に行われたコレクションでは、「プラスサイズ」(太めサイズ)モデル、4人の子を出産後復活した40歳のモデル、スパイクヘアの素人モデル、妊娠中のハリウッドスターなど、サイズゼロ(がりがり)モデルではなく、バリエーション豊かな女性たちがランウェイで見られたという。

バレンシアガのニコラ・ゲスキエールは、レギュラーモデルのなかに、街でみかけた素人、ヴェテランのステラ・テナントやアンバー・ヴァレッタ、妊娠中のミランダー・カーを。

ザック・ポーゼンは、クリスタル・レンをはじめとするプラス・サイズのモデルを。

どちらのショウでも、「非・サイズゼロ」モデルは、特別扱いされるわけではなく、ごく自然に流れの中に溶け込んで歩いていたとのこと。

ポーゼンのコメントが引用されていた。彼が服を作る対象は、「人生と、そのなかに含まれる最善のこと~恋愛や友情や食事~を愛している女性たち」。

とすれば、モデルの体型や年齢が多様になるのも、ごく自然な流れということである。

ロンドン・ファッション・ウィークではすでに意識的にモデル多様化のトレンドが創り出されている。でもパリ・コレクションだけは特別な「権威」、という雰囲気がどことなくあった。そのパリでの多様化現象の兆しである。

この流れは拡大するのか、一時的な試みに終わるのか、気にとめて見ておきたいところ。

◇ピンクリボン月間がスタートということで、都内でも東京タワーはじめいくつかの高層建築がピンクに染まる。

そのなかのひとつ、ペニンシュラホテルで開催のチャリティパーティーにちょこっと参加させていただく。ドレスコードは「ファビュラス・ピンク」。ペニンシュラ広報、マークさんのピンクの帽子にさすがと感心。

◇NHKドラマスペシャル「白洲次郎」のDVD3枚セットを買い、さっそく見始める。Disc.1は「カントリージェントルマンへの道」で、父の文平の隆盛と没落、ケンブリッジでの生活、正子との出会い、政治との関わり、そしていち早く鶴川に「疎開」を始めるまで。

正子役の中谷美紀と次郎役の伊勢谷友介が英語で会話する。こそばゆい感じ。とはいえ、次郎初心者にも次郎ファンにも、次郎のキャリアの筋道を追っていける、とてもよくできたドラマだと思う。優雅な20年代~30年代のファッション、インテリア、建築も堪能できる。美しすぎるケンブリッジの風景にナミダ。

よくできているからこそ、気になったこと1点。次郎が「ノブレス・オブリッジ」と何度も発していたが、これは「ノブレス・オブリージ(ュ)」と「リ」のあとはのばして発音するのが正しいのではないか? (少なくとも何度もそのように指導を受けた記憶がある)