次男をダシにして応募した「リリー・フランキーのイラスト講座」、応募者多数ということだったが運よく当選、「保護者」として参加する@慶応義塾大学日吉キャンパス、ワークショップ・コレクション。

「生徒」は21名ばかりの小学生。それぞれが作文を書き、それに合わせたイラストを描く。ひとりひとりの作品が、リリーさんのコメントつきで紹介される2時間のワークショップ。

リリー先生が登場したとたんに空気がほんわかとなごむ。保護者席(リリーさんの言葉を借りれば、「おかあさんち」)の熱気がすごかった。やはり応募するのは(私も含め)、リリーファンの保護者だから当然か。

いい文章のコツ、というリリー先生の指導――「本当に思っていることを書きなさい。きらわれてもいいし、お母さんにおこられてもいいから、本当のことを書く。人にこう見られたいとか、こう思ってもらいたいとか、これを書いたら売れないだろうな、とかいうよけいな思いが入ると、つまらなくなるんです。こんなものを書いたら恥ずかしい、くらいのほうがちょうどいいんです。そもそも表現をするとは恥ずかしいこと。恥ずかしいことを書くからこそ、いいんです」

「書くことがないひといますか? 書くことがない人は先生といっしょにタバコすいに行きましょう」などなど、ぼそっとつぶやく何気ないことばにいちいち爆笑していたのが「おかあさんち」(おとうさんも大勢いらっしゃいましたが)のほうで、生徒のほうは「なにがおかしいのか?」という顔で、けっこう真剣にとりくんでいた。

うまい似顔絵のコツ、というリリー先生の指導――「だいたいがね、似てるのか似てないのかわからない顔になります。ほらね。そういうときは、絵の隣にその人の名前を書くんです。<ハマ>とか。プロはさらにそこに矢印を入れます(といって、名前から顔のイラストに向かって矢印を入れる)。そうすると、その人だってわかります」

かなりオトナな裏ワザの指導である。っていうかそれ、リリー先生じゃなかったらサギじゃん(笑)。

作品一つ一つに対するコメントにも、笑いと愛情があふれていた。ほめてるのか茶化してるのかわからないコメントも多々あったけれど(「このミッキーはカダフィ大佐みたいだね」とか)、最後は必ず生徒のキラリと光るところを見つけて、勇気を与えて作品を返してくれる。「遅刻ぐらいで腹を立てる友達はほんとうの友達じゃありません」という楽屋オチのコメントもぴょんぴょん出てきて、やはりそういうのは「おかあさんち」だけでウケていた。

最後は、リリー先生も予定外だったみたいだけど、ひとりひとりの似顔絵を、サイン入りで描いてプレゼントしてくれた。予定時間を大幅にオーバーして。リンパ腺が腫れているとかで、体調は必ずしもよくなかった様子なのに、一人として手抜きはなかった。誠実な方である。

どさくさにまぎれて「エコラム」にサインしていただく。「こんな下品な本を読んでくださってすいません・・・」と言いつつ、おでんくんのイラストつきのサインを書いてくださった。「おかあさんち」のひとりとして、リリー先生の人柄にふれた楽しい時間だった。ありがとうございました。

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写真は、「イラストは紙からはみだすくらいのつもりで描きましょう」と教えるリリー先生。

ポン・ジュノ監督『母なる証明』DVDで。キム・ヘジャが母、ちょっと知的に障害をかかえるらしいその息子をウォンビン。

殺人事件の容疑者にされた息子の無実を信じ、警察も弁護士も頼りにならないなか、たったひとりで真犯人捜しを続ける母。感動的な母子愛のお涙もの……になるのかなとうっすらと予想していたら、まったく想像もできなかったとんでもない結末に鳥肌が立った。

ジュノ監督は、モラルも安い感動もけちらしたその先の、壮絶な「真実」の向こう側を描こうとしている。母は息子に知的障害を与えたことに負い目を感じ、一心同体となってひたすら寄り添い守り抜こうとすることで愛する。息子は何も考えていないように見えて、実は本能的にそのあたりの母の弱みを熟知していて、何をやっても母が守ってくれることに依存している。

これを「母子の絆」と呼ぶのなら、絆は美しいどころではなくて、むしろ恐ろしいくらいだ。離れることができないからこそ、その二人の間にしか生まれえない闇も生まれる。人間の真実はこわくて哀しくて切ない。安易な感動などよせつけない。久々に、「凄い…」と思った映画。

懸案の原稿を2つ、精魂こめて書き上げてぐったり脱力していたところ、ジョン・ガリアーノ逮捕(?)のニュースが飛び込んできた。木曜夜、パリのマレー地区で大酒を飲み、ユダヤ人カップルを侮辱するような暴言を吐いたとのこと。

ディオールのボス、シドニー・トレダノは冷たい。「反ユダヤ人的な発言、態度は断固として許さない。取り調べの結果が出るまでは、ガリアーノを仕事に就かせない」と即表明。

ステージでのロックスター的パフォーマンス上手の彼は、バックステージではシャイなことでも知られる。いったい具体的にどんな暴言を吐いたのか?

あるニュースサイトには、英語でこんなふうに言ったとラジオで引用されていた、とあった。: "Dirty Jewish face, you should be dead" and "Fucking Asian bastard, I will kill you."

ガリアーノの弁護士は容疑を否認。とはいえ、ガリアーノは相当酔っぱらっていたというから、本人は「覚えがない」のもムリはない・・・。弁護士は逆に、このような容疑をかけられたことに対して訴訟をする、と強気。

3月4日にディオールのショウが予定されている。ガリアーノなしのディオールなど考えられない。どうなるのか。

ガリアーノが言ったとされる暴言を読んでいて、ひっかかったこと。こんな種類の言葉は、日本ではその辺の居酒屋なんかでけっこう耳にする。へたするともっとひどい暴言がシラフのまま駅員に向かって投げられていたり、教室で生徒が教師に向かって言っていたりする。それって日本だと逮捕の対象にならない(逮捕されたことを聞いたことがない)と思うが、フランスだと(実際に暴力をふるわなくても)暴言だけで罪になるのだろうか? 

それとも、同じ民族どうしで暴言を投げつけていたらOKだけど、相手がユダヤ人だったから「人種差別的な攻撃をした」ということで逮捕の対象になったのだろうか? 人種差別に敏感なところだから、どうもそうらしいのだが。

知らないことが多すぎる。だれかフランスの法律に詳しい人、教えてほしい。

「瞳の奥の秘密」DVDで。アカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞したスペイン=アルゼンチン合作映画。監督はファン・ホセ・カンパネラ、主演にリカルド・ダリンとソレダ・ビジャミル。

美しい若妻が残虐な殺され方をした事件。終身刑になるはずの犯人は当時の腐敗政治のなかで釈放されてしまう。被害者の夫。犯人を逮捕した検事。その美人エリート上司。25年経って、うやむやになっていた事件のその後、検事の個人的な想いに、決着がつこうとしている……。謎と愛、過去と現在がうまくからみあった、重厚な余韻に酔える映画。特殊メイクの技術なのか、若々しい25年前と、老境にさしかかった現在を演じわける俳優たちの風貌の違いが、あまりにもリアルで驚く。

タイトルが示すとおり、人物たちの「瞳」が語る。黙っていても、瞳がほんとうのことを語ってしまう。写真に映る瞳もそうだし、さりげない一瞥、まばたき、伏し目、すべてに意味が宿っていて、それを読み取る相手が次の行動を起こしていく。彼らがラテン系の濃くて大きな瞳の持ち主だからこそかなあ、という感も(笑)。

なかでも、容疑者が自分に向ける視線から真犯人と直感し、男としてのプライドを侮蔑することで挑発して自白をさせてしまう美人上司のやり方に度肝を抜かれる。

TEMO(怖い) にAを入れると TE AMO(愛している)になるというあたりも、アカデミー協会員が評価する「外国語映画」のツボにはまったのかな、とちらと思う。

家の前周辺の雪かきをしてから、銀座で仕事三件。取材を受ける・取材をする・原稿の打ち合わせ。なぜか銀座には雪の痕跡がない。

取材を受けたのは、英国王室の純愛をめぐるNHKBSの番組を制作するスタッフの方々から。ヴィクトリア女王&アルバート公、エドワード8世(=ウィンザー公)&ウォリス・シンプソンに関する思いを話す。超大好き分野。スタッフの方々がとてもよく勉強していらして、質問が鋭く、自分でも「思ってもいなかった」言葉が出てくることがある。ひとりだけで考えをめぐらしていては到底たどりつけないような予想外の新しい発見が生まれる、というのが対話や取材の醍醐味。

続いて取材、高橋洋服店社長。「サライ」連載記事のため。注文仕立て服、とりわけスリーピーススーツに関するお話をうかがう。詳しくは本誌にて。高橋社長に取材をするのは、「セブンシーズ」「翼の王国」などにつづいて3度目ぐらい。テーマはそれぞれ異なるが。スーツに関しては「知っている」と思いこんでいることが多いだけに、かえって自戒しなくてはいけない。はたして虚心にうかがって、「予想外の」お話がたっぷり引き出せるほどの質問ができたか? 反省しつつ。

別件の原稿打ち合わせを終えて帰宅したらまだ雪がしっかり残っている。

往復の電車の中で読んだのが、加藤和彦の『優雅の条件』(ワニブックスPLUS新書)。没後、一躍メンズファッション誌のスターとなった加藤和彦。かっこいい男を、男たちは生きている間にはなかなかほめないが、没後にほめる。白洲次郎しかり。生きてるうちは、嫉妬が邪魔するのか。没後は生々しさが消えるから美化されるのか。

「優雅、もしくは優雅に見えるというのは生活を楽しんでいる人にだけ与えられる特権みたいなもの」というのが、加藤和彦の優雅の定義。

衣食住・遊び・仕事・空白、すべてを自分の意志でもって楽しむことをすすめる。人生のムダを享受できる人ほど、優雅の条件を持った人、と。

「食事をゆっくりと摂るというのも、ある種のムダである。食事の仕方ほど優雅さが出るものはない。食事が優雅に出来れば、ほとんど人生は優雅になる。それほど毎日の食事などという、日常茶飯が大事なのである。時間や空間、会話や散歩、など目に見えないものにお金やらテマ、ヒマを使えるようになってくると自然と優雅に映るものだ」

昨今主流の効率的生き方のススメとは真逆をいく。自己啓発セミナー系の発想に洗脳されている人々の神経は、逆なでするかもしれない(いや、単にスルーされるだけか)。というか、日本には全般的に、優雅なるものに対して見下す風土が根強くある。軽蔑と冷笑のまじった、「優雅なこった。」というセリフを何度聞いたことか(別にこのセリフを非難しているわけではない。日本では優雅なるものが生きづらい、という意味で)。

主流の風潮に優雅に反逆しているという意味でも、加藤和彦は、やはりダンディの条件を満たしている。

2011年の「ファッション事件」として記録されるべきイベント。パキスタンのイスラマバードで、はじめての4日間にわたるファッションショウが開催された。英「ガーディアン」1月24日付に関係者取材のリポートあり。印象に残った抜粋をメモ。

主催者側のひとり、カムラン・サニのことば。「イスラマバード・ファッション・ウィークは、人々のパキスタンに対する見方を変えるでしょう。モダンで、世俗的で、進歩的な明るい側面が、パキスタンにはあります。人々はタリバンや、爆撃や、貧困や、洪水のことばかり話題にしたがりますが。でもパキスタンは元気で勢いがあり、今こうして、ファッション産業がグローバルに発信する時が訪れたのです。西洋のみなさんは驚く必要はありません。グローバルカルチュアはパキスタンに十分に浸透しており、ファッションデザイナーもすばらしい力をもっています」

いくつかの写真を見ると、メイクもスタイリングもまだどこか野暮ったくて、装飾過剰な印象もぬぐえない。でも、貧困や宗教的な問題ばかりが報じられていたパキスタンで、ファッションウィークが無事に開催されるというニュース、勢いがあるデザイナーもモデルもジャーナリストもこんなにもたくさんいるというニュースは、パキスタンの変化の兆しを世界に向かって伝えるだけの力がある。たとえそれがごく一部の富裕層の誕生の結果でしかないものだとしても。