野菜ばかりか、ついに水道水にも放射線物質の影響が及ぶ。「ただちに健康には影響がない」という表現がブキミに感じられる。そりゃあ「ただちに」は出ないだろう。でも、このレベルが解消されずに積み重なっていけば「いずれは」影響が出る可能性が高くなるということかと、本能的に読み直してしまう。権威による「安全です」という保証が100%ではありえないということは、すでに原発が故障してしまった点で国民は身にしみている。アスベストとか薬害エイズの記憶もなまなましい。

ペットボトルの水などもうどこにも売っていない。備蓄もない。念のため、親戚・友人に「ミズオクレ」のSOSを出す。じわりじわりと「安全圏」が狭まっている。町は一見とても静かだが、得体のしれない無声のパニックが広がっているのを感じる。

最悪を心の片隅に想定しつつ、平静と楽観を保つ日々。それができるのは、ハイパーレスキュー隊や自衛隊、警察の闘いぶりを見ているからでもあると思う。彼らが命がけで守ろうとしている背後の民、その民にふさわしい民であらねば彼らに申し訳ない、と思わされる。

「祈る」ことの意味というのも、はじめてしみじみと考える。被災者の無事と安全を祈る。レスキュー隊員の任務の成功を祈る。家族や友人の平穏無事を祈る。食糧や備品が確保できることを祈る。とにかく毎日なにかを祈っているのである。

誰に対して? 神も仏もとくに存在を信じているわけではない。だが、たとえばそういう大いなる存在を仮定して、そういう存在に対して、この願いをかなえてくださいと頼んでいる。ムシのいい頼み事を一方的にするわけではない。神様か仏様か名前は知らないが、大いなる存在が自分の願いをかなえようとすれば、その労力と成果にふさわしい人間であらねばならないだろう、と想像するのだ。ロクでもない人間の祈りをかなえるほど、神も仏もヒマではないだろう(祈りをかなえるにふさわしい人間ですら、時として不条理な不運に見舞われる)。

だから、祈るときに、その成果にふさわしい自分になるよう努力するから、と担保している。無意識のうちに。

神様や仏様などの大いなる存在から、「祈りを聞き届ける」に値する人間と思ってもらえるように努力すること。

最前線で命を張って闘う隊員たちから、「守る」に値する民であると思ってもらえるように努力すること。

それが「祈る」ということかとぼんやりと思い始め、正気を保つことにひたすら努める。ひたひた迫りくる不安と葛藤しつつ。

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