◇乗馬誌「エクウス」8月号にて「インディアンの自然観から学ぶもの。」というタイトルで、インディアンの死生観とそのファッションについてのエッセイを書いています。機会がありましたら、ご笑覧ください。

ちなみに、「ネイティブアメリカン」と呼ぶのが慣例になっているようだが、これは白人側が彼らを管理するという視点がはいった政治的用語で、「ネイティブ」側にとってはむしろ不快なのだという。彼らの方に想像力の重心をおいて、あえて「インディアン」と書いてます。

◇知人がFBで教えてくれた、富山新聞28日掲載の、青木新門「いのちの旅」。「絶対的な矛盾に出会う」という記事に、はっとさせられ、しばし考えさせられる。

青木新門さんは、かの「おくりびと」の原作者である。映画では、誇張が常とはいえ、納棺のシーンの演技が、現場ではありえないくらいオーバーだったそうである。

その映画の影響か、若い女性の納棺師が、大げさな所作で、90歳で亡くなった女性の顔に、白粉を塗り、真っ赤な口紅をつけた。夫である老僧は不愉快でたまらず、納棺師という職業を生んだ張本人たる青木さんに苦言を呈する。

青木さんが納棺の仕事をしていたころは、老人には化粧はしなかったという。葬送の意味や死者への思いやりがあれば、老人に赤い口紅など、若い納棺師が自分の仕事ぶりをみせつけたいという自己満足の表れでしかない、と。青木さんは書く。

「私が納棺をしていた昭和40年代には、枯れ枝のような遺体を見かけたものだった。人の死にも晩秋に枯葉が散るようなイメージがあった。

それが経済の高度成長期頃から点滴の針跡が痛々しいぶよぶよ死体となり、葬式の現場では、ご本尊中心の祭壇が遺影中心の祭壇に様変わりし、死者と遺族が語り合う場であったはずのお通夜が告別式のようになり、宗教の介入を拒むお別れ会や偲ぶ会が流行り始めた。

それは<生>に絶対の価値を置く思想のもたらした社会現象に他ならない。90歳の老婆への赤い口紅もその現象の延長線上にあるといっていい

死は忌むべき悪ではない。この考え方は、ナンシー・ウッドの「今日は死ぬのにもってこいの日」という本に書かれているインディアンの死生観にも通じる。生と死の大きな自然の循環のなかで、しばしの間生かされている、と自覚すれば、周囲の景色も違って見えてくる。

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