映画話ついでに、内田樹先生の新刊『うほほいシネクラブ 街場の映画論』(文春新書)。立ち飲み屋、バー、クラブー、居酒屋などなど、あちこちの飲み屋で映画の感想を言いたい放題、というノリが楽しい本(多様な初出媒体の原稿を収録してあるので、文体が章ごとに違う)。

とはいえ、さすが内田先生で、映画を超えてさまざまな示唆に富んでいて、論じられている映画そのものを観ていなくても読みどころ満載。

「ミリオンダラー・ベイビー」のヒラリー・スワンクを評して、「さわがしくない性」と。「『あ、そういえば、私、女なんですけど、それが何か問題でも?』という肩の力の抜けた性意識。彼女がクリント・イーストウッドとモーガン・フリーマンという圧倒的な存在感を持つ名優に挟まれてなお堂々たる存在感を示すことのできた理由はそこにあると思います」。

「シン・シティ」を評して、「いかにも嘘くさく、嘘の話をする」と。「映画が固有の現実性を獲得するためには、フィルムメーカーと観客が『同じ側』に立って映画内的現実をみつめているという状況設定が必要なのです。『こちら』側にフィルムメーカーと観客、『あちら』に映画そのもの。この二項対立関係が成立すると、映画そのものが(もう人間たちが作り出したものではなく)、固有の悪夢のような現実性を持ち始めて自律的に存在するようになるのです」。

「サマータイムマシーン・ブルース」を通して「なぜ、タイム・トラベルをすると善人になるのでしょうか?」という問題を考える。「過去を見ると、今自分がいる場所も、そこに当然のようにいる友人たちも、彼らから見える『私』も、信じられないほどの偶然が織り重なってつくりあげられた『一瞬の作品』にほかならないこと、はかなく移ろいやすい物であることが実感されます。(中略)僕たちは誰もが偶然的な存在であり、一瞬後には『別の人』になっている。だからこそ、この一瞬を全身全霊をあげて生きなさい、というのが、『クリスマス・キャロル』以来あらゆる『タイム・トラベル物語』の教訓」。

「バベル」を通して「ことばが通じない」状況を考える。「最後まで話はうまく通じない。でも、話が通じないからこそ、人間たちはその乗り越えがたい距離を隔てたまま、向き合い、見つめあうことを止めることができません。言葉が通じないことがむしろ出会いたいという欲望を亢進させるのです。『あなたの言いたいことはよくわかった』という宣言は『だから、私の前から消えてよろしい』という拒絶の意志を含意しています。僕たちはむしろ『あなたの言いたいことがよくわからない。だからあなたのそばにいたい』という言葉を待ち望んでいるのです」。

「父親たちの星条旗」のイーストウッドのスタイルを通して、「少しだけ足りない」ことの有用性を教える。「すべてが『少しだけ足りない』。そのせいで、観客は映画の中に、自分の責任で、言葉を書き加え、感情を補充し、見えないもの見、聞こえない音を聴くように誘われる。そんなふうにして、クリント・イーストウッドは観客を映画の『創造』に参加させてしまうんです」。「それが完成するために僕たちのわずかな『参加』を控えめに求めるからです。それを享受するために僕たちがささやかな『身銭を切る』が必要になる。それによって、そこにはあるオリジナリティが加算されます。つまり、クリント・イーストウッドの映画を見ているとき、僕たちはそれぞれに少しだけ違う『私だけの映画』を観ているのです」

などなど、インスピレーションに満ちた解説はどこまでも続く。

読むだけで満足してしまって、紹介されていた映画をもう観る必要がないように感じてしまう点で、昨日挙げた「映画ガイド」とはジャンルが異なる。『死ぬまでに観たい……」は、上の内田先生のことばを借りるならば、「完成するために、参加が必要」。読者が観てはじめて完成するような映画ガイド。内田先生本は、これだけですでに完成している感じ。どっちがいいかという問題ではなく、私のような映画ファンには、どっちも同じだけ重要。

◇ZELEグループの美容師さん対象に、スーパースタイリスト講座のレクチャー。elegant, sophistication, glamorous, gorgeous, campなどなどのさまざまな美の概念、gothic, baroque, rococoなどの歴史上の美の様式について、ぎっしりと4時間にわたり解説。話している方は楽しいが、聴いているほうはぐったりしたかも?(笑) おつかれさまでした&ありがとうございました。

◇「ゴシップガール」シーズン3、ボックス1をすべて見終わり、ボックス2へ。次から次へと刺激的なエピソードが繰り出されて、興味を引っ張られ、止まらない。プロデューサーは天才ではないか。

ボックス1で印象に残った、このドラマならではの「法則」。「キスしたときにassをつかまない男は大ウソをついている」「3Pにおける3人目はストレンジャーであること。でなければ相手を二人とも失う」(その裏テーマ。どっちが本当に好きかは3Pで明らかになる)。現実味がないだけに納得のしようがない(笑)テーマであるからして、ただただ笑って感心する。

◇たたみかけるように、「マッドメン」シーズン4のボックスも届く。うれしい悲鳴。こちらも、現実から遠いだけに刺激的な真実満載の中毒ドラマである。当分、待ち時間や移動時間(そういう時間がDVDタイム)の方が楽しみになりそう。

横浜トリエンナーレでも観に行こうとのこのこ出かけたら、横浜美術館のチケット売り場に見たこともないほどの長蛇の列! 美術館前にはいろんな表情のモニュメントが。コワかわ系。

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チケットを買うだけで一時間以上待つ勢いだったので、トリエンナーレはいったんあきらめ、これまで「いつでも行ける」と思ってスルーしていた観光スポットなどにあらためて行ってみる。

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ランドマークタワー展望台からの眺め。下、ピンクのインクで書かれた、たくさんのハートの願いごとたち。どさくさにまぎれて一枚書いてみる(笑)。

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帰途、車の中で聞いていたFM東京で、たまたま「未来授業」というのをやっていて、講師が宮台真司さんだった。声も話し方も素敵で、話の内容も面白く、ついつい真剣に引き込まれる。なにせ運転しながら聞いていたのでところどころ集中力を欠いているが、印象に残ったことは次のようなこと。

・エネルギーの代替問題を論じるより前に、まずは私たちがどういう社会を築きたいのかを論じることが大事。そのビジョンに応じて、必要なエネルギーが決まってくるはずだ。

・「任せてブーたれる」、という日本人特有の政治文化では、幸せな社会など訪れない。「幸せではない」と感じるのは、自分たちが一体何をやっているのかという実感や手ごたえがないから。「引き受けて、自分たちが決定する」というやり方にシフトしないと、幸せな社会など訪れない。

・第二次世界大戦開戦の直前を回顧して、意志決定に関わった多くの人が「今さら止められるような空気ではなかった」と言っている。原発の推進に関わった人たちも、「今さら止められるような空気ではない」と同じことを言っている。私たちにはこのように、空気に流されてしまいがちな傾向があることを意識し、止めるべき時には、空気に逆らってでも止めるための行動をとらねばならない。

・コンビニエントで快適な社会、取り換え可能な人やモノが簡単に手に入る社会をめざしてきたわけだが、それは結局、私たちを幸福にはしなかった。これからは、不便であろうと「取り換えのきかない」共同体の絆を築いていかなくては。スローフードの概念も実はそれだった。顔が見える生産者から、知っている土地のものを、少々高くても買う。自分たちの共同体の幸せ、ひいては自分自身の幸せのために。

ナビゲーターの茂木健一郎さんのシメも、短かったが、印象に残る。「脳が完全にいい状態で働くためには、まずは自分で自分自身を受け入れていることが必要になる。ずんぐりむっくりのどらえもんのようであっても、そういう自分をまるごと認めて受け入れることで、脳が完全に働き始める。宮台さんが言った<取り換えがきかない>というのはまさにそこにも通じる問題。カワイイとか、お金持ちとかという属性ではなく、<取り換えがきかない>あなたでなくてはだめだ、という人間の絆を築くことが、幸せのためには大切になってくる」というような趣旨だったかと思う。拡大解釈だったらゴメンなさい。とにかく、偶然にこのお二人からうけとったメッセージは以上のようなこと。

<取り換えがきかない>あなたでなくては、と思った人に拒絶されたり去られたりする不幸、という問題がまあ、現実には多々起きるわけだが。それはそれで乗り越えるほどにタフになっていけるのでしょうかね……。答えの出なさそうな問題だが、少なくとも、それを機に、モノゴトを考えるようになる。喪失感を埋めるかのように。

だいぶ前に「おもしろい!」と思って切り抜いておいた記事だが。朝日新聞9月28日付の、斎藤美奈子氏による文芸時評。「夢まぼろし 大家の弛緩芸」。

その業界の大御所となっている方の、明らかにゆるい仕事をけなすのは難しい。大先輩としてリスペクトしなくてはならないが、いや仕事人としてそれはどうなのだろう…と思うとき。さすが斎藤氏、芸をもってそれを揶揄してしまった。なかなかできないことだわ。勇気と芸とユーモアのセンスに敬意を表したい。

揶揄の対象になってるのは、筒井康隆、丸谷才一、片岡義男。こんな超ベテラン、だれもけなせないじゃないですか! それぞれの大家の最新作に対し、いちおう、ホメるところはホメてはいるのだが、最後のチクっとした批判が、効いている。

まずは筒井康隆の「小説に関する夢十夜」に対し。

「……それなりに読めてしまうのが困ったところなのだが、これがほかの作品を押しのけて『文学界』の巻頭を飾っているのを見ると、つい『来賓の挨拶』とか『接待』という言葉を思い出す。どこか特別枠の扱いなのだ」

次、丸谷才一の「持ち重りする薔薇の花」に対し。

「大物作家の久方ぶりの長編小説という特別枠の限定を外してみると、細部のズレっぷりはいかんともしがたい。(中略) が、そうしたズレ方も、記憶があいまいな老経済人の一人語りだから、という一点でみごとに免罪されてしまうのだ。記憶の再現と夢まぼろしは紙一重。語り手の記憶に難があった場合、中身がどうあれそれは小説として成立し、老練の技は大向うを唸らせ、往年のファンを魅了する。だがそれは、やはり大家だけに許された弛緩芸だろう」

で、最後、片岡義男の「大根で仕上げる」に対し。

いちおう、「ルーティーンのなかに、手順や段取り、必要とするものなどすべてが、いっさいなんの無理もなく、端正に収まっていた。必要最小限の動作で、手際良く、素早く、なめらかにすべてをこなす」という小説の中の一説を引用して、それがそのままこの小説のたたずまいでもある、とホメ(?)てはいる。が、最後に。

「…などと語るスケベ心いっぱいのこの語り手は何者なのだろうか。まあでもこれも一世を風靡した片岡義男の青春小説の残滓と思えば頬が緩まぬでもない」

まとめがすばらしすぎる。

「年長者には寛容をもって接する。それが礼儀と心得れば苦笑も微笑に変わる。小説を読む側にも礼儀が求められる。無礼者には大変である」

業界をとわず、年長者の弛緩芸に苦笑している多くの人は、この一文を読めばちょっとはスッキリするかもしれません(?)