前項の続き。グールド論その2、ヨーアヒム・カイザー著「現代の名ピアニスト」から「グレン・グールドとフリードリヒ・グルダ」。ど素人(私)のイタタ…な解釈なので、本格派グールドファンは、武士の情けでスルーしてください。

私はグルダというピアニストのこともよく知らないのだが、カイザーは、グールドとグルダを「大芸術の煌々たる松明を受けついでさらに光を進めていく人間」であり、「才能とともに、あきらかに呪いもまた継承された」「自己破壊的で常軌を逸したものが備わっている」ピアニストと位置づけ。

歴史的に、大音楽家というものは、奇行が多かったと説明し、「モーツアルトのしばしば粗野におちいる手紙、ヴァーグナーの悪趣味な自己宣伝、あるいはプイッツナーの底意地の悪さなどは、まっとうな神聖さのもつ暗黒面」である、と。「グールドの偏狭な奇癖や、グルダの行き過ぎた理論癖とかが、ピアニスト仲間の嘲笑の的となる」のは、そのような「伝統」(?)の延長上にある、と擁護し、こうした奇行を大きく考えすぎるのはフェアではない、とする。「最高度の業績と能力というものはあきらかに、よき平均値にある人たちが夢想だにしないような内的緊張、ないしは過度の緊張でもって購(あなが)われねばならぬ」ということを理解しなくてはならない、と説く。

グールドに対する当時の世間の見方もちらと紹介される。「このピアニストの衣服、ふるまい、狂躁、ヒステリーなどについて、なにかおかしなことが新しく伝えられるたびに、彼らは『眩惑者(はったり)』とよぶのである」。だが、カイザーは次のように擁護。「ベートーヴェンの16分音符のまえには、だれもが平等である。ステージの上の孤独者にとっては、この場合『眩惑(まやかし)』はてんで役に立たない」。百メートル競走にたとえ、「はったり屋』が10秒2を出せば、もう彼ははったりではない。彼がひょっとして競争の前とか後とかにはったりのような顔をしても、である」。

で、積極的に評価。「このデーモンは、絶大な説得力をもって、すべてを誇張する。速いテンポしかり、ゆるやかな諦念しかり、さらには素朴さ、切実さ、いやそればかりか―逆説的に聞こえようとも―謙虚さまでが誇張される」。

「このアーティストがつねにくりかえし自分自身に課しているものが、過剰性に説得力を与えること、異常でエクセントリックなものを人間化すること、奔放で馭しがたいものをしかもなお制御しようとすること」

書かれたのは70年代。「見た目ではない、中身を評価しなさい」とあらゆるレトリックを尽くして説いているのが興味深い。物書きとして、この表現の凝ったバリエーションにはむちゃくちゃに惹かれる。ただ、メッセージとしてはどうか。見た目じゃない、演奏そのものを聴け、としきりに説いているわけだが、「見た目も中身のうち」の現代だったら、もっとグールドに対して違う評価が出てきてもいいと思うのだが。そういうこと書いている人はいるのかな。

◇今朝(10日)の朝日新聞、求人欄の児玉教仁(こだまのりひと)氏。ハーバード大経営大学院のMBA。受けた教育が、「机の上で理屈をこねてぐちゃぐちゃ言ってないで、リスクを取ってとにかく何かにチャレンジしなさい」。

海外の人とつながるためには「素直であること。一生懸命であること。諦めないこと。弱みも見せちゃうこと。好きなことには夢中になること」。

「愛嬌や情熱がグローバル時代の通行証」。

グールドがグローバルかつエターナルになったのも、結局、上のようなひたむきさでピアノに向かったからだよなあ、と妙なところに落としどころを(強引に)見出す。正統派ファンの方、すいません、またまた論点がズレていて。

先週は公私にわたってリスクをとり続け、痛い思いの連続だったけれど、アクションを起こしてみると、結果にかかわらず、なにかふっきれて風景が少し違って見えてきたことはたしか。親身になって見守ってくれた友人たちに心から感謝します。リスクをとるときには、結果がどうあれ味方になってくれる友人がいるとものすごく心強い、ということも改めて実感しました。エネルギーをチャージしたら次、いきます。

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