13日の金曜日に、まだ新しい手袋を片方だけ、どこかに落としてしまった。かな~り落ち込んだが、この程度のアンラッキーで済んでよかったのかも(もっと大きな不運から救ってくれた)…と気を取り直すことにする。

いまの時期の手袋は手が冷たくてつけるのだが、そうでなければ、手はふつう人目にさらしている。顔と手、というのは身体のほかの部分に比べて覆うことをあまり求められていないのだが、その理由について、鷲田清一先生はこのように。

「もっとも動物的な部位、生殖や排泄にかかわる部位を覆い隠す衣服が<文化>の象徴だとすれば、顔と手はそれじたいがすでに<文化>を創りだすものなので、もはや覆い隠す必要がないというわけなのだろう」

引用は『感覚の幽い風景』(中央公論新社)。

文化を創り出す手。だからなのかな、私の場合、人の記憶というのは顔以上に手と結びついている。その人の手の形とか質感とか、なによりも手の動きや表情が、顔以上に多くのことを語りかけてくる気がする。惚れ惚れしてしまうのは、顔よりもまず手であったりする。手の動きがいいなあと感じる人は、だいたい、ナカミも好きになる。

鷲田先生独特の詩的でフェティッシュな文章でさまざまな感覚についての考察が記されている本なのだが、感覚そのものについての出発点からはっとさせられる。

「わたしたちの感覚は、ふつうなにかに襲われることで起動すると考えられているが、あとから振り返れば、むしろ迎えに行ったとしか思えないことの方が多い。迎えに行けないときには、感覚はじぶんでじぶんを掻きむしり、無理やりにでもみずからを起動させる」

感覚は、迎えに行くことではじめて出会えたり起動したりするもの。ぼんやりとした受け身のままではなにも「感じない」ことのほうがたしかに圧倒的に多い。

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