朝日新聞23日(木)夕刊。三谷幸喜の「ありふれた生活」592。でんでんさんにふれて。

でんでんは、「冷たい熱帯魚」ではじめてその強烈な存在を知った方なのだが、実はものすごく芸歴の長い方で、20年間の長い長い下積みがあったということが書かれている。味わい深いお話。

でんでんの役の位置づけの表現に納得。「まさに世界映画史に残る名悪役。(中略)ハンニバル・レクター博士と肩を並べるくらいの凄いキャラ。それでいて僕の知っている軽妙なでんでんさんも、ちゃんとそこにいる」

で、最後の締めが。

「ちなみにでんでんさんは今も僕を『君』づけで呼んでくれる貴重な人。他には佐藤B作さんと明石家さんまくらいか。人間、50歳にもなるとなかなか『君』では呼んで貰えないのです。でんでんさんに『三谷君』と昔と同じ感じで呼ばれた時、一瞬にして時代が逆行したようで、なんだか幸せな気分になった」。

三谷さんでもそうなのか。「君」づけ、「ちゃん」づけで呼んでくれる人がだんだん少なくなってくることに関する貴重なコメントでありました。

最近、教え子でもないのに、また、レクチャーをする場面や関係でもないのに、「先生」づけで呼ぶ人が増えて、そのたびに自分がなにやら「枯れ」に向かっていくような、砂をかむような思いがしていた。そう呼びたい(そう呼ばなくてはならないと思ってしまう、そう呼んどくとラクに感じる)気持ちもわかるのだが、社会的立場など関係のない場でもそのように呼ばれるほうは、正直言って、どよんとサムくなるのです。昨日まで「かおりさん」と呼んでくれてた人が「中野先生」と呼ぶようになったときには、もう人生終わったな、じたばたせずに腹くくろう、と覚悟したものです……。ある程度の社会的立場があって、年をとってくれば、そのように呼ばれることに慣れていかねばならない、それが大人の責任とか成熟とかいうこと…というのはまあ、理解してはいるのです。だからこそ、先生呼ばわりしない人や関係のありがたみが、いっそう大きくなるのですね。

2 返信
  1. 菊池恵美です
    菊池恵美です says:

    2年前、上野さん森達也さん加藤陽子さんのイベントで、上野千鶴子さんが「”先生”て呼ぶの止めてくださる?わたしが人を先生と呼ぶときは大抵馬鹿にしたいときです」と話されていたのを思い出します。その時の三人の応酬は真剣つつも笑いあり素晴らしかったのですが、上野さんが戦略的にお二人の著書を批判をされるので加藤さん森さんも「上野せんせ~」と返すあたりもお茶目で凄かったです(笑)。

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  2. kaori
    kaori says:

    >菊池恵美さま
    あ~楽しそうな情景が目に浮かびます
    (#^.^#)
    未熟者の私は、学生でもない人から
    「先生」と呼ばれると、
    「敬して遠ざけたいのですね」
    と壁を感じてしまうのですが、
    そこまで「遊ばれる」対象になると
    それはそれでおもしろくなりそうですね。

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