昨日は東京都現代美術館にて「Future Beauty 日本ファッションの未来性」展プレセミナー。

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KCIが所有する日本ファッションのこの30年(とこれから)の展示じたいは7月28日から開催されるのだが、この日はそれに先立ち、鷲田清一先生、東京都現代美術館チーフ・キュレーターの長谷川祐子さん、そして深井晃子先生によるレクチャー、というとても贅沢な学びの機会を与えていただいた。

なんてったって、ひたすら仰ぎ見、背中を追い続けてきた鷲田清一先生に初めてお会いできるという願ってもないチャンス。これを逃しては一生の後悔(おおげさ…)と思って出かけたのだが、期待以上のお話をきかせてくださった鷲田先生。一時間の講演のなかにぎっしりと豊かに思索の果実がつまっていて、一言一言に、心からの共感を感じられた幸福なひとときだった。

終了後、ご挨拶に行くと、なんと私の本を読んでくださっているとのことで、感涙。完全なるミーハーと化してちゃっかり一緒に記念写真を撮ってもらう^_^;  先生のあたたかい対応に感謝。

長谷川さんのアタマよすぎ(!)な解説もすばらしかったし、深井先生の解説も明瞭でわかりやすく説得力があった。

鷲田先生のレクチャー、「私はなぜファッションに興味をもったのか」のお話で、印象に残った概要を以下にランダムにメモ。

[E:clover]鷲田先生は京都の島原で育った。近くには野球で有名な平安高校がある。小さいころから、日常的に、豪華のきわみのように着飾った芸者と、丸坊主の、修行僧のような姿を見てきた。つまり、贅の極みと貧相の極みという両極を見てきた。どんな過激なファッションが出てきても、その両極の間におさまるから驚かないのだ。何を見ても驚くことはないが、ただ、ファッションとは(ここまでやらねばならないのか、と思わせるほどの)「気合い」であるということは感じ取っていた。

[E:clover]1980年代の半ばからファッションに関心をもちはじめたのだが、それは、今に通じるradical(=根源的な)問いとして。

現在(震災後)、近代建築に対するラディカルな問いがつきつけられている。近代建築には3つの条件があった。1.壊れない 2.自然のどんな力にも不動 3.密封されている。 しかし、その条件が根本から問いなおされている。佐々木幹郎という詩人が、「やわらかく壊れる」という言葉を使ったが、ゆっくり壊れる間に逃げることができて、津波が来たらぷかぷかういていて、隙間だらけ、という建築があってもいいのではないか?と問われている。そのようなradicalな問いを、ファッションについて論じるつもりになった1980年代に問おうとしていた。

1980年代にはファッションデザインに革命が起きていて、もう単なる「服飾」を超えていた。一方の極には、津村耕佑の「ファイナル・ホーム」という「服であり、家でもある」デザインがあり、また一方の極には、ボディデザインが始まっていた。サプリなどを用いて体の中の物質的要素そのものをデザインしまおうという発想が生まれていた。この振幅は大きい。そのすべてを視野に入れる必要があった。

つまり、現在、「家とは何か?」という根本的な問いがつきつけられているように、1980年代には「着るとは何か? 服とは何か?」という根本的な問いに向き合う必要があった。

[E:clover]日本ファッションは、イッセイ・ミヤケ以降、エキゾティシズム(異国趣味)に頼ることを自ら禁じた。ローカリズムでもない、エキゾティシズムでもない。きわめて個性的な普遍をめざしはじめた。

個性的な普遍とは、たとえば、フランスであれば、衣食住や人間関係全般においてエレガンスを何よりも優先するということ。シトロエンの窓は逆三角形で「開かない」のだが、それでも「美しい」のでフランス人はそれをよしとする。ドイツであれば、exactness。精密さ、厳格さ、緻密さを最優先する。犬と子供の教育はドイツ女性に任せておけ、というほど。時計や刃物ばかりか政治においてもこれが特徴となっている。また、イタリアであれば、官能性を何よりも優先する。というふうに、普遍的な価値としてどれを前景にもってくるのか、は文化によって違う。

そしてまさしく1980年代、日本のデザイナーが個性的な普遍を探求し始めたのである。

[E:clover]彼らは、ファッションの価値をゼロ還元した。セクシー、美しい、エレガント、ゴージャス、という西洋ファッションの前提となっていた価値をゼロとし、まったく異なる服装の原理をもちこんだ。

西洋の服は、だぶつきがない動きやすさを追求してきた。カッティングによって、いかに複雑なボディをラッピングするか、体をいかに梱包するか、ということにすべての技を注いできた。だが、日本のデザイナーはそれとはまったく違う場所から服を構想した。

ここから連想されるのは、椅子である。西洋には椅子のデザインに実に多様なバリエーションがある。会議のための椅子、食事用の椅子、居眠りのための椅子、などなど。それに対して日本の座布団はどうだ。まったく改善されない。というか改善する気がない。「自分で工夫して座れ」ということなのだ。これはこれで一つの価値観なのである。体を賢くしておく、「アホにしない」デザインなのだ。使う側が絶えず考えないといけないから

同じ発想のものに竹笛がある。これも、使う側が努力し続けなくてはならない。日本の着物だって同じだ。ワンサイズで改良しない。自分で調整しろ、という原理なのである。

ヨーロッパはシルエットを重視するのに対し、日本の着物においては、しぐさ、たたずまい、なり、というものが重要になる。形ではなく、動く身体のしなりとかゆるみ、粋。ふるまいを演出するものとして着物がある。つまり、日本の着物には、ふるまいをどうデザインするかという思想があるのだ。身体を梱包するのではなく、身体をふるまいの座とする、という思想が。

<続きは次の記事で>

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