ロイヤルウェディングから一周年、ということで各紙がケンブリッジ公爵夫人キャサリンのファッション効果を特集していた。ビジュアルと具体的な数字が楽しかったのがテレグラフ。

ブルネット(褐色)のヘアカラーの売り上げ増。Nice’n Easyというブランドでは30%増。Libelulaのベルベットコート、310ポンド、ケイトの写真が出てから数時間で完売。Penelope Chilversのブーツ、475ポンド、2010年にケイトがそれを履いた姿で写真に出てから75%増。コーラル(サンゴ色)のジーンズ、アスダで471%増。肌色ストッキング、Tights Pleaseで90%増、デベナムズで65%増。ファシネーター(ヘアアクセサリー)、ピーコックで95%増。バーバリーの裾がフリルになったコート、ケイトが着用してから一日で完売、アスダのコピーは300%増。

などなどの多大な経済効果をおよぼしているらしい。

http://fashion.telegraph.co.uk/ (ここから、The ‘Kate Effect’ on fashion trends one year on という記事へどうぞ)

コンサバティブで今どきのかわいらしさもあり、真似できそう~と思わせるのがケイトスタイルですね。とんがってないので万人に好感を与えるし。経済効果は世界中に及び、日本も例外ではない。ロイヤルエンゲージメントの際にケイトのアイコンドレスとして一躍有名になったISSA LONDONは、ついに銀座三越に出店。このブランドにとって世界初となるショップらしい。レギンスなど死んでもはかない膝丈ワンピース至上主義の私もISSAファンなので、ひそかにうれしい。

写真は、やはり注文が殺到したというジョセフのジャケット。…だが心惹かれたのはむしろ後ろのモーニング姿の紳士たち。カラフルなネクタイとウエストコート、ブートニエールのコーディネイトが素晴らしい。ケイトのモダン・コンサバはこういうモダン&伝統的ジェントルマンスタイルが健在な文化でこそ生きるスタイルでもありますね。

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Signature 5月号の葉山考太郎さんの連載「スパークリングなスクリーン」10回目。

リュック・ベンソンの「ニキータ」に登場するテタンジュが、セリフと合ってないという指摘から、なぜそうなったかという推理。

ソムリエは「テタンジュ・コント・ド・シャンパーニュ・ミレジメです」というのだが、画面に映っているのが、ラベルが金色の「ブリュット・ミレジメ」。これは愛好家にとっては、「『ベンツSLです』と言われて『プリウス』が登場した感じ」らしい。

酒を飲まないと豪語しているリュック・ベンソンの映画で起きた、そのような取り違え事件。これについて葉山さんはきめ細かく推理をめぐらしていくわけである。

ユーモラスな推理の過程のなかで、各有名シャンパーニュの「イメージ」が表現されているのだが、それがなかなか興味深かったので、メモさせていただきたい。

「フランス人でも、知っている銘柄は多くても、モエ、ランソン、ポメリー、ルイ・ロデレール、ローラン・ペリエ、クリュッグ、テタンジェ、ヴーヴ・クリコ、ボランジェの9種ぐらいだろう。ボランジェは男性的すぎるし、クリュッグでは超マニアック。ヴーヴ・クリコでもいいが、いきなり『未亡人』は可哀相。モエ、ランソン、ポメリーは神秘性に欠ける。ロデレールは『円熟マダム』だし、ローラン・ペリエは颯爽とした青年だ。なら、『最もエレガント』なイメージのテタンジュで決まり」

ぼんやりと感じていながら「イメージの違い」がよくわかってなかったシャンパーニュの違いが、ほぼわかったような気分になれた文章。

とはいえ、同じテタンジュという銘柄の、最高級版コント・ド・シャンパーニュ・ミレジメと、1本98フランのブリュット・ミレジメの違いまではわかりようもない(~_~;) 

その違いが画面にでてきた一瞬でわかるほどのマニアックぶりに感動。逆に、一つのことに対して「専門家」と称するには、これほどのマニアじゃないと説得力がないわよね。自戒をこめて。

24日(火)に参加したジャパン・グランド・デザイン研究会、ゼロ回を含むと第三回目。アークヒルズクラブにて。

震災以降問われている日本の社会のグランドデザイン。日本社会のあり方を見直し、どのような社会を実現すべきかを構想するグランドデザインを考え、国内外に発信していこうという研究会です。

立ち上がりのメンバーは次の通り。朝倉陽保氏((株)産業革新機構専務取締役/COO)、池口正浩氏((株)シーイーエスコーポレーション代表取締役社長)、加治慶光氏(官邸国際広報室国際広報戦略推進官)、柴田優氏((株)クロスポイント・アドバイザーズ共同パートナー)、寺田豊計氏(伊藤忠テクノロジーベンチャーズ(株)取締役)、服部崇氏(経済産業研究所コンサルティングフェロー)、村上典吏子氏(映画プロデューサー)、中野。

業種はまったくばらばらなれど、枠組みを超えて思想や価値基準などをシェアして、日本の未来の創造に積極的に関わっていきたいという有志の集まりです。どこからの援助がでるわけでもない、まったくの手弁当での研究会。来てくださる講師も、趣旨を理解して、手弁当(講師報酬は出ない上に、自分の飲食代は自分で払うという…^_^;)で来てくださいます。

この日は、インダストリアルデザイナーのケン・オクヤマこと奥山清行さんをゲストスピーカーにお招きして、100年後のデザインを考える、をテーマに実に刺激的な話をたっぷりうかがいました。詳しくは後日、開設する予定のフェイスブックページと専用HPにて発信したいと思います。写真は、被災地のグランドデザインの構想を熱く理知的に語る奥山さん。

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ここではこの日、とくに個人的に印象に残った話。その1。日本人は一人一人は知性が高いのに、集団となるととんでもなくアホな選択をしてしまう。

その2。地方のシャッター街のさびれた光景。これまで私はあれを地方の衰退、格差社会の象徴とばかり思っていた。でも実は違う、と。シャッターを下ろしている店の店主は郊外の地主だったりして、商店街の店を閉めたからといって何の不自由もない。あそこにテコ入れしようとするともっとも抵抗するのがそういう地主たちであるという。実はあのシャッターは「地方の隠れた豊かさ」の象徴である(!)。地方にもよるとは思うのだけれど、この指摘はかなり衝撃だった。

その3。ケン奥山さんがフェラーリのデザイナーになったとき、もっとも反発したのが日本人だったという話。イタリア人は案外すんなりと受け入れてくれた。でも日本人は、フェラーリに「イタリア」を夢見る。なんで日本人がデザインするんだ、と怒るのだという。だからこそ、日本人に認められたとき、奥山さんは心の底からうれしかったという。このあたり、先だっての伊勢丹メンズ×Men’s EXのパーティーでお会いした、ヘンリー・プールの花形カッター、鈴木一郎さんの苦労を連想した。彼は日本での受注会に顔を出さない。日本人が、イギリス人に接客してもらいたがるからである。日本人はかくも「イタリア」や「イギリス」にファンタジーを必要としているのかと再認識。ま、私にもそのケはあるが(^_^;)。

これらについてフェイスブックで「友達」が寄せてくれたたくさんのコメントがなかなか興味深く、さまざまな視点から考えさせれた。もしよかったらそちらもあわせてご覧ください。

下の写真は、奥山さんが構想する「平成希望の五重塔」。500メートル間隔で海岸線にこれが建つ。発電装置を備え、いざというときには海岸線にいてもかけあがれば助かる。防波堤をはりめぐらすよりも、はるかに明るい景観を保つことができていいのでは。奥山さんは、「フェラーリの奥山、と呼ばれるよりもむしろ、平成希望の五重塔の奥山、と記憶されたい」と語る。

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ほかにも、人間の行動の本質までついた、「!」でクレバーなデザインが多数。後日、紹介しますのでもうちょっと待ってね!

まとめ買いしておいた樋口毅宏本の最後の一冊。扇情的なタイトルだが、真正面から「愛を求める人々」の哀しさといとおしさを描いている。冒頭はノリノリのポルノグラフィー、しかもカンダウリズム(Candaulism)という、愛する女性をほかの男に委ねることで快楽を得られるという特殊な性的嗜好をもった人たちの饗宴描写から。次第にそれが樋口さんお得意のグロさ極限の血も凍るバイオレンスの世界となり、その後、展開ががらりと変わってシリアスな裁判で彼らの「自由な愛」がきわめて「日本人的に」裁かれていく。「自分を棚に上げて他人を断罪」するとなるとヒステリックなまでにモラルを振りかざす日本人の醜い小市民ぶりの描写がドライで笑える。さらに裁判のあと、二転三転する「裏の真実」が判明していき…とこのあたりはミステリーの謎解きタッチ。人物がすべて、互いのパートナーに見せる顔とは別の面を、別の人に対しては見せていく。一人十色。愛の求め方も、誰も素直ではなくて、自分と最愛の人に誠実であればあろうとするほど、ゆがんだり社会的に裁かれたりする方向に行ってしまう。

恒例の、映画や音楽に対するマニアックなオタク語りもちりばめられ、次はなんだどうなる?と飽きさせずに一気に読ませる。破綻しているところや中途半端感でくすぶる箇所もあるけれど、B級感をきわめつつあらゆる要素をつめこんで限界に挑もうとした野心を評価したいかな。この人の文章はやっぱり神経のぎりぎり限界を試すような劇画的暴力描写をしているときが、いちばん生き生きしている。

カンダウリズム、という専門用語をはじめて知ったのだが。ポルシェが好きすぎて、自分で運転するとその姿が見られないので友人に運転してもらい、走る姿の全容を外から眺めることで満足する、というメンタリティと似ている、というような解説が本書のなかにあって、ああなるほど、と納得。人の心はどこまでもややこしくて奥深い。

やっぱり三池崇史。どういう人に共感を抱くのか、列挙してみると、自分がどういう志向というか憧れをもつ人間かがぼんやりうっすらとわかってくる気がすることもありますね。

「ダンディズム」関連の本や記事などで引き合いに出している男たちの例がわかりやすいですね(^_^;)。

三池崇史監督もキネ旬連載時には何度も褒めまくっていた一人(「牛頭」ビフォア・アフターで映画観が変わった(~_~;))。やっぱりこの人の言葉とか作品とかたたずまいとか世間に対する態度とか、好きだなあ。朝日新聞21日付、オピニオン欄、「邦画の強さは本物か」でもやはり三池節全開で、嬉しくなったのであった。

「お金を出す側からは色々と注文があります。『時流に合わせて受けたい』という気持ちはわかりますが、実際に撮っているとおもしろくて夢中になって、つい我を忘れちゃう。スポンサーとの約束を守るよりも、『今、乗っているこの役者を、もっともっと走らせて撮るぞ!』ということになる。その結果できあがったものが、最初の約束と違ってもそれは仕方がない」

「企画はきっかけや方便に過ぎず、過程こそ映画ですから。テレビ局のプロデューサーがつくるような『企画から完成まで、客を入れるための徹底的なリサーチに基づいてつくった映画』との違いは大きいでしょうね」

映画界の窮状を嘆かず、どうこうしようという義務も責任も感じず、ひたすら現場で一番楽しいことを追求していった過程の結果こそ三池印の映画。だから筋が多少とおってなくても、ところどころ破綻していても、無茶が滑っていても、それもありだなあと笑顔で観られるのよね。

新作「愛と誠」の試写状もいただいているが、仕事びっしりで、行く時間がとれるかどうか。「愛と誠」は中学生時代に一番熱狂していた愛読書だった。それを三池監督が撮るとなれば、観るまで死ねないくらいなもの。時間ない、を言い訳にしちゃいかんな。

新年度の「ファッション文化史」開講。午前の日本語版、午後の英語版、あわせて500人近い受講者。ほとんどの新入生は「大学でファッションって、何やるのかな~? ファッションチェックでもしてくれるのかな~? かっこよくなれるかな~」という物見遊山気分で来ている。ほかの専門的な講義よりもラクに単位がとれそうだしね。

そういうニューカマーに対し、例年は、「ファッションチェックやスタイリングという分野とは、カテゴリーを異にします」とお断りするところから始めていた。自分の本でも「ファッションチェックはやりません(できません)から」と何度も書いている。軽視しているのではなく、大学で扱う学問とは違うジャンル、ということで自分で一線を引いていた。

でも、今年は「脱皮」の年でもあり、自分が勝手に決めた枠を取り払ってみることにした。彼らの偏見にまず乗っかってみて、「じゃあ、ファッションチェックから、やってみようか!」と始めてみたところ、学生が挙手して壇上に出てきてくれ、自分の装いを語ってくれて大盛り上がり。

そこから「こちらの土壌」に引っ張っていくのもアリね、と実感できた貴重な体験でありました。

にしても、無意識のうちに、自分に課している「枠」というのが、実はずいぶん多いんですよね。それに気づいて、少しの勇気でもって取り払ってみると、世界の見え方がちょっとだけ違ってくる。

写真は、できたてほやほやの大学図書館。まだ中には入れないが、外観はなかなか素敵。景観や環境は、思考や感覚に知らず知らず大きな影響を及ぼしている。

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7日(土)夜に新宿伊勢丹でおこなわれた、ISETAN MITSUKOSHI X MEN’S EX の「10テイラー&10マイスター」のパーティー。

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その道を極めた日本のマエストロたちと直に会話できた、有意義なひと時でした。アトリエ・イプシロンの船橋幸彦さん。日本人初のパンタロナイオ(ズボン専門の職人)尾作隼人さん。ミラノスタイル伝道者、ペコラ・ギンザの佐藤英明さん。精緻さにおいてロンドンの靴を凌駕する靴をつくる福田洋平さん。そしてサヴィル・ロウの老舗ヘンリー・プールで花形カッターをつとめる鈴木一郎さん。一人一人の詳しいお話と写真(ピンボケですが)は、フェイスブックにアップしております。

ここでは、私の専門に近いゆえ、もっともインパクトの大きなお話を聞かせてくださった鈴木一郎さんのお話から一部紹介。

ウエスト高め、裾長めの英国スタイルのスーツは、優雅でセクシーだが、ボディにかなりフィットさせて作られる。これを職人用語で「スプレイド・オン(sprayed on)」という。スプレイをかけて、そのままボディを固めたイメージ?

衝撃だったのは、サヴィルロウでも、中国にもっていって縫製し、英国で仕上げて、それを「メイド・イン・イングランド」とうたっているということ。ここ数年の状況。そのほうがはるかにコストがかからず、しかも、アジア人のほうが縫製は上手だったりするのだそう。

ヘンリー・プールの日本での受注会のときなどには、鈴木さんはあえて表に出ない。英国人がお客様に対応する。そのほうが日本人は喜ぶのだ、ということを鈴木さんは知っているのですね。

「英国の伝統」。そんなファンタジーに、日本人はお金を払います。批判や皮肉ではなく、装いにおいては、なんらかのファンタジーというのは不可欠なのですね。

ファッション誌というのも、わたしは半ば「フィクション」ととらえているところがあります。この服が着たくなるような、このアクセを身につけたくなるような、ファンタジーを提供するフィクション。アティテュードを定めるようなマインドの方向付けをするストーリー。全部が全部そうだとはいいませんが、とりわけ、ハウツーではなく(私は着こなしのハウツーなど知りません)、「巻頭言」を書かなくてはいけないときには、読者の心にロマンを呼び起こすようなお話を考えています。

話が飛びました。「伝統」なるものもまた、そのようなファンタジーの一つになりうるのです。

ということで、日本が世界に誇る職人さんたち。熱い情熱をもって、不断の努力を続け、現在の地位を獲得してきた方々です。すべての方のお話に共通していたことは、日本人は手先が器用で、勤勉で、感性にもすぐれ根気があるために、モノづくりにおいては世界のトップクラスだということ。そのことに自信をもち、堂々と世界と闘っていくべきということ。

ひとりひとりが、謙虚ながら、確かな自信にあふれ、それが本物のオーラとなって輝いている素敵な方々ばかりでした。

日本には世界に誇れるすばらしい職人たちがこんなにもいる、ということをぜひ皆様にも知っていただきたい。

記念写真より。左から、1年4か月待ちの靴マイスター、福田洋平さん。ブランメル倶楽部のテイラード麗人、山内美恵子さん。中野。サヴィルロウ老舗ヘンリー・プールの花形カッター、鈴木一郎さん。そして日本でもっとも名の知られたミラノスタイルのサルトの一人、佐藤英明さん。

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彼らの座り方、そこはかとなく日本男児っぽくて、それがまたいいと思いません? ^_^;

私は強運の持ち主です。ついに誰もなり手がなかったのでしかたなく「くじびき選出」になった小学校のPTA役員を引き当て、その上、代表(会長職)になってしまいました。今年の初めには全く予想すらしなかった運命の急展開です。

ただでさえ片づけきれていない膨大な仕事量で溺死しそうな生活。これ以上このような重責をどうやって…と絶望で泣きそうになりましたが、降りてきたものはたぶん天からの贈り物。謹んで取り組むことにした。

本日が公務の初日で、入学式における祝辞を述べるというお仕事。ふだんレクチャーなどではまったくアガったりしないのだけれど、「物議を醸さないように」注意して作り上げた原稿を「読む」となると、いつになく緊張してしまう。あれかな、「自分を抑えよう」とか「自分でないものを演じよう」とするとアガるんだろうな。でもいい試練になった。こういうふうに自分を鍛えられる機会なんて、めったにいただけるものではない。ちなみに、スピーチ原稿は、原稿料をいただいて書くふだんの仕事よりも、はるかに気を使うことになった。

で、これまでPTAなんて一生無縁だと思っていたのでこの制度について何も知らない自分に愕然とし、考えるきっかけになりそうな本を読んでみた。まずは、山本シュウの『レモンさんのPTA爆談』(小学館)。

コミュニケーション論としても面白かった本。熱いやり方はこの方にしかできないだろうが、笑ったり感心したりしながら、多くの示唆をいただいた。

「愛する」と「甘やかす」の違いなんて、重要。「正しく愛すると、相手は人としてカッコよくなるはず。甘やかすと、逆に人としてカッコ悪くなるはず」

もう一冊は川端裕人『PTA再活用論』(中公新書ラクレ)。実際に何年かPTAを経験しながら取材を重ねてきた著者による、現状整理と問題提起本。

各地の具体的な試みなども書かれていて、今後もしばしば参考になりそうな事例多し。

ちょっとした発見だったのは、PTAが戦後GHQによってつくられたものであったということ。「上からの押し付け」。だからかくも生き生きしないのだ。

「義務」から「機会」への転換、っていうのはいい言葉だな。たしかに、やってみると、自分の幅を思わぬところへ広げることができる「機会」なのよね。

などと余裕こいたようなこと言ってる場合ではない生活なのだが(T_T) 

加賀乙彦『科学と宗教と死』(集英社新書)。難しそうなタイトルだけど、やさしく語るように書いてある。著者、80歳を超えている。

身近に死を何度も経験した加賀さんの個人的な思いの部分も興味深かったが、もっとも示唆に富んでいたのが、死刑と人間心理。死刑囚と、無期囚とはぜんぜん「症状」が違ってくるという指摘。

死刑囚は、反応性の躁状態になる。しゃべったり冗談をとばしたり、笑い歌い騒々しく興奮しやすく暴れまわる。

「古くから、罪人が処刑寸前の引き回しのときに笑ったり歌ったりする様子を『引かれ者の小唄』と言いましたが、まさにその状態です。『引かれ者の小唄』は、死を前にわざと平気をよそおうこととされてきましたが、私の観察では『わざと』している行為ではないと思います」

無期囚には、「プリゾニゼーション」すなわち「刑務所ぼけ」がおきる。感情を麻痺させ、無感動になり、刑務所の生活に適応する。「退屈というものを感じなくなるほど鈍感になる」。

「死刑囚は常に『いつ殺されるか』という興奮状態にありますが、無機囚は全然別の人間になってしまう」。

死刑囚は濃密な時間を生き、生のエネルギーを発散させざるをえない。無期囚は無限に薄い時間を生きざるをえない。

どっちが残酷なんだろうか。

という狭い枠の問題を超えて、塀の外にいる人間にとっても、死をどれだけ強く意識するかによって、生の濃度が変わってくる…という示唆を、かみしめる。