先日の、「女子大生クローン説を笑えない」記事に関し、さまざまな反響をいただきました。

当事者や、女子大の先生からは、「当人たちもツライのだ」という声も。同じような外見をしていないと、集団に入れてもらえないのだそうです。中・高のいじめの構造と地続き、というようなことを言っていた人も。そういうふうに(同じでないと集団からはじかれると)、互いが「思い込んでいるだけ」というところもあるのでは、と思うのですが、それは私の楽観でしょうか……。

また、FBでは志村和明さんがこの記事をシェアしてくださったのですが、そのご友人の中馬浩志さんが、秀逸なたとえでコメントしてくださいました。

マラソンでいうと、先頭集団には入っていたい。でも駆け引きすると負けちゃうかもしれないから突飛な行動はしたくない。そしたら1番にはならないけどいい感じでゴールできる、ってとこでしょうか」

「だから、安定志向ではなくて、抜け出るか抜け出ないかのギリギリのところを探り合って戦ってんじゃないかなあと(^^)」

なるほど、あってるな~という感じ。

いずれにせよ、このような同調圧力と、それに対する防衛本能がすっかりあたりまえのものとして身についちゃっている、ということがあるとすれば、ブキミですね。

私は身近な大学生には、

「とにかく、一人で行動しなさい。一人で優雅に食事をする、一人で堂々とバーに行く、一人で映画を観にいく! それがさりげなくかっこよくできるようになれば、モテるわよ~(笑)」

と、ことあるごとに言ってますが。大学の授業でさえ、友達と一緒じゃないと受けられない、それが加速してひとりでご飯を食べるのがミジメだから「トイレの個室でごはん」という、どっちがミジメなんだかわからない「ぼっち恐怖症」が蔓延しているので、そんな基本的なことからいちいち「あえて」教えていかなくてはならないのですね。余計なお世話かとも思うのですが、そもそも異文化を学ぶような学問の場にいる人は、ひとりで自分と向き合う時間をきっちりと確保できていることが基本的前提になります。

(以下は、ぼっち恐怖症の学生への訓話だと思ってください。オトナはスルーしてね(笑))

一人の自分を理解して、折りあえていてこそ、違う考え方に対する理解と愛を深めることができる。いつもつるんでないと不安、という人に、異文化(他人)を深く理解することなんてできません。

ひとりで突き抜けてしまえば、孤独を勝ち取ってしまえば、爽快で、ものすごく自由よ。他人の視線に合わせる気苦労から解放されれば、嫉妬や邪推などの悪感情にも煩わされることはない。その自由な世界に行ってしまえば、同じように、孤独を勝ち取ったかっこいい人たちがたくさんいて、彼らとは表面的にベタベタしなくても、毎日スマホでつながってなくても、心の深いところで、もっと居心地よく風通しのいい同志愛を感じあうことができる。ほんものの出会いも、そこからしか生まれない。まずはそのレベルまで行け。話はそれからね。

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