フランスで起きたシャルリー・エブドの悲劇、テロに反対する大規模デモ、デモに参加しなかった首脳たちへのバッシング、桑田佳祐のパフォーマンスに対する攻撃とそれを受けての彼の謝罪、世界各地で起きている理不尽な殺戮や攻撃、ささいな言葉尻に対する過剰で完膚なきまでの個人攻撃、自分自身も巻き込まれているさまざまな現状。鬱々としたことばかりが続くこの頃だが、すべての事象に通底することがあって、それが不寛容。

いつからこんなに人は自分と違う存在、自分とは相いれない思想を「許せない」と切り捨て、徹底排除しようとするようになったのか。

100年前もそう考えた映画監督がいて、「不寛容」を撮った。グリフィスの”Intolerance”は1916年のサイレント映画だが、今見ても全く古くない。古代から現代にいたるまでの人間の不寛容の歴史が描かれている。人は永遠に変わらないんだろうか。不寛容がエスカレートすると、大きな戦争が起きる。無関係であるはずの人まで巻き込まれ、不幸が広がる。グリフィスが100年前に感じていたであろう不寛容の空気が、今、濃厚に流れている。

Intolerance_film
permit と pardon。許しと赦し。許しは許可、赦しは寛容と愛、若干の諦念。必要なのは、赦し。過去のすべての事象を、いっさい、赦し、恨みや報復への執念を手放し、水に流すこと。その境地へはどうやったら至ることができるのか。もちろんそれだけではなく、ことばが見つからないほどの貧困、広がる一方の経済格差の問題など、根は深く複雑にからまっているのだが。

ファッションは、多様性への寛容ありき。異質なものに美しさを認める力を発揮する。それも平和と最低限の経済安定が前提となる。せめて不寛容の精神を、自分の中に発見したらまずそれをコントロールする術を学ばなくてはならない。とりかえしがつかなくなる前に。

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