シャウ・シンチーの「西遊記 はじまりのはじまり」DVDで。
B級感むんむんの映画だが、爆笑の連続、号泣で終わり、と激しく感情をゆさぶられる。あの西遊記が始まるまでには、こんな始まりの物語があった…という趣旨の、妖怪ハンターたちの物語。ヒロインの段と三蔵法師の物語がいいですね、やはり(途中のばかばかしさも含めて)。好き嫌いはきっぱりと分れると思いますが、「少林サッカー」以来、シャウ・シンチーのギャグセンスには救われています。少林サッカーのラストシーンは何度見なおしたことか(「俺たちフィギュアスケーター」のラストシーンと双璧をなす名シーン)。
折しも6月3日付け朝日新聞の文化欄に掲載されていた姜尚中さんのインタビューを読んで感銘を受けていたタイミング。
「悪」を考察する本を書きたいという姜先生の話。その理由は、
「世の中、悪が満ちあふれている。資本主義の本性が出て、人間が社会性を失っていく。それが罵詈雑言の限りとなり、例えばネット上に噴き出しているように見えます。」
そして指摘される、「悪」の「反対」。
「現代は、自己責任だ、自助能力を発揮しろとせき立てられ、そこに社会がないわけです。私は、悪の反対は、善ではなく愛だと思うんです。さらに言うと社会だとも思う。いま、人間は自己中心のガリガリ亡者になって、社会はあてにできない。むしろ、社会からさげすまれているという気持ちの人がたくさんいます。ですから、悪を解き明かすことで、社会を取り戻すことに目を向けたい」
西遊記の妖怪たちも、もともとはみなよい人や動物であったのに、社会から理不尽に虐げられたり、身近な人にひどく裏切られたりして、妖怪になっていった。だからハンターが、妖怪の中に潜む邪悪な気を吸い取ると、もとの善良な姿に戻っていく。
「悪」の反対が「社会」であるということが、実は妖怪の世界にすでに描かれているんですね。
「ダウントンアビー」ではやはり、「悪」だったトーマスが、ダウントンの住人から善なる扱いを受けることで、次第に良い人になっていく。
「悪」を生み出すのはやはり社会であるということ、逆に、社会が変わることで悪も少なくなっていくということ、ここにもさりげなく示唆されている。
中野香織様 初めまして
私は貴女様に、激しく嫉妬している者です。学歴などもさることながら、、、優雅で人望も厚く、多くの方々から愛され
Nさま
コメントありがとうございます。私など嫉妬に値する者ではありません。外に出さないだけで(出す必要も価値もない)、悲惨な面がたくさんあります。神様は公平です。でも、目の前にあるものに感謝して、欲を出さず愚痴も言わないようにしています。そのように振舞っていると傍目には優雅に映るのかもしれません(優雅な生活とはほど遠いとしても)。周囲の人を大切に思って接すればそれほどひどい扱いを受けることもないものです。それこそ「よく知りもしない」人から事実無根の中傷を受けることもありますが、それは人を理不尽に貶めることに快感を覚えるその人の問題であって、私の問題ではない、と考えるようにしています。いいこともよくないことも、自分が行動した分だけ返ってくるというのが実感です。嫉妬に値しない人間に嫉妬するのは、エネルギーの無駄遣いですよ!(笑)