8日、明治大学リバティーアカデミーの齋藤孝先生×坂東玉三郎さんの対談形式の講演を聴きに行きました。駿河台キャンパス、アカデミーコモンは1000人を超える観客で満席となり、観客の集中力と熱気をひしひしと感じました。最近、アウトプット続きでスカスカになりかけていた自分への誕生日プレゼントでもありましたが、予想以上の面白さで、脳内に革命が起きたような経験でした。

玉三郎さんの「実(じつ)」のある話を、齋藤先生が軽妙に、でも確実な方向へと導いていく。「人と人が出会って学び合う」、創発に満ちたライブ体験。1000人の観客が一体となり、まさにひとつの演劇を共有したような、濃密な時間でした。

こういうことをいくら文字で列挙しても、そのときの会場の体験には遠く及ばないのですが、忘れたくないなあと思ったことを以下ランダムにメモしておきます。

・人と人とがめぐりあい、感情でぶつかりあうことができなくなり、当たらずさわらずの人生を送らざるをえなくなっているのが、現代。

・そんな時代ゆえか、30人~40人ほど収容のライブハウスでのパフォーマンスや落語などの上演が、激増している。小さいサークルで人に会う、ということが始まっているのが、今。

・(学生からの質問)「夜になると叫びたくなる」。(玉三郎さんの答え)「僕は昼間でも叫びたいです」。叫びたいほどの、やむにやまれぬ思いを一つずつ解剖していく、そこから文学が生まれる。

・このような「実(じつ)の質問」をする。そこからすばらしい人とのめぐりあいが始まる。

・生命力とは、やむにやまれぬ情感のほとばしり。手の内にある自分の思いが止まらないという感覚。

・(齋藤先生)玉三郎さんは、生命力がないように見せて、ある。時代の先取り?!

・生命力がアツイかどうかによって、作品の迫り方が違ってくる。

・口に出すセリフと、思っていることが、まったく反対であることがある。それを読むのが「本を読む」ということ。

・セリフとは、想念の羅列である。

・芝居は、増幅と凝縮である。自分の人生から想念をひっぱりだして、増幅してセリフにのせていく。思いが凝縮すると、観客は見てくださる。

・感情が濃いとき、子音が強い。感情が爆発しているとき、子音も爆発する。子音に感情が宿る。

・生きている間は、想念の連続である。生成された想念を動かすのが、役作りということ。想念を経験から発掘し、生成し、並べていく。これが芝居。

・細胞レベルにまでなった想念を、線にし、面にし、立体にし、肉体にしていく。これが増幅。型と想念を一つにしていくのが、稽古。

・生命力は体幹に宿る。背骨の可動域が、人生の幅。毎日背骨を前後、左右、270度にねじり、アンチエイジングを。

最後は全員が背骨を回転させて、祝祭的に終了。齋藤先生が最初に「みなさんが心身共に健やかな状態で帰られることを望んでいます」と笑いをとっていたが、それはこういうことだったのですね。完全に文字で表現することなど不可能な、心身共に衝撃を受けた90分。

会場の想念をまとめあげる齋藤先生と玉三郎さん、それぞれの力量とオーラ。そのパワーの源泉は意外に、取り繕うこととは真逆の、「実(じつ)」のことばのやりとりであったような気がする。観客の「実」の質問が、真のめぐりあいを生んだ、そんな瞬間に立ち会った思いです。

「実を語る」。今年一年のテーマにしよう。

 

 

 

 

 

 

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