“I love luxury. And luxury lies not in richness and ornateness but in the absence of vulgarity. Vulgarity is the ugliest word in our language. I stay in the game to fight it.”  (By Coco Chanel)

 

岸田一郎さんとの対談、後半です。こちらです。一流とエロスの艶なる関係というテーマの、本題に入ってます。

ラグジュアリーというのは、上のシャネルのことばの引用(フランス語から英語訳されたものですが)に深く納得するんですが、お金がかかってるとかゴージャスとか、そういうことでは全くなくて、下品な俗っぽさや魅力の押し売り(媚びといってもいい)やマニュアルやハウツーとは無縁であることなんです。拝金主義や、ステレオタイプな魅力の誇示、なにかの二番煎じやスペック競争とは対極にある、唯一無二のホンモノの世界。

価値観はひとそれぞれなので押し付けるつもりもないし、わかりやすい「記号」を売りにする媚び媚びな卑俗世界に需要があることも知っているので非難するつもりもないですが、私がセクシーだと感じるのは、やはりそんな「ヴァルガリティ」とは無縁な、ラグジュアリーな雰囲気をまとっている人です。(言うまでもないことで、あくまで念のためですが、経済的に裕福でなくともラグジュアリーな空気をまとう方はいらっしゃいますし、お金持ちでもヴァルガーな方は大勢いらっしゃいます。シャネルが闘ったのは後者に対して)

 

なんてキレイゴトばっかり夢見て追いかけている人はモテませんので(それが理由か?笑)、手っ取り早く幸せになりたいよいこはまねしないようにね!

対談の多くがそうですが、このときも、収録されていない話(公開されない話)に実は面白ネタがたくさんありました。無駄になったというわけではなく、こういうこぼれネタの蓄積が、別の機会に、思わぬ形で活きてくることが多い。

 

お世話になりました岸田一郎さま、朝日新聞デジタルの加賀見徹さま、ライターの関川隆さま、フォトグラファーの梁田郁子さまにあらためて心より感謝申し上げます。

 

“Being a dandy is a condition rather than a profession. It is a defense against suffering and a celebration of life.” (By Sebastian Horsley)

早春に発売予定の、某有名難関高校の入試対策問題集に、『ダンディズムの系譜』から一部抜粋して問題が作られるそうです。dandyism

全国の高校受験生のみなさん。ダンディズムのお勉強は必須ですね!笑

ちなみに、設問の半分も解けませんでした。数年前には『モードとエロスと資本』からも実際の入試問題が何回か作られるという光栄なことがありましたが、やはり全問正解とはいきませんでした。

作品はいったん出たら、パブリックなもの。入試問題に使われれば、それは出題者のもの。「誤解」されてなんぼ、誤解の余地が大きければ大きいほどヒットするというのは、みうらじゅん尊師も言っておる。

シェイクスピアなんて、いろんな時代、いろんな国で「誤解」されまくりだからこそ、今に生きているっていうところがありますもんね。

ご参考までに「傍線部の作者の気持ちを述べよ」という設問に対して、作者側の「正解」があるとしたら。

「はやく締め切りクリアしてシャンパン飲みたい」。

 

入試問題がでたらめだと言っているわけでは毛頭ありません。念のため。入試とは、出題者と解答者のコミュニケーション、というところがあります。一定のコミュニケーションのルールのもと、双方納得のもとにおこなう「こういう世界でやっていけるかどうかの選抜」であって、解答者の「能力」うんぬんは、また別の次元の話になると思っています。

 

 

それにしても数年前に書いた文章、若すぎて今読むと恥ずかしいなあ。ル・パランの本多バーテンダーも「若い時に作っていたマティーニはエッジが効き過ぎていた」と言いましたが。ダンディズムなんて重たく受けとめる話じゃないよ!(重たくしすぎるのはもっともダンディズム本来の態度とはかけ離れている)というメッセージもこめてあえて軽く書きましたが、それが今読むとちょっとつっぱってる感じかな。経験とともにとれるべき「角」はとれていくものですね。たんなる摩耗にならないように気をつけないとね!

 

 

 

 

 

 

 

 

“Knowing love, I can allow all things to come and go, to be as supple as the wind and to face all things with great courage.My heart is a open as the sky” (By Maya in “Kama Sutra: A Tale of Love)

ミラ・ナイール監督の1996年イギリス映画「カーマ・スートラ」。タイトルだけでエロティックな作品と誤解されそうだが、真正面から愛と人のあり方と社会を問うた、なかなかに悲劇的な物語。

愛に素直にならなければ、人はやがて破滅する。愛をもてあそぶと国家が破滅する。愛をおろそかにすると自分も他人も国も不幸になる。ぐるぐるめぐるその因果関係が、中世インドを舞台にしたすべての登場人物を通して、あらゆる角度から描かれる。国家安泰のおおもとは、個々の男女の性を含む愛。これが監督のメッセージ。

ヒロイン、マヤを演じるインディラ・ヴァルマのなんと魅惑的なことか。まなざし、しぐさ、衣装、動き、声、すべてに目が耳が釘付けになる。パールだけをふんだんに使った「衣装」のあまりの美しさに、文字通り、思わず息が止まる思いがした。ミキモトさんが何年か前に発表した「ボディジュエリー」を思い出した。あのコレクションもすばらしかったが、この映画のパールはジュエリーじゃなくてがつんと「ドレス」として着られている。商品化希望(買えませんが(^-^;))。maya

彼女は、映画の中で「蓮の女」Lotus Womanと形容される。
lotus flower

映画の中では出てこなかった話だが、Lotus Womanという発想が面白いと思ってついでながら調べてみてわかったこと。Lotus Womanにふさわしい最上級の男は、Quintessential Man(至高の男)と形容される。Artistry, Assertion, Authority, Charisma, Creativity, Endurance, Knowledge, Passion, Self-control, Sensitivity, Sensuousness, Spiritual Wealth, Tenderness, Truth, Wisdom. これらすべてを兼ね備える男、それがQuintessential Man. わー。幻想の英国紳士も顔負けのいい男っぷり。

この世界には男も女も「階級」があるのだが、それは生まれとか資産とか社会的地位とかは関係ない。むしろ上に列挙したような人としての資質ばかりが問われるので、ある意味ではきわめてヒューマンな階級ですね。

女の階級の最上級に君臨するLotus Womanがベッドに招いていい男はQuintessential Manのみという厳格な階級制度。資質が相ふさわしくない相手と愛をもてあそぶと、因果関係はめぐりめぐって国家は破滅にいたるというのが、この映画にも暗喩として描かれる。Kamsutraposter

Lotus womanの資質もあれこれあるのだが、もっとも納得したのが、’natural aptitude of command’という要素。ごく自然に人の上に立てる能力、人が思わず従ってしまうような優雅で気負わない女神の風格でしょうか。媚びたりすがったり嫉妬したり(相手の上に自然に立っていれば、不要な感情)する女は、Lotus Womanの資格なし、なのです。

“Some things don’t make sense immediately” とは、映画のなかに出てきたカーマスートラの教師のことば。たとえ今はわからなくても。