立春の日は、いちばん会いたかった人の講演。NHK文化センターにて。

40分前に会場に行ったらすでに長蛇の列。最終的にかなり追加の椅子を入れた模様でしたが、それでもキャンセル待ちが殺到してたようです。Youtubeで講演は同時中継されていましたが、やはりファンの熱気のなかで、本人の波動を感じながら聴くということには特別の価値がありました。

韓流スターの公演に行って喜んでいるおばさんと何が違うんだよ、という息子たちの冷ややかな視線を浴びましたが。ばっちりサインももらってきたよ!

90分の講演のうち45分が「自分の人生を生きる 『たかがゲーム』と言われても」というウメハラ氏の話、残り45分が質疑応答。

90分、黒板も使わず、スライドも使わず、映像も見せず、語りだけで聴衆を引きつけ続けていたウメハラ氏のトーク力はすばらしかった。この講演で話す内容を考えるためにこの一週間、ひたすら「歩きながら考える」ということを続けたそうなのですが、アプリで計算したその距離は175km。途中、雪の日もあったのに。

(当日は写真撮影NGだったので、こちらは公開動画からの画像キャプチャ。目の光や表情から、達観した人の悟りの域を感じさせました……というのは過大評価?)

175km分の思考。構成といい内容といい表現力といい、その妙をすべてお伝えしきれるわけもないのですが、以下は、ランダムな備忘録メモです(だいたい、メモはなくすからね。アップしておくのが確実)。正確な言い回しは違うかもしれませんし、質問者の「質問」はかなり端折ってあるので適当です。そのあたりなにとぞご寛恕ください。正確なやりとりは動画でご確認ください。

・この講演を引き受けた後、てこずった。テーマが難しいということもあるが、講演のあとのことを考えてしまったから。自分自身で「上手にやって講演の仕事を増やそう」などと計算があるっぽいのがダメなのだ。不純な気持ちがあるときは本領を発揮することが難しい。そこに気づき、この講演一回で完結させよう、話したいことを話そう、と決めてから思考がクリアになっていった。(不純な気持ちがあるときには本領を発揮できないという考え方が、その後に続く話のメインテーマのひとつになっていく)

・プロゲーマーになって9年。現在では「プロゲーマーライセンス」も発行されており、若い人から、プロになることの相談も受ける。若い人に入ってもらわないと業界も困るので「いいんじゃない」とアドバイスはするが、本心すべてがつまっているかというと別。今日この講演では本心・本音を話す。

・格闘ゲームをやっていたのが11歳~23歳、なかでも14歳から加速。おおみそかと正月を除きほぼ毎日、ゲーセンに「住んで」いるようだった。しかしさすがにこれでは生活できないと思い、生活の「手段として」麻雀に行く。それなりに上達し、食えるようになったが、3年で手を引いた。ではゲームとマージャンの違いはなんだったのか?

・(上記のことを示すために、きわめてユニークで示唆的な13歳のときのエピソードが話されるのですが、この話の魅力を再現すると長くなりすぎるので、ぜひYoutubeなどでご覧ください) 要は、麻雀の場合は、他人に馬鹿にされたりひどい目にあわされたりすると、ばからしくなって二度とそこにはいかないが、ゲームで同じことをされた場合は違う。それに甘んじる自分に対して耐えがたい精神的苦痛を感じるので、死ぬ気で対処を考える。手段である麻雀の場合は「どうでもいい」、でも好きなゲームの場合は「自分が自分を許せるまで死ぬ気で対処する」のだ。つまり、比較的向いているところでいいや、生活のための手段でいいや、というところで手を打つと、いざというときに本領を発揮できないのだ。手段でやっている場合は、何か障害にぶつかると理由をつけてやめてしまえる。本気で好きなことに打ち込んでいる人はそんなことはしない。

・つまり、若いプロゲーマー志望者に問いたいのは、ゲームが本当に好きなのか?ということ。進学・就職から逃げて、「けっこう好き」で「向いている」ゲームを仕事にしてみようか、という手段にしていないか? 現在のブームに流されていないか? ウメハラは3年麻雀を「けっこう向いているから生活の手段」にしてみて、それが違うことに気づき、やめた。だから、「心から好きなこと」を見つけるほうが先。

・自分にもし子供がいたら、「好きなものを見つけろ」とアドバイスする。見つけたら、迷わずとことんやれ、と背中を押す。それで子供が「好きなことをやっていたらぼこぼこに殴られたり、笑われたりする」と言えば、「関係ない、やれやれ」と背中を押す。さらに子供が、「好きなことをやっていたら友達がみんな離れていって孤立した」と言えば、「ようやく第二段階に入ったな」と背中を押す。そしてさらに「彼女にもふられた」と言えば、「惜しい!もうちょっとだ」と励ます。仕上げの段階として、場合によっては親も敵に回すかもしれない。勘当するかもしれない。それでもやりたいことがあるんだったら、それをやらなきゃいけない、と諭す。ここまでとことんやる。これだけのプロセスが、どうしても必要な「準備期間」なのだ。お金ができないとか友達ができないとか、なにか「足りないもの」が気になるかもしれないが、それはあとでどうにでもなる。「足りない」と思っているものはいつかはなくなる。しかし、本心は死ぬまで付き合っていかねばならない。そこをごまかすことはできない。

・13歳のあのとき、気付きがなかったら、今の自分は100%なかった。やめる理由はゴマンとある。理不尽な思いをしてもやれるのか? 格闘ゲームは手ごわい。最後は気持ちが勝敗を決める。これだけは譲れないという迫力が勝負を決めるのだ。

・(質問:人の目という魔物に対してどのように向き合うか?)人が自分をどのように見るか?ということよりも、自分が自分に対して「おまえ、情けなくないか?」と見るほうがよほどきつい。自分に責められる方がきつい。人はみんないなくなるが、最後に助けてくれるのは自分の本心だけである。

・(質問:明日死ぬ、と言われたら?) 「ああ、やっぱり?」と思う。(会場爆笑)やりたいことを満喫してきて、これだけ楽しんで生かしてもらえた。「ああ、やっぱり?」と言えるほどやりたい放題してきた。悔いはない。

・(質問:e-sportsはこれからが本格始動だが、それについて) 楽しかった時期は終わっちゃったな、と思う。自分の性格として、RPGでも、ラスボスが見えると辞めちゃうというところがある。これまで、楽しいこだわりをつめこんで獣道を開拓してきた。自分の中では大冒険していた気分だった。これから先、大きな力が働くと「開拓」させてもらえなくなるかもしれない。ただ、全体でなかよくやっていく、というよりもそれぞれがそれぞれで居心地のいい空間を創り、各自がやりたいことをやって、棲み分けていけばいいのではないか。

・(質問:好きなことを見つける方法は?) いろいろやってみないとわからない。「好き」で完結することを探す。褒められそうとか、ビジネスになりそうとか、不純な動機が入ると続かない。純粋に好きで、無償で取り組めるものが何なのか、仕事にならなくてもやってしまうものは何なのかを見極めることが大切。そちらのほうが結果的にお金がついてくるし、救いになる。

・(質問:将来に対する不安はないか?) これだけスポンサーが増えると、これ全部なくなっちゃったらどうしようとか、助けられる人を助けていないのではないか、とか、不安に襲われることがある。不安からくる悪循環に悩んでいたのがちょうど一年前。でも、あるインタビュアーに出会い、自分の力でどうにもならないことを悩むな、と助言を得た。そこから吹っ切れ、とにかく自分の能力を発揮することに集中した。それが結果として、他人を助けることにもつながった。そもそも、原点に立ち返ってみると、さんざん好き放題やってきたくせに、今さら何を不安がってるんだ?と気づくと、不安がばからしくなる。

・(勝敗に一喜一憂しないというのは?) 「人気に人がついてくる」(人についてくるのではなく)、という恐怖を小さいときに体験している。だからいま、ギネスがどうの世界一がどうのということで人が寄ってきても、それは「人気」に寄ってきているだけであって俺に寄ってきてるわけではない、ということが見えている。だからいちいち喜んでいない。土台作りが終了した次のステージは、後回しにしてきた、よい人間関係を築くことにエネルギーを使いたい。

 

本物の強さの理由、本当の誠実さというものが伝わってきました。必要なときに必要な人に出会う、というのはまさしくこのようなことなのかと実感できた、幸先のよい立春になりました。

 

 

疲れた時にはページを開く、隠れバイブル。

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