性差別に対して敏感な時代ですが、そんな時代においてなお名前にわざわざ「女史」をつけられることがあります。

これは性差別用語に相当するNGワードであり、名前にそのようにつけられた人が不快になるということを知った上で、意図的につけていると解釈してよいものでしょうか。持ちあげるふりして実は距離をおいて侮蔑している、そんなニュアンスが感じられて悲しくなります。

あるいはまったく無自覚に使っているのであれば、すぐにボキャブラリーから捨て去ったほうがよい言葉です。ふつうに男性と同じように「氏」でいいのです。「氏」で。

 

☆☆☆

 

性差別ついでに、「割り勘」についての私の考えをちょっこっと書いておきます。あくまで自分の社交上のスタイルなので、一つの例として、こういう考え方もあるのねという程度に読み流していただければ幸いです。

私は「割り勘」での食事をめったにしません。仕事であれ、プライベートであれ、ご馳走するか、ご馳走していただくか。その場で計算して割ったりすることはほとんどありません。レストランで小銭まで勘定して割り勘にする、そんな情景を繰り広げるのはレストランにも失礼ですし、せっかくの夢見心地がしらけてしまうので、お支払はできるだけどちらかがまとめてスマートにするものではないかと思っています。相手が女性でも男性でも、高級レストランでも大衆居酒屋でも、です。

ご馳走していただいた場合は、大々的に感謝し、次回どのように「お返し」をするか、真剣に考えます。後日、サプライズで花を贈ったり小物を贈ったり、仕事であれば期待される以上の成果を出したり、あるいは次回のレストランは自分が考えてこちらでもつとか、素敵なご縁や機会をご紹介するとか、その人にとって良いパブリシティを陰に陽にしてあげるとか、何らかの形で「結果として、平等かそれ以上」にもっていくように努力します。すると相手がまた予想外の「お返し」してくれたりして、そのようにしてなかなか楽しい人生が開けていきます。また、相手がご馳走するのが楽しいからしている、というような大物ケースでは、その場は派手に感謝して、「社会へお返し」のつもりで、今度は私が後輩にご馳走します。そうやって、結果としてぐるぐるぐるご馳走が循環しているというイメージです。

「お返し」を考えるのが心理的な負担になるほどのどうでもよい相手であれば、さくっと割り勘にしておくのがよいのかもしれないですし、その場その場ですっきり割っておくほうがわかりやすく「平等」なので気が楽という考え方も、もちろんわかります。ただ、私にとっての「平等」というのは、同等の金額を負担するということでは全くないのです。同レベルの喜びや価値を互いに与えあうことが「平等」だと思うので、ご馳走される時にはその場を盛り上げるためのドレスアップもしますし会話のネタも仕込んでいきます。さらに後日「お返し」を考えるわけですから、経済的な価値だけで見ればこちらの方が圧倒的に「損」しているように思うこともあります。笑

でも、感動ですとか非日常の楽しさですとか新しい何かの発見ですとか関係の構築ですとか、経済的な価値に還元されない豊かさの価値を考えると、やっぱりこうするほうが感謝も大きくなり、面白い人生を送れるのではないかという気もしています。たとえファーストフードであれご馳走されたり、機会であれご縁であれモノであれ何か贈られたりしたら、「ゲームが始まったな」と思って私はお返しを考え始めます。ゲームにふさわしい相手であれば、お返しラリーが続きます(途中、間延びすることもありますが、それでも価値観がそれほどずれていなければ、最終的なゲームオーバーにはなりません)。その場での割り勘は、ゲームをする必要がないという意志表示と受け取ります。

 

こういう考え方は、すべての人にあてはまるというわけではありません。くどいですが、念のため…。エラソーに聞こえたら、あるいは自慢たらしく聞こえたら、申し訳ありません。世代間でも価値観や役割感の大きな違いがありますし(私など息子たちにいつも化石人種と笑われています)、お互いの価値観が合っていれば、割り勘にもいいことがあると思います。それぞれの価値基準を大切にして、心によどみのない、快適な社交スタイルを作ってくださいね。

 

 

The worst form of inequality is to try to make unequal things equal. (By Aristotle)

 

 

 

 

 

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