昨日遭遇したインスピレーショナルなことば二つ、備忘録メモです。

まずは「コナトゥス」(conatus)。

President Online での山口周さんのインタビュー記事のなかで出会いました。

「哲学者のスピノザが、自分が本来の自分であろうとするエネルギーのことを『コナトゥス』と言っています。このコナトゥスが破壊されたり麻痺したりすると、世の中で『よい』とされているものを盲目的に信じ、うらやましがられるような人になる方向へ、自分のエネルギーが向かってしまうそうです。それは本来の自分から相当ずれたものですから、徹するためにはどうしても無理をすることになる。そうすると、日々の生活が空疎なものになっていきます」

なるほど。コナトゥス。辞書的には「自然の傾向」「事物の持つ自己持続の努力」とありますが、そういうことなのか。それが壊れ、価値基準が「世間から見たステキ」になってしまい、そこを目指そうとすると虚しさばかりが増大することになる。コナトゥスが何なのか、見極めておくことは、孤独を伴いますが、同時に心の安定ももたらしますね。

もうひとつは、consummatory。今年の東京大学総長による卒業式の式辞で出会ったことばです。

「第三はconsummatoryであることです。見田先生は、これはとても良い言葉だが適切な日本語に置き換え難いと断りを入れたうえで、instrumental すなわち『手段的』『道具的』といった認識とは反対の境地だと論じています。それは、私達が行う現在の活動について、未来の目的のための手段として捉えるのではなく、活動それ自体を楽しみ、心を躍らせるためのものと捉えるということです。語源を探っていくと、con-は『ともに』という意味であり、summateは『足し合わせる』という意味ですから、ただ一人だけで楽しむということではありません」

consummateとは辞書的には「完遂する」とか「完了する」「頂点に達する」、そこから派生して「結婚を肉体的に完遂する」という意味にもなります。

consummatoryとは 完了行動の、という形容詞。いまおこなっていることを、なにかの手段としてしょうがなくやるのではなく、その行為そのものをこの上なく完全に、目的そのものとして楽しんで(やりきる)、ということなんですね。そこに幸福のヒントがある、と。

conatusに忠実に、行動をconsummatoryに変えていきなさい、と。思えば私は天然にそういう選択をし、無自覚にそういう行動をとってきたために、社会的には苦労をする羽目になった。子供たちには「大ばかすぎる」と怒られ呆れられています。だからこういう生き方はあまり万人にはお勧めしないけどね。覚えておくと、決断・判断すべき時になんらかの助けにはなることばです。


(写真は全て一年前の千鳥が淵で撮影)

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