昨日遭遇したインスピレーショナルなことば二つ、備忘録メモです。

まずは「コナトゥス」(conatus)。

President Online での山口周さんのインタビュー記事のなかで出会いました。

「哲学者のスピノザが、自分が本来の自分であろうとするエネルギーのことを『コナトゥス』と言っています。このコナトゥスが破壊されたり麻痺したりすると、世の中で『よい』とされているものを盲目的に信じ、うらやましがられるような人になる方向へ、自分のエネルギーが向かってしまうそうです。それは本来の自分から相当ずれたものですから、徹するためにはどうしても無理をすることになる。そうすると、日々の生活が空疎なものになっていきます」

なるほど。コナトゥス。辞書的には「自然の傾向」「事物の持つ自己持続の努力」とありますが、そういうことなのか。それが壊れ、価値基準が「世間から見たステキ」になってしまい、そこを目指そうとすると虚しさばかりが増大することになる。コナトゥスが何なのか、見極めておくことは、孤独を伴いますが、同時に心の安定ももたらしますね。

もうひとつは、consummatory。今年の東京大学総長による卒業式の式辞で出会ったことばです。

「第三はconsummatoryであることです。見田先生は、これはとても良い言葉だが適切な日本語に置き換え難いと断りを入れたうえで、instrumental すなわち『手段的』『道具的』といった認識とは反対の境地だと論じています。それは、私達が行う現在の活動について、未来の目的のための手段として捉えるのではなく、活動それ自体を楽しみ、心を躍らせるためのものと捉えるということです。語源を探っていくと、con-は『ともに』という意味であり、summateは『足し合わせる』という意味ですから、ただ一人だけで楽しむということではありません」

consummateとは辞書的には「完遂する」とか「完了する」「頂点に達する」、そこから派生して「結婚を肉体的に完遂する」という意味にもなります。

consummatoryとは 完了行動の、という形容詞。いまおこなっていることを、なにかの手段としてしょうがなくやるのではなく、その行為そのものをこの上なく完全に、目的そのものとして楽しんで(やりきる)、ということなんですね。そこに幸福のヒントがある、と。

conatusに忠実に、行動をconsummatoryに変えていきなさい、と。思えば私は天然にそういう選択をし、無自覚にそういう行動をとってきたために、社会的には苦労をする羽目になった。子供たちには「大ばかすぎる」と怒られ呆れられています。だからこういう生き方はあまり万人にはお勧めしないけどね。覚えておくと、決断・判断すべき時になんらかの助けにはなることばです。


(写真は全て一年前の千鳥が淵で撮影)

立春の日は、いちばん会いたかった人の講演。NHK文化センターにて。

40分前に会場に行ったらすでに長蛇の列。最終的にかなり追加の椅子を入れた模様でしたが、それでもキャンセル待ちが殺到してたようです。Youtubeで講演は同時中継されていましたが、やはりファンの熱気のなかで、本人の波動を感じながら聴くということには特別の価値がありました。

韓流スターの公演に行って喜んでいるおばさんと何が違うんだよ、という息子たちの冷ややかな視線を浴びましたが。ばっちりサインももらってきたよ!

90分の講演のうち45分が「自分の人生を生きる 『たかがゲーム』と言われても」というウメハラ氏の話、残り45分が質疑応答。

90分、黒板も使わず、スライドも使わず、映像も見せず、語りだけで聴衆を引きつけ続けていたウメハラ氏のトーク力はすばらしかった。この講演で話す内容を考えるためにこの一週間、ひたすら「歩きながら考える」ということを続けたそうなのですが、アプリで計算したその距離は175km。途中、雪の日もあったのに。

(当日は写真撮影NGだったので、こちらは公開動画からの画像キャプチャ。目の光や表情から、達観した人の悟りの域を感じさせました……というのは過大評価?)

175km分の思考。構成といい内容といい表現力といい、その妙をすべてお伝えしきれるわけもないのですが、以下は、ランダムな備忘録メモです(だいたい、メモはなくすからね。アップしておくのが確実)。正確な言い回しは違うかもしれませんし、質問者の「質問」はかなり端折ってあるので適当です。そのあたりなにとぞご寛恕ください。正確なやりとりは動画でご確認ください。

・この講演を引き受けた後、てこずった。テーマが難しいということもあるが、講演のあとのことを考えてしまったから。自分自身で「上手にやって講演の仕事を増やそう」などと計算があるっぽいのがダメなのだ。不純な気持ちがあるときは本領を発揮することが難しい。そこに気づき、この講演一回で完結させよう、話したいことを話そう、と決めてから思考がクリアになっていった。(不純な気持ちがあるときには本領を発揮できないという考え方が、その後に続く話のメインテーマのひとつになっていく)

・プロゲーマーになって9年。現在では「プロゲーマーライセンス」も発行されており、若い人から、プロになることの相談も受ける。若い人に入ってもらわないと業界も困るので「いいんじゃない」とアドバイスはするが、本心すべてがつまっているかというと別。今日この講演では本心・本音を話す。

・格闘ゲームをやっていたのが11歳~23歳、なかでも14歳から加速。おおみそかと正月を除きほぼ毎日、ゲーセンに「住んで」いるようだった。しかしさすがにこれでは生活できないと思い、生活の「手段として」麻雀に行く。それなりに上達し、食えるようになったが、3年で手を引いた。ではゲームとマージャンの違いはなんだったのか?

・(上記のことを示すために、きわめてユニークで示唆的な13歳のときのエピソードが話されるのですが、この話の魅力を再現すると長くなりすぎるので、ぜひYoutubeなどでご覧ください) 要は、麻雀の場合は、他人に馬鹿にされたりひどい目にあわされたりすると、ばからしくなって二度とそこにはいかないが、ゲームで同じことをされた場合は違う。それに甘んじる自分に対して耐えがたい精神的苦痛を感じるので、死ぬ気で対処を考える。手段である麻雀の場合は「どうでもいい」、でも好きなゲームの場合は「自分が自分を許せるまで死ぬ気で対処する」のだ。つまり、比較的向いているところでいいや、生活のための手段でいいや、というところで手を打つと、いざというときに本領を発揮できないのだ。手段でやっている場合は、何か障害にぶつかると理由をつけてやめてしまえる。本気で好きなことに打ち込んでいる人はそんなことはしない。

・つまり、若いプロゲーマー志望者に問いたいのは、ゲームが本当に好きなのか?ということ。進学・就職から逃げて、「けっこう好き」で「向いている」ゲームを仕事にしてみようか、という手段にしていないか? 現在のブームに流されていないか? ウメハラは3年麻雀を「けっこう向いているから生活の手段」にしてみて、それが違うことに気づき、やめた。だから、「心から好きなこと」を見つけるほうが先。

・自分にもし子供がいたら、「好きなものを見つけろ」とアドバイスする。見つけたら、迷わずとことんやれ、と背中を押す。それで子供が「好きなことをやっていたらぼこぼこに殴られたり、笑われたりする」と言えば、「関係ない、やれやれ」と背中を押す。さらに子供が、「好きなことをやっていたら友達がみんな離れていって孤立した」と言えば、「ようやく第二段階に入ったな」と背中を押す。そしてさらに「彼女にもふられた」と言えば、「惜しい!もうちょっとだ」と励ます。仕上げの段階として、場合によっては親も敵に回すかもしれない。勘当するかもしれない。それでもやりたいことがあるんだったら、それをやらなきゃいけない、と諭す。ここまでとことんやる。これだけのプロセスが、どうしても必要な「準備期間」なのだ。お金ができないとか友達ができないとか、なにか「足りないもの」が気になるかもしれないが、それはあとでどうにでもなる。「足りない」と思っているものはいつかはなくなる。しかし、本心は死ぬまで付き合っていかねばならない。そこをごまかすことはできない。

・13歳のあのとき、気付きがなかったら、今の自分は100%なかった。やめる理由はゴマンとある。理不尽な思いをしてもやれるのか? 格闘ゲームは手ごわい。最後は気持ちが勝敗を決める。これだけは譲れないという迫力が勝負を決めるのだ。

・(質問:人の目という魔物に対してどのように向き合うか?)人が自分をどのように見るか?ということよりも、自分が自分に対して「おまえ、情けなくないか?」と見るほうがよほどきつい。自分に責められる方がきつい。人はみんないなくなるが、最後に助けてくれるのは自分の本心だけである。

・(質問:明日死ぬ、と言われたら?) 「ああ、やっぱり?」と思う。(会場爆笑)やりたいことを満喫してきて、これだけ楽しんで生かしてもらえた。「ああ、やっぱり?」と言えるほどやりたい放題してきた。悔いはない。

・(質問:e-sportsはこれからが本格始動だが、それについて) 楽しかった時期は終わっちゃったな、と思う。自分の性格として、RPGでも、ラスボスが見えると辞めちゃうというところがある。これまで、楽しいこだわりをつめこんで獣道を開拓してきた。自分の中では大冒険していた気分だった。これから先、大きな力が働くと「開拓」させてもらえなくなるかもしれない。ただ、全体でなかよくやっていく、というよりもそれぞれがそれぞれで居心地のいい空間を創り、各自がやりたいことをやって、棲み分けていけばいいのではないか。

・(質問:好きなことを見つける方法は?) いろいろやってみないとわからない。「好き」で完結することを探す。褒められそうとか、ビジネスになりそうとか、不純な動機が入ると続かない。純粋に好きで、無償で取り組めるものが何なのか、仕事にならなくてもやってしまうものは何なのかを見極めることが大切。そちらのほうが結果的にお金がついてくるし、救いになる。

・(質問:将来に対する不安はないか?) これだけスポンサーが増えると、これ全部なくなっちゃったらどうしようとか、助けられる人を助けていないのではないか、とか、不安に襲われることがある。不安からくる悪循環に悩んでいたのがちょうど一年前。でも、あるインタビュアーに出会い、自分の力でどうにもならないことを悩むな、と助言を得た。そこから吹っ切れ、とにかく自分の能力を発揮することに集中した。それが結果として、他人を助けることにもつながった。そもそも、原点に立ち返ってみると、さんざん好き放題やってきたくせに、今さら何を不安がってるんだ?と気づくと、不安がばからしくなる。

・(勝敗に一喜一憂しないというのは?) 「人気に人がついてくる」(人についてくるのではなく)、という恐怖を小さいときに体験している。だからいま、ギネスがどうの世界一がどうのということで人が寄ってきても、それは「人気」に寄ってきているだけであって俺に寄ってきてるわけではない、ということが見えている。だからいちいち喜んでいない。土台作りが終了した次のステージは、後回しにしてきた、よい人間関係を築くことにエネルギーを使いたい。

 

本物の強さの理由、本当の誠実さというものが伝わってきました。必要なときに必要な人に出会う、というのはまさしくこのようなことなのかと実感できた、幸先のよい立春になりました。

 

 

疲れた時にはページを開く、隠れバイブル。

 

フィギュアスケートの羽生結弦さんが300点越えした理由について、dmenu映画というサイトでの分析が面白かった。

野村萬斎から受けた助言というのが、他の仕事にもすべて通用する内容。たとえば私の仕事にとっても、たいへん有益なアドバイスである。以下、分析の引用です。

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①誤作動しないくらい徹底的に型を身体に覚え込ませること
②同じ演目でもやるたびに新しい驚きを観客に与えるよう演じること
③型を効果的に見せるためには押すだけでなく引く演技も必要であること
④型にはすべて意味があり、その意味は自分で解釈するもの
⑤記憶に残るような演技をすれば結果はついてくる
⑥精神性が重要。場を支配するためには場を味方につける

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とりわけ6番。場を味方につけるため、場の「気」を集めるという発想が、論理的でないようで、実は経験上、きわめて腑に落ちる話なのである。

場の「気」を支配する。これが300点越えの演技をもたらした点について、このライターさんは、次のように表現する。

「天を仰ぎ、地に言い聞かせ、指先に意識を集中させた。「GPシリーズNHK杯」を滑り出した羽生は、すぐに集めた“気”をいったん胸の前で珠にし、すぐに会場の両サイドに放出した。コンビネーションスピンのあと、能でいう“開き”のポーズを取り、再度“気”を引き寄せる。トリプルアクセルに続くダブルトゥーループでは両手を上にあげ、天に持ち上げた“気”を着地と同時に放出。続いて緩やかに右回転し、会場の空気を身にまとったかと思うと、トリプルアクセル、シングルループ、トリプルサルコーと真逆に連続で飛び、身に引き寄せた空気を一気に会場の隅まで放った。すべてのジャンプを決め、コレオグラフィックシークエンスに入る際には、鈴の音とともに両腕を左右に大きく広げ、前の空間にアピール。ラストの足換えコンビネーションスピンで上へと昇りつめ、太鼓の音とともに地上に君臨した」

さらに、ややスピリチュアルが入っていそうなこの「気」を集めるということに対し、中井貴一のことばで集約。「演技とは、一身に集めた様々な気を発散すること。それは、すべての芝居ができたうえで、一度そぎ落としたときに成立する」と。

たとえば成功した講演やトークショーと、その感覚に至らなかった講演の決定的な違いはここなのですね。ある人はそれを「聴衆とのコミュニケーション」と呼び、ある人は「場の空気を読む」と呼びますが、たぶん、内実は同じこと。見えないけれども実は確実に存在する場の空気。これを操ることが最終的な「成功」のカギだ。でなければ、「動画」や「録画」を画面で見ているだけでもいいはずだ。そうではなく、内容がわかっていてもライブをわざわざ体験しにいくのは、場の気を操り、操られるその場限りの感覚を共有するため。

img161WWD 8月31日発行 Vol.1876.  ルイ・ヴィトン ジャパン元社長の秦郷次郎さんの巻、最終回。

「秦:『ラグジュアリー・ブランド』というのは比較的新しい言葉ですよね。かつて、われわれがブランドとかブランドビジネスと呼んでいたときにはファッション・ブランドかトラディショナル・ブランドという区分けでした。ラグジュアリーという言葉は『コーチ』が本格的にマーケットに参入するときに『アクセシブル・ラグジュアリー』とか『アフォーダブル・ラグジュアリー』と自らを定義したときに初めて使われた言葉だったと記憶しています。それと同時にブランドがアイテムの幅を広げてきてファッション・ブランドとトラディショナル・ブランドの境界がだんだんなくなってしまった。そこでラグジュアリーという新しい言葉でくくらないと共通の概念にならなかったということではないでしょうか。まさにその典型がマーク・ジェイコブスが入ってきて、ファッションの要素を加えた『ルイ・ヴィトン』だったと思いますね」

そうだったのか…。コーチが「アクセシブル・ラグジュアリー」(手に入るラグジュアリー)と言いだした時に、はじめて「ラグジュアリー」が意識されたということでもある。なんと皮肉な。

img151朝日新聞8月17日(月)。肖像写真の強い視線にひきつけられた記事。文章も力強い。伊福部昭さんの巻①。

「ひとつのパターンをくり返していると、そろそろ転調か何かやらなきゃ、なんて焦りが来るものなんです。でも伊福部さんの音楽は、無駄な転調も小細工もなく、強い意志でそのまままっすぐ進んでゆく。既存の形式にも頼らず、自身の力だけで曲が立っている。ブレないというのは途方もない胆力の賜物です」

「ほんものの音楽は、特別なものでも理論がつくるものでもなく、その場の自然な感興から何気なく生まれてくるもの」

これよくわかる。

あとから読んでおもしろい文章にしても、理論から生まれたものではなく、その場の感情や空気にどっぷり浸る中からぽっと生まれたものだったりします。アタマで「作文」しようと思ってもだめなんですよね。

 

朝日新聞3月28日(土)夕刊。「あのとき それから」。「パーマも指輪も全部悪」。 1940年の国策標語「ぜいたくは敵だ!」に関して。以下、備忘録としての抜粋です。

img141日本人はここまでやるんだ…という空恐ろしい歴史の実例。img1421940年7月7日、「奢侈品等製造販売制限規則」(7.7禁令)。

おおまじめにとなえられたスローガンの数々。

・「黙って働き笑って納税」「胸に愛国手に国債」「笑顔で受け取る召集令」「りっぱな戦死とえがほの老母」「米鬼を一匹も生かすな!」…。

贅沢禁止が徹底できた理由として、大衆の支持があったというのは、一ノ瀬俊也・埼玉大准教授。

「戦前は貧富の差が激しく現在とは比較にならない格差社会。ぜいたくできない人が社会の大半だった。戦時下でぜいたくは悪となり、貧乏は正義となった。そのお墨付きが『ぜいたくは敵だ!』で、社会の上層部や富裕層に対する恨みを晴らしたい気持ちとその行動を正当化してくれた」。

井上寿一・学習院大学長の著書「理想だらけの戦時下日本」より。

「ぜいたく禁止は、下が上を引きずり下ろす下方平準化だった」。

下方平準化。ネットでの有名人引き摺り下ろしにも同じメンタリティを感じる。であればこそ、この時代を笑えない。

朝日新聞2月15日(土)付け、オピニオン欄「今こそ政治を話そう 二分法の世界観」、是枝裕和監督・談。

こういう人を真のリベラルで良識のある文化人、と呼ぶのでしょう。以下、とくに強く印象に残った言葉のメモ。

★特定秘密保護法案に反対する映画人の会に賛同した件につき、政治的な「色」がつく懸念はなかったか?という記者の質問に対し。

「そんな変な価値観がまかり通っているのは日本だけです。僕が映画を撮ったりテレビに関わったりしているのは、多様な価値観を持った人たちが互いを尊重し合いながら共生していける、豊かで成熟した社会を作りたいからです。(中略)これはイデオロギーではありません」

★「あるイベントで詩人の谷川俊太郎さんとご一緒したのですが、『詩は自己表現ではない』と明確におっしゃっていました。詩とは、自分の内側にあるものを表現するのではなく、世界の側にある、世界の豊かさや人間の複雑さに出会った驚きを詩として記述するのだと」。

★「昔、貴乃花が右ひざをけがして、ボロボロになりながらも武蔵丸との優勝決定戦に勝ち、当時の小泉純一郎首相が『痛みに耐えてよく頑張った。感動した!』と叫んで日本中が盛り上がったことがありましたよね。僕はあの時、この政治家嫌いだな、と思ったんです。なぜ武蔵丸に触れないのか、『二人とも頑張った』くらい言ってもいいんじゃないかと」。

★「世の中には意味のない勝ちもあれば価値のある負けもある。(中略)武蔵丸を応援している人間も、祭りを楽しめない人間もいる。『4割』に対する想像力を涵養するのが、映画や小説じゃないかな」。

★「日本では多数派の意見がなんとなく正解とみなされるし、星の数が多い方が見る価値の高い映画だということになってしまう。『浅はかさ』の原因はひとつではありません。それぞれの立場の人が自分の頭で考え、行動していくことで、少しずつ『深く』していくしかありません」。

わかりやすい星いくつの評価とか、すぱっと明快な分類とか。そこからとりこぼれる複雑でわりきれないものに惹かれる人がいる限り、映画も小説も絵画もなくならないはず。それがいやおうなくランク付けされてしまうのは矛盾してるとも思うのですが。

12月号。続々届く、月末発売の雑誌が「12月号」なのである。今年の終わりということ。もう、ですか(@_@;) 以下、気になった記事の備忘録メモです。

☆「25ans」お悩み相談室。「男っぽい性格を直したい」というエレ女32歳の質問に対し、名越康文先生のお答え。

「仏教では、人間の行いは『身口意(しんくい)』の3つに表せるといいます。『身=動作』『口=言語』『意=精神』の3つに対して、それぞれひとつずつ心がけるポイントを考えてみてください。たとえば『身』では、エレベーターや道で知り合いに会ったとき、先に笑顔でゆったりと会釈をする、『口』では会話の語尾を強く引っ張らず、少しこもらせるようにやわらかい鼻声を意識して発音する、『意』では毎朝、お世話になった人をひとり思い浮かべて感謝してから出発する、というように。(中略) こうやって二つ三つ、具体的なことにあらゆる面にこの行動がゆるやかに波及して、所作やふるまいに女らしさや優しさが表れてくるのです。すると人間関係にも、協力者が増えたり、深いところで心のつながりが出てきたり、といった変化が起きてくるものですよ」

変わりたいと思えば、具体的な、毎日の小さな行動を変えていくしかないのですよね。

☆同、斉藤薫「審美人論」。女の称号の話。

「最終的に女が人生かけて獲得したい称号は何か?と言ったらやっぱり『女神』なのだろう。(中略) 女は自分が生きている環境の中で、いつでもどこでもどんなふうにも女神になれるわけで、だったら女神たる存在を目指すべきではないか。もちろん美しく魅惑的でいつもオーラを放っているのが女神の条件だけれども、彼女がいれば大丈夫、彼女といると元気になれる、心が洗われる、心が温まる、心がしゃんとする……そう言われる立場になることって、やっぱり女として最高位」

ああ、ミューズってそういうことだったのですね。キレイなだけではダメ。周囲の心にエネルギーを与え、明るくし、安心させ、「しゃんとさせる」ような存在。

ちょっとハナシが逸れるけど、私がいちばん嬉しくない呼ばれ方は「女史」。他人にも絶対使わない。あと、教え子でもないのに「先生」と呼ばれるとおそろしく居心地悪い。でも最近はそう呼ぶ方の気持ちもわかってきたので、適当に呼ばれ流している。

☆同、木村孝さん「木村孝先生に叱られたい!Returns」、Q&A。「先生のようにずっと輝いて生きるためにはどうすべきですか?」というQに対し。

「自分で輝こうなどとあつかましいことを考えてはいけません。輝いているかいないかなんて、本人にはわかりません。それより、自分が錆びつかないよう、考えが濁らないためにはどうしたらよいかを考えて。そして怠けず一生懸命生きましょう。やらねばならないと思うことをさせていただくの」。

ごもっともです。 自分でどうこう見せたいというエゴは、排除すべき(自戒をこめて)。どう見えるかは人が勝手に決めていく。自分はこうありたいということを淡々と慎ましく「実行」していくほうがはるかに「輝き」への道に近いのだと思う。近頃の、セルフブランディングとやらで躍起になって表層に凝る風潮がきもちわるい。みんな同じようにつるんとしている。底光りしてない。

☆朝日新聞 27日付「仕事力」、舛添要一「苦境から底力をもらおう」の巻、その1「思い通りなら面白いのか」

この方、やはりタダモノではなかった。父を中2でなくし、経済的におそろしく苦労しながらも、周囲の応援と努力と情報戦で大学まで卒業した。立派だ。写真に後光がさしてみえる。

「どんな百万長者の子どもでも、大学に入ったら自分で努力し、制度の情報を集め、働きながら卒業しろと。そうしてこそ『セルフ メード マン』、自立した人間であり、社会で仕事ができる人材であると」

「人は、予想していたように物事が進んでいくと、力を出せる範囲が小さいのかもしれない。私は思わぬ父の早逝によって金銭的な苦境に追い込まれ、周囲の人の応援や情報に助けられて進んできましたが、これに対応しつつ活路を見出してきた。それが本当に私を鍛えてくれたと感じます。

入りたい会社に入れなかった、やりたい仕事に就けなかった。それはほとんどの人にとって当然のこと。本当のあなたの仕事は、その次に始まるのではありませんか」。

☆朝日新聞23日付夕刊、スポーツ欄。NY米野球殿堂のジェイ・アイドルソン氏のイチロー評。

「イチローは、この野球殿堂に過去5回も来た。(中略)私が知るどの大リーガーよりも、彼は米国野球の歴史を深く知ろうとしている。彼以外にあれほど熱心に足を運んで、歴史を学ぼうとした人はいない」

「新しいことを学んだり、有名な選手のバットを握ったりしている時のイチローの笑顔や温かさを見れば、彼が歴史を感じていることは簡単に読み取れる。その姿を見るだけでも、とても温かい気持ちになる。一般の人々はここに見学しに来るけれど、彼は何かを吸収しに来ているんだ」

歴史に敬意を評して、そこから学ぼうとしている人の顔には、奥行きとあたたかさがあるのですよね。「教養」ってそういうことかもしれない。知識が断片的にたくさんあるということではなくて、その蓄積が、イマジネーションの力で、領域を超えて、現在・未来のあらゆる言動のはしばしに、おのずと生かされている、というような。

☆同、25日付求人欄、「仕事力」、岩田弘三さんの巻、「出過ぎてごらんなさい」、その4。

「人間は簡単に、自分が属する業界や居心地のいい仲間の価値観に染まります。(中略) 世の中で認められているマジョリティーの一員であることは、心地良い安心感があるでしょう。しかし、それは仕事の力が削がれていくことにもなります。とがった異分子になることが怖くなり、脳のどこかにある『挑戦』意識にふたをすることになりかねないのですね」

「スティーブ・ジョブズが残した、Think Different, Stay Hungry, Stay Foolishという言葉は、どれも異端児であれ、人とは違う道を考え抜けと私を刺激します。それは、ただとっぴであれというのとは異なります。本質を見つめつつ、常識で良しとされるような分別はやめよということではないか。どのようにささやかなことでも、『人の喜び』を自分の頭でオリジナルに追求せずして、仕事の達成はないとも言えます」

リスペクト。こういうことが大事だと声高に「言う」人は、他にもたくさんいるけれど、実際に静かに行動に移している人はどれほどいるのか。がんがん言ってるひとにかぎって、「いいね」をたくさんもらって安心してるみたいな風情が(苦笑)。ときどきはこのような実績の裏付けある言葉での励ましをもらいながら、だれの承認がなくても、群れを離れて、ひとりで淡々と行動に移していった人が生き残る。フィールグッドな言葉こそ、それを反芻することで満足せず、行動して成果を見せていかないと。いいことばっかり得々と唱えてるだけじゃバカ以下。自戒をこめて。

朝日新聞本日付求人欄、「仕事力」。リシャール・コラスさんの最終回「ラグジュアリーに挑め」。

25ans誌上であつかましくも「ラグジュアリー・クエスト」なんて連載記事まで書いていたことのある身ではありますが、ラグジュアリーの定義を万人に納得してもらえるように書くというところまでつきつめて探求してはいなかった。コラスさんの定義は明確にしてシンプル、力強く説得力あり。

「ラグジュアリーというのは、何万年も前から人間が求めてきた本能であり、それは、心の豊かさを求める行為だからです。例えば一万5千年も前にクロマニヨン人が描いたラスコー洞窟の壁画には、様々な色を用いて牛などの動物が描かれていますが、すでに絵画が日常を楽しく豊かにしていたことが伝わってきます。ラグジュアリーとは、自分の心が安らいだり、楽しみを発見できたりする状態のことだと、私はその本質をそう捉えています」

「見栄でもなければ、金額でもなく、その人なりの日常のベーシックな衣食住がかなって、それから、何か『ときめく』ことを見つけるのがラグジュアリーです。別の空気が流れたり、ささやかな憧れに歩み寄れたりすること、と言い換えてもいい」

「定義ができれば応用ができます。あなたが手がけている仕事に、ラグジュアリーという視点を入れていくとどうなるでしょうか」

(若い人のクールジャパンは自然な勢いに任せておけばいい、というハナシのあとで)「それよりも、何千年も続く、日本人の遺伝子に組み込まれた繊細で豊かな仕事力こそ、世界に類を見ない能力です。(中略)優雅な『エクセレントジャパン』を商品として売っていくことです」

「ビジネスは合理的にするべきだと考えている男性は特に、人の暮らしに目を凝らし、自分の中に潜むその感覚を引き出して欲しい。これから10年、20年と生き残る仕事力は、そこから生まれてくるでしょう。恥ずかしがったり、言い訳したりして、自分が作ってしまっている壁を守るのではなく、壊せない壁はないと静かに心に決めてください。日本人はラグジュアリーな仕事で、勝ち残っていくと思います」。

…「壊せない壁はないと静かに心に決めてください」。この一言にいたるまでの静かな説得力に、泣けました。地に足がついた、建設的で優雅なエクセレントラグジュアリー。遠慮や負い目を感じることなく、むしろ、堂々と推進していくべき誇らしい価値。いずれ少数派かもしれないラグジュアリークエストを続けていこうとするならば、こういう世界をめざさないとね。