現在、ディズニー服飾史を執筆中です。テキストはほぼ全部完成している段階です。ですが、政治的な問題や著作権問題などで掲載できない原稿がいくつかでてきました。たとえば<ターザン>も、ディズニーが現在版権を持っていないという理由で掲載できなくなりました。もったいないというか、せっかく書いたのにくやしいので、ここに概要(要約版)を掲載しておきます。英語版はこちらです。どうせ書くなら、世界のディズニーファンに届けたいと思います。
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『ターザン』(1999年)は、同社作品のなかでも際立って「服の少ない」映画である。だがこの布の少なさは、裸身と衣服、自然と文明、帝国と他者という複数の主題を、一気に浮かび上がらせるための、精密な装置として機能している。
本作の衣装構成は極端だ。ターザンは腰布のみ、ジェーンはヴィクトリア朝風のフルドレス。この両極のあいだで、観客は「身体そのものを服として読む視線」と、「布の構造を文明観として読む視線」の両方を要求される。
ターザンは、ほとんど裸であるにもかかわらず、「裸の人」としては記憶されない。その理由は、彼の身体が、布の代わりに高度に設計された「機能的な衣装」として描かれているからだ。
アニメーターのグレン・キーンは、ターザンの身体を描くにあたり、徹底した解剖学的設計を施した。肩甲骨や背筋、上腕筋が動きに応じて連動し、ポーズごとにシルエットが変化する。筋肉の稼働そのものが、立体裁断されたスポーツウェアのような役割を果たしているのである。
象徴的なのが、樹木を滑走する「ツリーサーフィン」の動きだ。ここで参照されているのは、原始的身体ではなく、20世紀後半のサーフィンやスケートボードに代表されるスポーツ文化の身体操作である。本来なら高機能ウェアと結びつくはずの運動性能を、『ターザン』は布ではなく身体そのものに引き受けさせている。
腰布は、筋肉の動きを邪魔しない最小限のラインとして存在する。揺れは後ろ姿に限定され、視線を導きながら運動の軌跡を可視化する。ターザンは服を「着ていない」のではない。身体が服になっているのだ。
場違いなドレスがほどけていく
これと正反対の極に位置するのが、ジェーンの黄色いドレスである。張り出した背面を強調するバッスル・スタイルは、19世紀末のヴィクトリア朝女性を象徴する、文明的なシルエットである。
この服は、都市と社交空間を前提に設計された装いだ。整えられた床や室内では機能するが、熱帯雨林ではたちまち不適応を露呈する。裾は泥に絡まり、ボリュームは動作を妨げる。文明のための服が、環境の変化によって無力化される様子が、細やかな動作描写で示されていく。
物語の進行とともに、ジェーンの服装は変化する。ジャケットが外れ、袖がまくられ、シルエットは軽量化していく。この過程は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて進んだ、女性服の機能化──スポーツウェアやリゾートウェアの成立──を圧縮した視覚表現として読むことができる。
手袋が外される場面も象徴的だ。手袋は礼節と階級の境界線であり、それを脱ぐことは、文明的距離を一枚剥ぐ行為である。布の層が減るほど、身体と身体の距離は縮まっていく。
帝国的視線の反転
19世紀ヨーロッパにおいて、布の量は文明度の指標だった。多く着る側が主体であり、ほとんど着ない身体は「未開」として客体化されてきた。
『ターザン』は、この図式を意図的に反転させる。物語の倫理的中心に置かれるのは、布の少ない側──ターザンとゴリラたちである。一方、布を重ねた探検隊は、知識や武力を備えながらも、搾取と暴力の象徴として描かれる。
ターザンとジェーンが互いの手を見比べる場面では、裸の腕と布に覆われた腕が並ぶ。しかし強調されるのは差異ではない。骨格と構造が同じであるという事実だ。布は、身体の本質ではなく、表面に加えられた文化的な層にすぎない。
『ターザン』が示すのは、「裸身=劣位」という19世紀的発想の終焉である。環境との関係の結び方次第で、裸身はむしろ倫理と共同体を担う側に立ちうる。その視線の転換を、服の設計を通して描き切った点に、この作品の革新性がある。


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