外山滋比古さんの『思考の整理学』(ちくま文庫)読み終える。20代のときに読んでいたはずなのだが、きれいに忘れている。というか、たぶん20代のときにはピンときていなかったことが、今であればこそしみじみ納得できるのだろうなあ・・・・・・というところがたくさんあった。

忘れることが「古典化」に不可欠という考え方が強く印象に残った。「忘れたくない」ので(笑)メモしておく。

「"時の試練"とは、時間のもつ風化作用をくぐってくるということである。風化作用は言いかえると、忘却にほかならない。古典は読者の忘却の層をくぐり抜けたときに生まれる。作者自らが古典を創り出すことはできない。 (中略) きわめて少数のものだけが、試練に耐えて、古典として再生する。持続的な価値をもつには、この忘却のふるいはどうしても避けて通ることのできない関所である」。

人の思考を「古典化」するためは、こんな自然の忘却のふるいを待っているわけにはいかない。人為的に忘れろ、どんどん忘れて思考を古典化せよ、と外山さんは説くのである。

「忘却は古典化への一里塚」「生木のアイディアから水分を抜く」など、思わず座右の銘にしたくなる言葉が満載。ほかにも名言あり。

☆「ひとつだけでは多すぎる」―複数のテーマを同時に進めたほうが、煮詰まることもなく、頭も伸び伸びと働き、思わぬセレンディピティを得られるなどの利点があることは、経験からもよくわかる。

☆「没個性的なのがよい」―素材たちに化学反応を起こさせて独創的なアイディアを得るためには、考える本人の自我や個性などが強く出ないほうがいい。今後、心がけたい最大の課題。

☆「ほめられた人の思考は活発になる」―中傷は心を「殺す」ことに等しい、とは経験からの実感。「どんなものでもその気になって探せば、かならずいいところがある。それを称揚する」というすすめに共感。

☆「思考を生み出すにも、インブリーディングは好ましくない」―インブリーディングとは近親結婚のようなもの。異質な要素がかけあわされてこそ新しい風が入る。

☆「発明するためには、ほかのことを考えなければ、ならない」―なにかほかに拘束されることがあって、心が遊んでいるような状態のときに、よい発想が浮かぶ。

☆「人間には拡散と収斂というふたつの相反する能力が備わっている」―読んだものを自由に解釈して、尾ヒレまでつけていくのが拡散。筆者の意図を絶対として「正解」に向かおうとするのが収斂。「読みにおいて拡散作用は表現の生命を不朽にする絶対条件であることも忘れてはならない。古典は拡散的読みによって形成される」。

一方、「拡散のみあって収斂することを知らないようなことばがあれば、それは消滅する」。

背骨に太い支柱を添えてくれるような1冊。迷ったら、また読み返したい。

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