◇日々少しずつ数字が加算されていく死亡者数。日々状況が悪化する原発。ついに東電は低濃度の(っていう表現もごまかされているようで気持ち悪い)汚染水を意図的に海へ流し始めた。高濃度の汚染水の流出も止められないまま。茨城ではコウナゴ汚染。
シャングリラホテルの休業。外国船の日本への寄港忌避。農業と漁業への長期的なダメージ。
じりじり、じりじり、と事態が悪化していくことに対し、不思議なことに、最近は、当初のような不安を覚えない。長期間こういうのが続いて、心身が<日々、悪いことが加速していくこと>に慣れてしまったようなのだ。それとも感覚がマヒしたのだろうか。「関心がなくなった」とか「ニュースに飽きた」ということとは違う。「冷静になった」「楽観するようになった」というのとはもっと違う。毎朝NYタイムズやウォールストリートジャーナルの記事と日本政府の発表を読み比べては、腹を立てたり疑問を抱いたり、<気にしすぎない努力>をしたりしている。ただただ、身体が「不安に慣れた」としか思えない状態。
大戦中、空爆の恐怖をどのように人々はしのいだのか、と常々不思議に思っていたが、ここにも「不安や恐怖に対する、慣れ」のようなものが、ひょっとしたら生まれていたのだろうか? 憶測にすぎないが、ある程度の慣れによって、極度のストレスから心身が守られるということもあるのではないか、と感じる。
あるいは、来るかもしれないより大きな恐怖に備えて、心身が自発的にエネルギーを消耗させないようにしているのだろうか? との思いもよぎる。
◇大学の同僚、森川嘉一郎先生のツイートより。あまりにすばらしいので引用させていただく。
「今回の地震対応に対する海外の報道を見ると、日本という「国家」には、よく訓練された子供達(国民)がいる一方、責任を担う大人達がいないという、既成の日本観をさらに戯画化したようなイメージが醸成されつつある。他方でそうした自国の戯画を笑えるかどうかが、文化的成熟の一つの指標でもあるが」。
さすがの洞察。
責任を担う大人が、笑いごとではなくて、いない。政府と東電の、後手後手の無責任ぶり(がんばりは認めるが、それとこれとは別問題)。あれだけは、ぜったいに「慣れ」てなんかやらない。そもそも、そういう政府を<しかたなく>選んだ私たち大人、原発のことを深く考えずにいいとこだけ享受していた私たち大人の無責任にも、これ以上、「慣れ」てはいけない。自戒。
「がんばろう」は「頑張らないお前はダメになる」のメッセージになる
サンデー毎日にある野田正彰氏の寄稿に唸る。
「行政や社会が作り出す被災者への負荷を、『心のケア』がストレスに起因するものだとぼかしてしまったのを忘れてはならない。」
私が今心がけていること。
1.テレビのニュースは見ない
2.新聞も2紙(地方紙と毎日)だけ読む
3.中野香織氏のブログに目を通す
バランス回復の特効薬は、緊張と緩和による心のストレッチかと。
立山連峰は、今日も朝日を受けて輝いています。