ナンシー・ウッド『今日は死ぬのにもってこいの日』(めるくまーる)。ネイティブ・アメリカンの思想とファッションについて書く必要が出てきたので、読んだ資料。宇宙的な時間の流れの中で「自然の一部」として淡々と堂々と生き、祝祭のように死んで次代へと命をつないでいくネイティブ・アメリカンの考え方が、「詩」のような形式でつづられる。
原発事故のような、人のおごりが招いたとしか思えない災害が身近にあるいま、いっそう彼らのことばが説得力をもってくる。
「白人がわたしたちにすることには、一定のパターンがある。まず初めに彼らは、わたしたちが必要としない贈り物を持ってやって来る。それから彼らは、売ろうにも、もともとわたしたちの土地ではない土地を買いたいと申し出る。
土地はそもそも誰のものでもない。それはただ、感謝して、優しく使ってもらうためにここに置かれているだけなのだ。土地はそれ自身に属しているわけで、その点、空の月や星と同じことだ」
「彼らはずいぶん前から、わたしたちのところへやって来ては、みんなが同じ顔になるように、わたしたちを丸めこんで白い顔にしようと懸命だった。わたしたちは、このわたしたちを変えようとする彼らの固定観念、わたしたちの土地を、『利用』と呼ばれる言葉で割り切ろうとする彼らの固定観念が、よく理解できなかった。そしてもうひとつ、わたしたちのものではない考え方に沿って、わたしたちにもものを考えさせようとする固定観念、これも同じくわたしたちの理解を超えていた」
「口を開けば白人は、わたしたちにはもっと物が必要だと言う。しかし物を持てば、わたしたちはその代償として、自分の魂を売らねばならない」
がーんとやられるような、でも静かで深い衝撃。大地や宇宙の流れの中で完全に自然と一体となった生き方をしているからこその、「今日は死ぬのにもってこいの日」。歴史は円環的にくりかえしているし、万物は一度死ぬことによって、生を取り戻している。その死生観に裏付けられている、大きくて穏やかな思想に、洗われる。
「冬はなぜ必要なの? するとわたしは答えるだろう。新しい葉を生み出すためさと。(中略) 夏が終わらなきゃいけないわけは? わたしは答える、葉っぱどもがみな死んでいけるようにさ」
こういうふうに考えることもできる、と知ることで、逆に心を穏やかに保っていくことができる。
連投すみません。今日は今のところヒマなんで・・(笑)
今回のエントリーを拝見いたしまして、思い出したのが、槌田敦さんという物理学者(反原発の学者さんです)が、著書の『エントロピーとエコロジー』で引用されていた、『パパラギ(岡崎照男訳:立風書房)』という文明批判の本の、次の一節。今回のエントリーにもつながる、考えさせられる文章だと思いましたので、ご紹介させていただきます。
『たいていのパパラギ(白人)が、その職業ですることのほかは何もできない。頭は知恵にあふれ、腕は力に満ちている最高の酋長が、自分の寝むしろを横木にかけることもできなかったり、自分の食器が洗えなかったりする。色とりどりに手紙を書ける人が、入江でカヌーを走らせる力がなかったり、その逆もまた起こりうる。職業というのは、つまりこうである。ただ走るだけ、味わうだけ、匂いをかぐだけ、ただ戦うだけというふうに、いつでもひとつのことしかできないということなのである』。
『時間はそこにある。あってもまったく見ようとしない。彼は自分の時間を奪う無数のものの名前をあげ、楽しみも喜びももてない仕事の前へ、ぶつくさ不平を言いながらしゃがんでしまう。だが、その仕事を強いたのは他の誰でもない、彼自身なのである』。
>はすざわさん
こんな文章にふれると、はっと気づかされますよね。西洋の資本主義が強いてきた論理というのは、しらずしらずのうちに自分のなかに「自明」のものとして溶け込んでいて、その毒で自分自身が苦しんでいるのだなあ、と。
原発事故以来、いっそうその功罪を考えることが多くなりました。
今は「論理」以前に、物理的な毒が身体に浸透してくることを避けられないというブキミさがあります。しらずしらずのうちに子どもたちが放射線物質をとりこまざるをえなくなっている状況、まったくシャレになりません……。