「日経ビジネスアソシエ」の反響大きく、じゃあ、スーツにボタンダウンを合わせるのはありかなしか、とか、シャツの下にアンダーシャツを着るのはありかなしか、とか、その他もろもろ、ご質問をいただいたりしています。ありがとうございます。
あることに気づきました。そういう質問やコメントなどを寄せてくる方は、必ず「起源」を書き添えていらっしゃるのですね。たとえばビジネスシャツといえどシャツはもともとアンダーウエアだったものだから(その話は私の『モードの方程式』で読んで知った、と^_^;)、その下にさらに下着を着るのは間違いではないか、とか。
理にかなったご質問をいただくのは、たいへん、ありがたいことと感謝しています。でも、いい機会なので、私のおおよその立ち位置を、書いておこうと思います。服飾評論家ではなく、ましてやスタイリストでもないので、服を実際どう着るのが「正しい」かなんて、指南できるような立場ではないと思っています。
エッセイスト&服飾史研究家としての私は、ファッションの表層的な表現よりも、それを支える人間の行動や心理のほうが興味深くて、観察したりモノを書いたりしてきましたそれを書く目的は、史実の正確な描写というよりもむしろ、「現代の読者に喜んでもらうこと」。それこそ、ダイアナ・ヴリーランド流の「ファクション」です。ファクト+フィクション。淡々とした史実の正確さの再現でスルーされるくらいなら、むしろ、現代人にウケそうな多少の誇張を加えてでも読ませちゃえ、と。
シャツがアンダーウエアであったことはまぎれもなく事実です。それをたしかに拙著で伝えました。でも、そのお話と、現代の男性がシャツをどう着るべきかを指南することは、まったく別問題ではないか、と私は考えています。史実をどう解釈して、どう着るかは、その人自身のモンダイ。かつて下着であったものであろうが、今は素材も違うし位置づけも違う。歴史に敬意を払うもよし、今の快適さを重視するもよし。どちらにせよその男の内面がうかがわれる。私が観察して書いておきたいのは、男の、そんな内面の表れのほう。周囲に迷惑さえかけなければ、シャツの下にアンダーウエアを着ようが着まいが、どっちだっていいじゃないかと思っています。
そういう立場で観察して書き続けていたら、書いてきた分量が分量だけに、いつのまにか「メンズファッションのオーソリティ」みたいに誤解されるようになって今に至ります……。でも私はファッションの権威でもなんでもありません。もちろん、書くことに伴う責任はつねに引き受けているつもりではありますが。どちらかといえば、常に権威に茶々を入れる側の人でありたい。それに、19歳で「書く人」としてデビューして以来、ロマンチストのエッセイストであることには変わりないので、もし、「圏外」からの召喚がきたら、そちらへの冒険に行ってしまうかもしれない。Only God Knows.
それにしても、こうして男のファッション行動を観察してきて面白いなと思うのは、男は、服ひとつ着るのに、「権威の裏付け」みたいなのをほしがるということ。「根拠」や「正当性」を支える理屈を欲しがるということ。それをふりかざすためには、使える「史実」であれ「権威の一言」であれ、なんでも使うのね。たとえそれがどこかで矛盾を起こしたとしても。
さらに興味深いのは、その「権威の裏付け」なり「正しさの根拠」なりを、自分自身に納得させるために、他人にまで広め、同志でそれを共有しようとして「群れる」こと。自信のなさの表れかな。群れてかっこいい男なんていないわよ~(^_-)-☆