12月号。続々届く、月末発売の雑誌が「12月号」なのである。今年の終わりということ。もう、ですか(@_@;) 以下、気になった記事の備忘録メモです。
☆「25ans」お悩み相談室。「男っぽい性格を直したい」というエレ女32歳の質問に対し、名越康文先生のお答え。
「仏教では、人間の行いは『身口意(しんくい)』の3つに表せるといいます。『身=動作』『口=言語』『意=精神』の3つに対して、それぞれひとつずつ心がけるポイントを考えてみてください。たとえば『身』では、エレベーターや道で知り合いに会ったとき、先に笑顔でゆったりと会釈をする、『口』では会話の語尾を強く引っ張らず、少しこもらせるようにやわらかい鼻声を意識して発音する、『意』では毎朝、お世話になった人をひとり思い浮かべて感謝してから出発する、というように。(中略) こうやって二つ三つ、具体的なことにあらゆる面にこの行動がゆるやかに波及して、所作やふるまいに女らしさや優しさが表れてくるのです。すると人間関係にも、協力者が増えたり、深いところで心のつながりが出てきたり、といった変化が起きてくるものですよ」
変わりたいと思えば、具体的な、毎日の小さな行動を変えていくしかないのですよね。
☆同、斉藤薫「審美人論」。女の称号の話。
「最終的に女が人生かけて獲得したい称号は何か?と言ったらやっぱり『女神』なのだろう。(中略) 女は自分が生きている環境の中で、いつでもどこでもどんなふうにも女神になれるわけで、だったら女神たる存在を目指すべきではないか。もちろん美しく魅惑的でいつもオーラを放っているのが女神の条件だけれども、彼女がいれば大丈夫、彼女といると元気になれる、心が洗われる、心が温まる、心がしゃんとする……そう言われる立場になることって、やっぱり女として最高位」
ああ、ミューズってそういうことだったのですね。キレイなだけではダメ。周囲の心にエネルギーを与え、明るくし、安心させ、「しゃんとさせる」ような存在。
ちょっとハナシが逸れるけど、私がいちばん嬉しくない呼ばれ方は「女史」。他人にも絶対使わない。あと、教え子でもないのに「先生」と呼ばれるとおそろしく居心地悪い。でも最近はそう呼ぶ方の気持ちもわかってきたので、適当に呼ばれ流している。
☆同、木村孝さん「木村孝先生に叱られたい!Returns」、Q&A。「先生のようにずっと輝いて生きるためにはどうすべきですか?」というQに対し。
「自分で輝こうなどとあつかましいことを考えてはいけません。輝いているかいないかなんて、本人にはわかりません。それより、自分が錆びつかないよう、考えが濁らないためにはどうしたらよいかを考えて。そして怠けず一生懸命生きましょう。やらねばならないと思うことをさせていただくの」。
ごもっともです。 自分でどうこう見せたいというエゴは、排除すべき(自戒をこめて)。どう見えるかは人が勝手に決めていく。自分はこうありたいということを淡々と慎ましく「実行」していくほうがはるかに「輝き」への道に近いのだと思う。近頃の、セルフブランディングとやらで躍起になって表層に凝る風潮がきもちわるい。みんな同じようにつるんとしている。底光りしてない。
☆朝日新聞 27日付「仕事力」、舛添要一「苦境から底力をもらおう」の巻、その1「思い通りなら面白いのか」
この方、やはりタダモノではなかった。父を中2でなくし、経済的におそろしく苦労しながらも、周囲の応援と努力と情報戦で大学まで卒業した。立派だ。写真に後光がさしてみえる。
「どんな百万長者の子どもでも、大学に入ったら自分で努力し、制度の情報を集め、働きながら卒業しろと。そうしてこそ『セルフ メード マン』、自立した人間であり、社会で仕事ができる人材であると」
「人は、予想していたように物事が進んでいくと、力を出せる範囲が小さいのかもしれない。私は思わぬ父の早逝によって金銭的な苦境に追い込まれ、周囲の人の応援や情報に助けられて進んできましたが、これに対応しつつ活路を見出してきた。それが本当に私を鍛えてくれたと感じます。
入りたい会社に入れなかった、やりたい仕事に就けなかった。それはほとんどの人にとって当然のこと。本当のあなたの仕事は、その次に始まるのではありませんか」。
お疲れ様です。
ブログでの3つの記事の紹介、今の自分に響きました。ちょっと心身弱っているので。
女性誌の記事部分も性別関係ないです。
ありがとうございます。
>ドロッセルマイヤーさま
少しでもお役にたてたらマイプレジャーです。弱ってる時こそ、深く自分とつきあうことができますね。
よい時間を過ごしてください。