このようなことは最近、いたるところで感じる。(以下は、触発されて連想したことなので、上の文意とは少しずれていきます、ご寛恕)
「真・善・美」を表現すると、嫌われる。「正しさ」が正しさゆえに疎んじられる。そんなものをふりかざされても生活は崖っぷち、前途まっくら。正しいことを公言されると、そうしたくてもできない人が、自分が間違っている、無視されている気になって深く傷つく。生活と環境が窮地に追い詰められていくとそんなふうに心が反応するのは当然のことなのかもしれない。
真・善・美・正・知を屈託なく表現できるのは、「恵まれた」一部の人間だけなのだ。だからそれが絶対的にいいもの、めざすに値するもの、と何の疑問も抱かず表現してしまうと、そこに至りたくても至れない人々を傷つけてしまう、という構造が生まれる。ヒラリー・ヘイター(ヒラリーを嫌う人たち)、ドナルド支持者、ブレグジット(英EU離脱)賛成者のなかにも、このように「傷ついた」または「むかついた」人が多かったはず。
Post-Truthとはこういうことでもあるのか。
(客観的事実よりも感情的な訴えかけの方が世論形成に大きく影響する状況。真実かどうか?などたいして重要ではなくなり、嘘でももうかればいいじゃないか、面白ければいいじゃないかという状況。OEDが2016年のワードとして選んだ)
真・善・美・正・知は絶対的でいいもの、表現するにふさわしいものだと思っていたとしても、表現する側は、受け取る側の影の感情にまで思いをめぐらして、そうとう繊細にやらないと、「正論に傷つけられた」と受け取ってしまう人たちから、嫌われる。どころか、不条理な攻撃にさらされかねない。
マリー=アントワネットによる「パンがなければお菓子(ブリオッシュ)を食べればいいじゃないの」というコメントは、彼女の世界観においては正しかった。小麦粉がないなら、小麦粉の割合を減らしてバターと砂糖を増やしたブリオッシュを作ればいい、という発想は、宮廷周辺だけで過ごしてきた彼女の世界観における、屈託のない「正論」だった。
(Still life with brioche, Jean-Baptiste-Siméon Chardin, 1763. Wikimedia Public Domain)
正しさを語ることができるそもそもの前提が大きくずれていたから、大衆を傷つけた。
(そもそもこのことばは、ルソーの本のなかの「ある上流階級の女性」のことばの引用であって、王妃が言ったのではなかったらしいのだが。それをマリー=アントワネットと勝手に決めつけ、憎しみの矛先を向けた大衆がいたということこそ、Post Truth。これは現代に始まったことではないのだ。)
現在も、正しさや善を語ることができる共通前提が、おそらく、同じ日本語圏においても、なくなってきている。それほど社会格差が広がっている。だからいっそう、慎重になり、警戒する必要がある。正直、足がすくむ。こんな時には、何も語らずやりすごすのがいちばん「無難」だ。それでもあえて真・善・美・正・知を語ろうとするとき、これまで以上に勇気と覚悟と繊細な気遣いが要るような気がしている。
あるいはむしろ、なにを表現しても攻撃にあうのであれば、まったく世俗とは切り離された宇宙に住んでいるかのように自由奔放に、別次元の世界の人になってしまうか。
いずれにせよ、中途半端は、淘汰されていくしかない。
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