米山隆一氏に関する週刊誌報道、それに便乗した「エリート」バッシングの記事などを目にするにつけ、残念でなりません。

東大医学部を出て医者になり、さらに弁護士資格も取得し、政治家に転身して新潟県知事にまでなった方とあれば、その頭脳は日本の宝。報道されていること以上のことはわかりませんが、本人の釈明が正直なものであるとするならば、女性に対する接し方があまりにも無知で無防備、ナイーブだったことに起因した不祥事だったようにも見えます。

今回のような、バランスを欠いたエリートの失脚事件を残念に思うゆえ、また、同様の社会的な損失を二度と出さないためにも、かねてから書いたり話したりしてきたことを今一度、提言したいと思います。

男性は、人生のどこかで、「ソーシャル・グレーセズ」(Social Graces)を学んでおくことが絶対に必要です。紳士として世界のどの場面でも敬意を払って扱ってもらえるような、社会的な品格のことです。それを感じさせるための社交術といってもいいかもしれません。

女性が身につけておくべきSocial Gracesに関しては、フィニッシュング・スクールやマナー・スクールなど民間に教育機関が多々あり、また女性は好奇心も行動力もあるので自ら学びとっている人も多い。しかし男性、とりわけ高学歴エリート男性となると、そんな暇もないどころか、そもそも学ぶ必要性すら感じていない方も多い。女性、というかそもそも「人」に対する接し方ひとつ知らないまま仕事に明け暮れてしまう結果、今回のような落とし穴にはまってしまうケースが生まれたらとしたら、それまでの膨大な努力も一瞬で泡になってしまう。本人にとって悲劇であるばかりではありません。長期間にわたり彼に対して費やされてきた莫大な教育資本が無駄になってしまうのですよ。社会的な損失は計り知れません。

高校時代までは学ぶ機会も動機もなく、社会人になってからは学ぶ時間がとれないということであれば、大学の教養課程のカリキュラムに押し込んでしまうという方法もあります。まずは東京大学から教養課程で「紳士のためのソーシャル・グレーセズ(Social Graces)」を必修としてみたらいかがでしょうか。世界の舞台で恥をかかないスーツの基本着装法に始まり、プロトコル、フォーマルのルールはもちろんのこと、レストランや各種社交のシーンでの振る舞い方、女性に対する接し方にいたるまで。表層のハウツーや決まりを教えるのではなく、なぜそうするのか? その起源はどこにあるのか? その行動をとることによって(あるいはとらないことによって)どのような結果の違いが生まれるのか? 国や地方による違いがあるのかないのか、それはなぜなのか? というところまで踏み込めば、十分、アカデミックな講義になるでしょう。

海外のエリートは、といっても国によりさまざまですが、たとえばイギリスのエリートに関していえば、パブリックスクール⇒オクスブリッジという教育環境(校内だけでなく、そのソサエティの社交場面を含みます)や、家庭環境のなかで、ごく自然に社交のルールやスーツの着こなし、女性のエスコート方法などを学んでいます。日本のエリートにそのような環境が欠けているとするならば、早いうちに学んでおく環境を大人が作ってあげるのも手です。

 

 

東京大学に対する世間の偏見を思うと嫌味に聞こえたら申し訳ないのですが、決して自慢でもなんでもなく淡々とした事実として、私は学部から大学院博士課程までトータル12年間、東大で学ばせていただいたうえ、英語の非常勤講師として6年ほど教育に携わる機会もいただきました。だから、東大にはとても感謝しているのです。お世話になった母校の名前が、こういった不祥事のときにここぞとばかり軽蔑や揶揄の対象にされることに、日本の「東大嫌悪」を痛感して、いたたまれない思いがします。一学年3000人も入学するので、実にバラエティに富んだいろんな人がいます。ただ、女性が圧倒的に少ない環境であったために(今はずいぶん改善されていると聞きますが)、女性との普通な接し方がわからないまま女性をいくつかの種類にステレオタイプ化して見てしまう男性も少なくなかったように思います。

エリートによるセクハラや、それに対するエリートによる時代錯誤的な反応、あるいはエリートによる「女性との交際における過誤」を見るにつけ、このような状況を今後、現出させないためにも、ぜひとも、社会的品位も身につけた紳士エリートを東京大学から輩出してほしいのです。もちろん、東大ばかりではありません。家庭でそうした教育を十全におこなうことが難しいとなれば(実際、私自身がひとりで息子たちを教育することには苦労していますし、限界も感じています)、各大学あるいは各専門学校においても、社会的品格のための教育の機会をなんらかの形で設けるべきです。問題が表出した事件はおそらく氷山の一角。10年後、20年後の未来を見据え、Social Graces教育は必須です(ひょっとしたら教員世代の教育から始めたほうがよいのかもしれませんが)。

 

 

“There’s a certain pattern that exists with geniuses – an eccentricity, a lack of social graces and an inability to really communicate with mere mortals.” (By John Noble)

 

ソーシャルグレーセズを欠いていてもコミュ力がなくても、場合によっては人を魅了することもあるんですよね。天然でおそろしくチャーミングな天才であるとか、あるいは人類の「進歩」(があるとすれば)に多大な貢献をするような度はずれた研究成果を出す大秀才であるとか。こういう人材をざくざく輩出していただくなら、上の提言、もちろん撤回です。

 

 

 

 

 

 

0 返信

返信を残す

Want to join the discussion?
Feel free to contribute!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です