中里唯馬さんが運営する「ファッション・フロンティア・プログラム」にお招きいただき、新ラグジュアリーの講演をさせていただきました。参加者の方には海外の方も数名いらっしゃいます。

社会的責任と創造性をあわせもつデザイナーの育成、というプログラムの趣旨は、新ラグジュアリー的な世界観と重なります。中里さんによる、未来を見据えたグローバルスケールでの教育的活動、応援したいと思います。

鈴木正文さんが編集長だった時代のNAVIに連載していた「スタイリッシュ・カリズマ」、アーカイブにアップしました。全6回です。この連載がもとになって『スーツの神話』が生まれました。もう四半世紀も前の話ですが。

 

ANA 「翼の王国」に連載していた「WHO’S  WHO」もアップしました。第4回、第5回を掲載した本誌だけがどうも見つかりません…。アーカイブが入手できそうな伝手、おわかりになる方はなにとぞご教示くださいませ。各地の目立たぬ、しかし匠の技を駆使した仕事をなさっている職人さんたちを取材した連載です。あれまら17年ほど。みなさんまだお元気でご活躍でしょうか…。

 

トップ写真は寺家町のひまわり。もう枯れ始めております。まだまだ猛暑が続きそうですが、夏も終わりに向かいますね。台風の上陸も予想されています。どうぞお気をつけてお過ごしください。

 

 

NewsPicksではプロピッカーを務めておりますが、以下、本日ピックしたニュースにつけたコメントです。高校生にも話すことでもあり、過去のエッセイにも書いておりますが、転載し、補足をつけます。

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文章を書く仕事をしていますが、高校は理数科でした。いまの仕事に最も役に立ったのが数学です。

ひとつの数学の問題を解くのに、黒板いっぱいに数式を書いて正解を導いても、それは「エレファント」として却下されました。問題の本質を捉えてすっきり一行でおさまる数式を書いたとき、それがエレガントな解として認められたのです。「E=mc²」みたいな解ですね。

ファッションや生き方、文章におけるエレガンスも同じことかと気づいたのは、ずっと後になってからのことです。Eleganceは、Election (選挙)やElete(選び抜かれたエリート)と同じ語源から発生しています。選びぬくことがエレガンスの本質。つまり、必要な要素だけを選び抜き、本質をシンプルに表現することがエレガンスですが、それを教えてくれたのは数学だったのです。

直接、役に立たないように見えることでも、敬意を持って向き合ってみることで、あとから予想を超えるところで影響がもたらされることの醍醐味、こと数学にかぎったことではありません。何かを短絡的に役に立つ立たないの基準で切り捨てることは、未来の豊かな可能性をみずから切り捨てることと同じで、もったいないことと思います。

 

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これまでのささやかな経験を振り返っても、チャンスや転機はまったく予測もつかなかった過去の「圏外」の領域から飛んできました。共通するのは、当時「無関係」に見えていたとしても、決して排除したり軽視したりはしなかったということ。今日向き合うことや出会う人が、未来の可能性の種になるという確信は強くなっています。人に対してひどい態度をとれば利息付きで報いが返ってくるだろうし、敬意をもって接すれば(媚びることとは全く違います)遠い未来に思ってもみなかった恵みが降り注いでくることもあります。

 

11日の公開初日に「Barbie」鑑賞しました。

爆笑!最高!大爆笑!というシーンが続くその合間にシリアスな社会批評ががんがん投入され、最後は地に足のついた人間賛歌で終わりじわじわと余韻を残す快作でした。

現代社会への問題的は多々ありました。なかでも印象に残ったのが「自分はなにものにもなれていない、なにものかになりたい」症候群のこと。これは先日のやましたひでこさんとの対談でも提起された話題でした。今の50代、60代の女性のなかには「なにものにもなれなかった、これからどうすればよいか」と悩んでいる方が多いということでした。

バービーは「女の子はなんにでもなれる」という理想を謳い、大統領にも宇宙飛行士にも医者にも清掃員にもなれたわけですが、逆に、「なにものかにならなければ」というプレッシャーを女性に(男性にも)暗黙裡に与えてきた、という指摘が映画の中でなされていました。「なにものでもない」「なにものにもなれていない」というプレッシャーは国境や年齢を超え多くの人が感じている悩みであるようです。

なにものにかなりたい欲などかけらもなく、「なにものでもない」私がこんなことを言うのもまったく説得力がないのですが、

「レンタルなにもしない人」のビジネスがなぜあれほど盛況なのか。なぜお金を払ってまでなにもせずそこにいてほしいのか。なぜ敬意をもって崇められるのか。ここにも一つのヒントがあるように思えます。なにもできない自分を卑下もせずありのままに生きながら人に寄り添うこと、これが究極に難しくて、おそらく人間のあるべき理想形でもあるからではないのか。

映画ではケンがこの境地にいきつくわけですが、そこまでのプロセスがほんとにたいへん! (笑)

CFCLとバレエダンサーのコラボが始まりました。デザイナーの髙橋悠介さんと対談しました。今の「日本らしさ」や西洋ファッションとバレエの関係、身体と衣服の話など。髙橋さん世代にはすでに洋服が当たり前のオリジンとしてあるんですよね。「和」にこじつけない日本オリジン、再考する機会になりました。CFCLの公式ウェブサイトに掲載されています。

共同通信から依頼を受け『デザイン至上主義の世紀』の書評を書きました。ぼちぼち各地方紙に掲載されるかと思います。

そもそも「横浜スカーフ産業」を知らなかったのですが、戦後日本の各地の地場産業の栄枯盛衰の背景には共通する事情があると知りました。

未来に活かせる教訓はたくさんあるのですが、その一つ:外国の権威に頼らずおもねず主体性を鍛えよう。

ソーシャル・コーヒー・ハウスにお招きいただき、令和時代の新ラグジュアリーについて講演しました。オーディエンスは20代から30代、新ラグジュアリーととても相性のいいコミュニティでした。

たくさんの質問、コメントをいただきました。「日本はもうダメなんじゃないかという絶望感がありましたが、日本発のラグジュアリーを世界に届けるためにがんばっている人たちの話を聞いて希望がわいてきた」というのがあって、かえって衝撃を受けました。若い人に絶望感を与える社会ってなんなのか? 大人はそれでいいのか? 自分の利権ばっか、縄張りばっか大事にして、次世代から希望を奪うってなんなのか?

理想論すぎるのは重々承知の上で、私みたいな何の利権も権威もない人間が理想を語っていかないとダメなところまで日本は来ているのか?

権威のある偉い人は、若い人に希望を持たせる振る舞いもノーブレス・オブリージュとして遂行してくださるよう切に願います。

日本の未来、あなたの未来は大丈夫だよと明るい方向を示すこと、それも大人の義務なんじゃないかと気付かされた時間でした。

オーガナイズしてくださいましたソーシャル・コーヒー・ハウスのスタッフの皆様、メンバーの皆様に感謝します。

北日本新聞「ゼロニイ」連載記事、最新のエッセイがウェブ版に転載されました。富山のローカルコミュニティで生まれつつある新しいラグジュアリーの兆し。