ここ一週間くらいの移動中インプットのなかで印象に残っているエンタメと本のメモです。

◎シティハンター◎

Netflix。原作の漫画も知らずに見始めたのですが鈴木亮平のあまりのすばらしさに驚愕。ガンアクションが細部に至るまで華麗。コスプレ会場でのアクションもお笑い交じりなのにダイナミックで美しい。かけらの無駄もない筋肉×天真爛漫笑顔でのもっこりダンスサービス。英語音声になったままで見ていたので、出演者全員、なんてすばらしい英語をナチュラルに話すんだと感動していましたが、これ英語版吹替だったのですね。英語版で世界制覇可能なレベル。

◎破戒◎

こちらもNetflix。恥ずかしながら島崎藤村の原作を読んでいなかったし、過去何度かの映画化も見ていなかった。弱い人間の心が差別を生む。差別の構造は100年前も今も変わっていない。時代が変わっても偏見に凝り固まり同じような意地悪をする人が大勢いる。シンプルでずしり重たいストーリーですが、間宮祥太朗の端正な清潔感、全編に貫かれる美しい日本語と救いのあるラストにより、すがすがしい余韻も残る。

◎谷川嘉浩『人生のレールを外れる衝動の見つけ方』(ちくまプリマー新書)

キャリアデザインとか人生設計なるものをかねてよりうさんくさく思っていたので(自分がレールを外れっぱなしだったのでよくわからないだけなのかもしれないですが)、そうそうそう、と膝を打つような箇所がずいぶんあった。プラン通りの平均的な人生やキャリアのレールを歩むこと、「本当にやりたいこと」を見つけさせられること、「モチベーションをもつこと」に対する疑問を思いっきり呈してくれる。

衝動は、モチベーション(3種類)という基準ではとらえきれない。合理的な説明では回収しきれない「過剰さ」や「残余」として指さすことができる、と著者は言う。「え?なんでそんなことを、そんな熱量で?」と質問せざるをえない、謎の力。このあたり、ラグジュアリーのことを考えている身には痛く共感できる。ラグジュアリーは、過剰と不可分だ。

自分で自分の価値を高めて対価をもらう、という経済行為に関しても、「自分自身で市場に売られに行く」ようなものであることに、はっと気づかされる。就活や友人関係、恋愛関係でも同じ。自分を市場価値の基準に合わせて磨いてみたりするのは、「自分を高く見せて『商品』として売り込もうとすること」ですね。それはつまり「自分を『売り物』として扱う生き方」。だからこんなにみじめな気分になってくる。

衝動は、自分でも驚くような行動をもたらす、という指摘にも共感するし、衝動は意外と持続可能性があるという指摘も、人文学的に(!)正しいと思う。というのも、こうした衝動に基づく「レールを外した」人生やキャリアというのは、私がよく講演で引用しているキャンベルの「ヒーローズ・ジャーニー」とも合致する。ヒーローはだいたい、「呼び声」に逡巡しつつも、結局は衝動に従い否応なく敷居をまたいで冒険の旅に出てしまうのだ。で、こっちのほうが自分にとっても人類にとっても確かなお宝を手にすることができる、と古今東西の神話は伝え続けています。

衝動は強い欲望ではなく、深い欲望であるということも注意喚起点として著者は指摘する。自己啓発書やセミナー、宣伝、SNSで喚起されるのは他人指向型の欲望であって、「これを欲望せよ」と決めてくるものに振り回される限り、不安から逃れられない。「私のほしがるものから私を守って」というジェニー・ホルツァーの引用は秀逸ですね。「底から湧き上がる小さな気泡に気づけ」。

衝動を見つけるために、「自分を丁寧に扱う」ことの大切さ、「それっぽい説明」で思考停止しないことの大切さなども説かれる。衝動を感受しやすいメディアに自分を変える方法、についても著者は考える。「多孔的な自己」というワードが紹介されていますが、詳しく知りたい方は本書にあたってみてください。

ラグジュアリー論との関連でもうひとつ、共感したことは「誘惑」についての議論の展開。「誘惑って、実は共犯関係なので、対象に魅力があれば自動的に誘惑が生じるわけではないんです。こちらが一定の感度や感性をもっていなければ、魅力に気づくこともできません」。「目の前にあるものに誘惑される力があれば、日々当たり前に生きている日常の光景もガラっと変わり、それによって自身も変わっていく。<中略>誘惑される力って、SNSで『私を見て』って自分の魅力をアピールするのと真逆の方向」。「この『誘惑される力』こそ、衝動を憑依させる自己の敏感さにほかなりません」。

ラグジュアリーと不可分なもう一つの要素に「誘惑」がある、ということも『新ラグジュアリー』はじめ多くの媒体で書いてきた。階級が厳然とあった時代と、一見平等社会なんだが格差が広がり上昇志向が存在する時代、そして真の多様性を実現したいと願う人が増える時代における「誘惑」の要素が異なるのは当然ですね。「これ持ってたら上級国民/リッチ/格上に見えて素敵だろう、みんなにすごいと思われるだろう」みたいな誇示(マウンティングっていうんですか)が背後に透けて見えるものは、これからの時代にはラグジュアリーとはみなされなくなるというのは、納得いただけるでしょう。

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