吉田茂元首相のスーツ姿は、敗戦後の日本の外交理念と国際的な矜持を体現していた。
彼のスーツは単なる個人の趣味を超え、敗戦国・日本が再び国際社会に復帰するための、「装いによる国家戦略」であった。
吉田は戦前、駐英大使を務めた経験を持つ。1936年から1938年にかけて滞在したロンドンでは、外交儀礼のみならず、英国紳士の装いの作法を徹底して学んだ。サヴィル・ロウの仕立て文化に触れた彼にとって、スーツとは、知性・品位・信頼を象徴する「教養の外皮」であった。そこには、戦後日本が「文明国」として再出発するにあたり、欧米と対等な文化コードで交渉を行うという、深い戦略的意図が込められていた。
帰国後、吉田が愛用していたとされるのが、東京・銀座の老舗「テーラー神谷(かみや)」である。同店は明治から昭和にかけて、英国式仕立てを忠実に守り続けた名門であり、多くの政財界人や文化人が顧客として名を連ねる。吉田は、ダブルの三つ揃いスーツを好み、クラシックで重厚なラインを崩さなかった。加えて、外出時に携えたステッキや控えめなポケットチーフは、英国紳士の名残を感じさせ、敗戦直後の日本において異質とも言えるほどの威厳と洗練をまとっていた。
このような装いは、講和条約や安保条約といった歴史的交渉の場において、極めて有効な視覚的言語となった。そして、視覚におけるこの「同調」と対をなすように、吉田は言語において「ずらし」の戦略を取る。1951年のサンフランシスコ講和会議において、彼は英語を完全に操るにもかかわらず、あえて日本語で演説した。そこには「自国の言葉で主権を回復する」という強い意思が込められていた。姿は西洋の形式を纏いながら、言葉はあくまで日本語。まさに日本という国の立ち位置そのものであった。
服装により「国際社会への復帰の意思」を示し、言語により「文化的主権の堅持」を宣言する。その両方を同時に成立させることで、吉田は敗戦国・日本の再出発を強いメッセージとして打ち出したのだ。
注目すべきは、そのスーツが流行を追うものではなかったという点である。生地、ラペル、シルエット、どれもが永続性と格調を重視した選択であり、一過性の時流とは一線を画していた。混乱期にあって、吉田の装いが放った静かな重みは、国民に知的な安定感と、国家としての成熟した自己像を示すものだった。
彼の装いは、戦後日本が掲げた「外交による再建」という道のりにおいて、視覚的信頼の基盤を築いた。それは今なお、日本の政治家がスーツに込めるべき意味を問い続ける遺産でもある。
Photo: 吉田茂(1878-1967) Public Domain
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