「自己犠牲の美徳」か「自己価値の尊重」か。
日本において、ラグジュアリービジネスは育ちにくい、と言われてきた。単なる経済規模や購買力の問題ではない。根底にあるのは、日本社会に深く染み込んだ「自己犠牲の美徳」だと思う。
日本のサラリーマン社会では、組織のために自分を犠牲にすることがしばしば美談として語られる。プロジェクトの失敗の責任を一身に引き受ける姿は「忠誠心の証」とされ、理不尽な決定に口をつぐむ態度は「和を乱さない大人の振る舞い」とされてきた。
だが、こうした「自己を抑え込む精神」は、ラグジュアリーの本質とは相いれない。
ラグジュアリーとは、何よりもまず「自分自身を大切にする」ことから始まる。自分の価値を最大化し、それによって時には文化的な影響力をも行使する。それは自己犠牲ではなく、自己尊重の哲学だ。
だからこそ、誰かにとっての「使い捨ての駒」になることを拒み、むしろ「自分がいなければ成り立たない」ような存在になる。その戦略性が、ラグジュアリー市場で闘うには不可欠だ。
日本では、この「自己尊重」の価値観が長く見えにくくなっていた。自分を押し殺すことが称賛される社会では、ラグジュアリーを支える自己肯定の文化は育ちにくい。
しかし、希望はある。
日本には、自己犠牲とは異なるもう一つの美学が息づいている。「粋」や「幽玄」といった、表には見えにくいひそやかな誇りや、心の余白を尊ぶ奥行きのある文化である。
自分を抑圧するのではなく、自分を静かに際立たせる。見えないものに価値を置き、他者との比較ではなく自分との対話を深める。そこには、まさに次世代が求めるラグジュアリーの本質と響き合う精神が確かにある。
だからこそ、今、問い直したい。
私たちは、組織のための駒であり続けるのか。それとも、自分を何よりも大切にする存在として立つのか。
日本のラグジュアリービジネスが本当の意味で育つためには、自己犠牲を美化するのではなく、自分を尊重する価値観を社会全体で育てる必要がある。まずはそれぞれの、「自分を過小評価させない」という自己評価から始まるのではないか。
それは、日本社会の美徳を壊すことではない。むしろ、日本人が本来持っている「静かな贅沢の美学」を、もう一度呼び覚ますことにつながるのだと思う。
*写真は今年2月27日に訪れた東福寺の庭園
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