天明七年(一七八七)の夏、京都御所を七万もの人々が取り囲みました。大飢饉に苦しむ民衆が、幕府ではなく御所に向かって祈りを捧げた「御所千度参り」です。このとき、群衆に三万個のりんごを配らせた人物がいます。後桜町上皇——日本の歴史上、いまのところ最も新しい女性天皇です。
第百十七代後桜町天皇(一七四〇〜一八一三)、諱は智子(としこ)といいます。桃園天皇が二十二歳で急逝したとき、その皇子・英仁親王はまだ五歳でした。幼い皇子が成長するまで皇統を守るため、宝暦十二年(一七六二)、桃園天皇の異母姉である智子内親王が践祚し、翌年、即位式が行われました。
この即位は、しばしば「中継ぎ」と説明されます。たしかに彼女の皇位は、幼い親王へ継承するまでの時間を支えるものでした。しかし、皇統が不安定になったとき、成人した皇族が皇位を担い、朝廷の秩序を保ち、次代へ渡す。それは代役ではなく、君主制そのものを存続させる中核的な機能です。ここで問われたのは性別ではありません。危機の局面で、誰が制度を担えるのか。後桜町天皇は、その問いに対する歴史上の具体的な答えでした。
その即位の意味を雄弁に語るものがあります。衣裳です。
男性天皇の即位礼には、赤を基調とし龍などの十二章を備えた冕服、いわゆる袞冕十二章が用いられてきました。ところが、弘仁十一年(八二〇)にこの形式が定められて以後、成人女性が天皇として即位する例はありませんでした。直前の女性天皇である明正天皇は、即位時わずか八歳。さらにさかのぼれば、奈良時代の女帝たちの記憶に行き着くほかありません。
つまり後桜町天皇の即位礼は、長く途絶えた形式をどう現実の制度として立ち上げ直すかという有職故実上の難問であり、皇位継承の柔軟性が試された場でした。伝えられるところによれば、内蔵寮に保管されていた過去の女帝の装束も検討されました。しかし幼帝だった明正天皇の衣裳は成人の身体に合わず、奈良時代の孝謙天皇のものとされる古装束は時代があまりに隔たっていました。結局、後桜町天皇のために、白を基調とする礼服が新たに調えられます。赤地に文様を備える男帝の礼服に対する、白無地。それは制度の記憶が途切れたあと、残された先例と記録を手がかりに生まれた形式でした。白い礼服は、女帝の即位が途絶えていた時間の空白を示すと同時に、その空白を埋めて皇位を現実に動かすための衣裳だったのです。その姿は『冕服図帖』などの図像資料に伝わります。彼女は、失われかけていた儀礼をまとい直し、皇位の連続性を身体で示した天皇でした。
在位九年で譲位したのちも、後桜町上皇の仕事は終わりません。むしろここからが長いのです。甥の後桃園天皇を支え、その後桃園天皇もまた二十二歳で崩御すると、九歳で即位した光格天皇を導きました。仙洞御所からたびたび学問と政務の戒めを与え、血縁上の母ではないにもかかわらず「国母」と称されます。冒頭のりんごの逸話は、この時期のものです。そして民の飢えを見た光格天皇は、幕府への申し入れが朝廷の分を越えることを承知のうえで、民衆救済を要求しました。飢える者に君主はどう応えるべきか——その天皇観を幼帝に仕込んだ教師が誰であったかは、言うまでもありません。
彼女は書く人でもありました。十代半ばから書き継いだ宸筆の日記四十一冊が、いまも京都御所の東山御文庫に伝わります。漢学を好み、和歌は千数百首を残したと伝えられます。近世の朝廷がどう動いていたかを知るための一級の記録を、女性天皇自身の手が残したのです。
そして、ここに現代の読者が見落とせない事実があります。後桜町上皇が育てた光格天皇は、現在の皇室の直系の祖にあたります。今日の皇室の型と精神の源流をたどれば、それを幼い天皇に伝えた一人の女性天皇に行き着くのです。
後桜町天皇以降、約二百六十年にわたり、日本に女性天皇は現れていません。この、いまのところ最も新しい女性天皇は、皇統をつなぎ、朝廷を支え、民に応え、記録を残し、次代の天皇を育てました。歴史が示すのは、皇位の安定に必要なのが性別ではなく、継承を担う資格と責任だということです。
二十一世紀の皇室をめぐる議論で問われるべきは、皇統をもっとも自然に、安定して、尊厳あるかたちで受け継ぐ制度とは何か、ということでしょう。
白い礼服と、三万個のりんごと、四十一冊の日記。後桜町天皇が残したものは、皇位が危機に直面したとき、制度が性別を超えて作動しえたことを伝える、証言です。
次回は一代前へ。江戸のもう一人の女帝、明正天皇をたずねます。
歴代女性天皇一覧(新しい順・8人10代)
| 代 | 天皇 | 生没年 | 在位 |
|---|---|---|---|
| 117 | 後桜町 | 1740–1813 | 1762–1770 |
| 109 | 明正 | 1624–1696 | 1629–1643 |
| 48 | 称徳(孝謙重祚) | 718–770 | 764–770 |
| 46 | 孝謙 | 718–770 | 749–758 |
| 44 | 元正 | 680–748 | 715–724 |
| 43 | 元明 | 661–721 | 707–715 |
| 41 | 持統 | 645–703 | 690–697 |
| 37 | 斉明(皇極重祚) | 594–661 | 655–661 |
| 35 | 皇極 | 594–661 | 642–645 |
| 33 | 推古 | 554–628 | 592–628 |
皇極=斉明、孝謙=称徳が重祚のため、10代・8人となります。



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