859年。それが、この女帝が背負った時間の長さです。

奈良時代の称徳天皇が世を去ってから、次に女性が皇位につくまで、日本はおよそ九世紀を要しました。その空白を破って即位したのが、江戸時代最初の女帝、明正天皇(一六二四〔和暦元和九年〕―一六九六)です。第109代、諱を興子(おきこ)といいます。

血筋が、すでに劇的でした。父は後水尾天皇、母は二代将軍・徳川秀忠の五女、和子。のちの東福門院です。つまり明正天皇は、天皇家の血と徳川将軍家の血が一身で交わる、日本史上ただ一人の皇女でした。家康が娘を宮中へ送り込んだ狙いは、徳川の血を引く天皇の誕生にあったといわれます。その野望と、それを拒もうとする父帝の意地。彼女は生まれながらに、二つの権力のあいだに立っていたのです。

穏やかな継承ではありませんでした。寛永六年(一六二九)、紫衣事件に象徴される幕府の圧迫に憤った後水尾天皇は、幕府へ通告もせず、突如譲位します。皇位を継ぐべき皇子はいずれも早世していました。そこへ、わずか数え七歳の興子内親王が立てられます。翌年、即位礼。父帝の怒りが、幼い娘を玉座へ押し上げた——それが実相に近いといえます。

在位のあいだ、政務の実権は父・後水尾上皇の院政にありました。幕府は寛永十四年(一六三七)に女帝の親政をはっきりと否定しています。そして譲位もまた、彼女の意思ではありませんでした。母・東福門院の意向で異母弟が儲君に立てられ、寛永二十年(一六四三)、二十一歳の明正天皇は皇位を譲ります。譲位の直前、将軍家光は四か条の黒印状を送りつけ、外部との接触を厳しく断ちました。彼女は、権力に押し上げられ、権力に降ろされたのです。

明正天皇の即位礼で用いられたのは、白綾の礼服でした。男性天皇の礼服が、龍などの十二章を刺繍でまとう鮮烈な赤であったのに対し、女帝のそれは白綾に文様がありません。なぜ白なのか。天皇の礼服が赤の十二章と定まって以降、女帝の即位が長く絶えていたため、はるか奈良時代・称徳天皇の遺品の記録だけが、頼るべき先例だったからです。約九世紀ぶりに女帝の儀礼を立ち上げるにあたり、朝廷は失われた様式を古い記録から手繰り寄せるほかありませんでした。この白は、清らかさの象徴である前に、断絶した伝統を再構築した跡そのものなのです。のちに最後の女帝・後桜町天皇の礼服も、この明正天皇の例を踏まえて整えられました。

追号にも、同じ意志が刻まれています。「明正」の二字は、奈良時代の女帝・元明天皇と元正天皇から、それぞれ一字ずつ取られたものです。装束においても、名においても、彼女は古代の女帝たちの記憶を近世へ呼び戻す器でした。

明正天皇は、時代を能動的に動かした英雄ではありません。むしろ、政治の前面に立つことを許されなかった一人の女性です。だからこそ、現代の私たちにとって示唆的なのだと思います。

いま、皇位継承をめぐる議論では、女性天皇が日本の伝統にそぐわない制度のように語られます。しかし歴史を開けば、女性天皇はすでに、確かに存在しました。しかも明正天皇は、幼く、制約され、父の院政下にあってもなお、正式に践祚し、即位礼を行い、十四年在位し、次代へ皇統を渡しています。翻弄されながらも重い冠を受け止め続けた、一人の少女の時間によっても天皇制は守られてきたのです。

前回の後桜町天皇が、譲位後に若き光格天皇を導いた能動の女帝であったとすれば、明正天皇は、権力の奔流に立ち位置を定められた受動の女帝でした。同じ江戸の白い装束をまといながら、二人の生き方は対照をなします。

京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵。

次回はさらに時代をさかのぼり、奈良時代へ。近世の女帝たちが振り返り、その名を借りた「原像」——女性天皇のはじまりの記憶をたずねます。

歴代女性天皇一覧(新しい順・8人10代)

天皇 生没年 在位
117 後桜町 1740–1813 1762–1770
109 明正 1624–1696 1629–1643
48 称徳(孝謙重祚) 718–770 764–770
46 孝謙 718–770 749–758
44 元正 680–748 715–724
43 元明 661–721 707–715
41 持統 645–703 690–697
37 斉明(皇極重祚) 594–661 655–661
35 皇極 594–661 642–645
33 推古 554–628 592–628

皇極=斉明、孝謙=称徳が重祚のため、10代・8人となります。

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