Vol. 3 ——古代女帝の頂点と終焉

これまで、江戸時代の二人の女帝を訪ねてきました。後桜町天皇も、明正天皇も、即位にあたって白を基調とする礼服をまといました。では、その白はどこから来たのか。糸をたぐっていくと、奈良時代の女帝たちの記憶に行き着きます。その中心にいる一人が、孝謙天皇、のちの称徳天皇です。

称徳天皇、すなわち孝謙天皇は、聖武天皇と光明皇后の娘として、養老二年(七一八)に生まれました。諱を阿倍といいます。

彼女の経歴は、女性天皇史のなかでも際立っています。天平十年(七三八)、日本史上初めて、女性として皇太子に立てられました。それまで女性天皇は、皇后や内親王から即位していましたが、正式な皇位継承者として女性が立太子した例はありません。阿倍内親王の立太子は、女性天皇の歴史のなかでもきわめて重大な出来事でした。

天平勝宝元年(七四九)、父・聖武天皇の譲位を受け、阿倍内親王は即位します。第四十六代・孝謙天皇です。

ここで、この連載の冒頭でも触れた「重祚」が登場します。孝謙天皇はいったん淳仁天皇に譲位し、上皇となります。しかし、藤原仲麻呂、すなわち恵美押勝の乱を制したのち、天平宝字八年(七六四)、ふたたび皇位に就きました。これが第四十八代・称徳天皇です。

孝謙と称徳は、同じ一人の女性です。歴代女性天皇が「八人十代」と数えられるのは、このように一人の天皇が二度即位する「重祚」が二件あるためです。もう一件は、飛鳥時代の皇極天皇が斉明天皇として再び即位した例です。

装束の話に戻りましょう。

江戸の明正天皇、後桜町天皇の即位礼において調えられた白い礼服。その様式を考えるうえで、後世の朝廷が参照したのは、奈良時代の女帝たちの遺例と記録でした。天皇の礼服が、赤を基調とし、龍などの十二章を備える冕服として制度化されたのち、成人女性が天皇として即位する例は長く途絶えます。そのため、近世の朝廷は、女帝の即位礼を整えるにあたり、はるか古代の記憶にまでさかのぼるほかありませんでした。

古代女帝の最後に位置する彼女の存在は、後世が女帝の装束を考えるうえで、重要な参照点の一つとなりました。明正天皇と後桜町天皇の白い礼服は、称徳天皇その人の衣裳を単純に再現したものではありません。むしろそれは、女帝の即位が長く途絶えたのち、残された先例をもとに再構成された「制度の記憶」でした。

白とは、ここでは、失われた形式を呼び戻すための色です。女性天皇の歴史が断絶して見えるとき、その細い糸をつなぎとめていたものの一つが、装束だったのです。

(Empress Koken by Kunisada III, 1878)

称徳天皇を語るうえで、装束以上に大きな事績があります。奈良時代の国家仏教と文化事業の中心にいたことです。

孝謙天皇としての在位中、父・聖武太上天皇が発願した東大寺大仏の開眼供養会が行われました。国家の安寧を仏教によって支えようとする聖武天皇以来の構想は、彼女の時代にも受け継がれます。恵美押勝の乱ののちには、西大寺の造営が進められました。

とりわけ有名なのが、百万塔陀羅尼です。乱後の鎮護と国家安泰を願い、木製の小さな三重塔を百万基つくらせ、その内部に印刷された陀羅尼を納め、諸寺に分置しました。この陀羅尼は、現存する年代の確実な印刷物として世界最古級に位置づけられ、日本の印刷文化史の起点として知られます。一人の女帝の祈りは、結果として、技術と文化の記念碑を残しました。

もう一つ、興味深い文化の痕跡があります。奈良時代後半には、「天平感宝」「天平勝宝」「天平宝字」「天平神護」「神護景雲」という四文字の元号が相次いで用いられました。日本史上でも例外的な現象です。これについては、光明皇后や藤原仲麻呂らが、女性でありながら帝位に就いた中国・唐の女帝、武則天、すなわち則天武后の例を意識した可能性が指摘されています。

女帝の即位という異例の事態を、どのように制度の中に位置づけるか。古代日本は、装束においても、元号においても、先例を探し、形式を整え、正統性を可視化しようとしました。称徳天皇の時代には、その緊張が濃く刻まれています。

その一方で、翳もありました。

称徳天皇は僧・道鏡を深く信任し、太政大臣禅師、さらに法王の位にまで引き上げます。やがて、道鏡を皇位につければ天下は太平になる、という宇佐八幡の託宣が伝えられたとされ、朝廷は大きく揺れました。和気清麻呂が宇佐に赴き、これを否定する託宣を持ち帰ったことで、道鏡擁立は退けられます。

この宇佐八幡神託事件は、後世に強烈な記憶を残しました。皇位は血統によって継がれるものなのか。それとも、宗教的権威や天皇の信任によって動きうるものなのか。その問いが、奈良時代末の朝廷に、きわめて生々しい形で突きつけられたのです。

宝亀元年(七七〇)、称徳天皇は崩御します。皇位は、天武天皇系から、天智天皇系の光仁天皇へ移りました。称徳天皇は、天武系皇統から出た最後の天皇となったのです。

現代の私たちは、称徳天皇をどう見るべきでしょうか。

皇位継承をめぐる議論では、しばしば「女性天皇は中継ぎにすぎなかった」という言い方がなされます。しかし、称徳天皇はその図式に収まりません。彼女は女性として初めて皇太子に立てられ、二度即位し、国家仏教の巨大な文化事業の中心にいました。大仏開眼、西大寺造営、百万塔陀羅尼。彼女の時代には、政治と信仰と技術が結びつき、奈良朝文化の一つの頂点が形づくられました。

同時に、道鏡をめぐる混乱が、後世に「女帝は危うい」という警戒の記憶を残したことも否定できません。称徳天皇は、女性天皇の可能性だけでなく、その制度設計が不安定なまま置かれたときに生じる危うさも、歴史に刻みました。

だからこそ、彼女は単純な賛美にも、単純な否定にも回収してはならない天皇です。

女性が皇太子となり、即位し、重祚し、国家事業を支え、同時に皇位継承の根幹を揺るがす事件の中心にもなった。称徳天皇は、そのすべてを引き受けて、古代女帝の歴史は彼女のところで一つの頂点に達し、そして終わりました。

忘れてはならないのは、後世の女帝たちが白い礼服をまとうとき、そこには奈良時代の女帝たちの記憶が息づいていたということです。明正天皇も、後桜町天皇も、直接に称徳天皇を再現したわけではありません。それでも、彼女たちは古代の女帝たちが残した制度の痕跡の上に立っていました。

女性天皇の歴史は、断絶しているようでいて、完全には断たれていません。装束という細い糸、元号という形式、仏教事業という国家の祈り、そして皇位をめぐる緊張。そのすべてが、称徳天皇という一人の女性のもとで交差していました。

称徳天皇は、古代女帝の終着点です。しかし終着点とは、消滅ではありません。後の時代が何度も振り返る、強烈な記憶の場所でもあります。

次回はさらに時代をさかのぼり、元明天皇と元正天皇へ。母から娘へと皇位が渡った、日本史上ただ一度の継承をたずねます。

歴代女性天皇一覧(新しい順・8人10代)

天皇 生没年 在位
117 後桜町 1740–1813 1762–1770
109 明正 1624–1696 1629–1643
48 称徳(孝謙重祚) 718–770 764–770
46 孝謙 718–770 749–758
44 元正 680–748 715–724
43 元明 661–721 707–715
41 持統 645–703 690–697
37 斉明(皇極重祚) 594–661 655–661
35 皇極 594–661 642–645
33 推古 554–628 592–628

皇極=斉明、孝謙=称徳が重祚のため、10代・8人となります。

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