堀井憲一郎さんの『落語論』(講談社現代新書)読み終える。ディープに落語について書かれた本ながら、日本文化の見方をめぐるヒントや、広くパフォーマンスや表現に関する考え方のヒントが得られて、学ぶところが多い面白い本だった。
落語は花火と同様、その場を共有するライブとしてのみ存在しうるもので、文字や映像などのメディアを通して伝えられたものは落語ではない、ということ。落語に「深い意味」「核となる真実」などない、という点では、近代の原理に無言で抵抗する芸であること。場を共有することで成立するという意味では、「オレオレ詐欺」に通じるペテンのようなものであること、などなど。さらに以下、心に引っかかった点のメモ。
・落語には本来、タイトルはない。「符牒」があっただけ。仕事でしかたなくつけられた呼び名でしかない。意味ありげな長いタイトルをつけて人とは違うんだと力がはいってる作者なんて、子供にめちゃくちゃな名前をつける親のようなもの。「タイトルは道具であり符牒である」。
・登場人物にも名前がない。ニックネーム、呼び名があるだけ。人の内面とはつながっていない。統一性もなく、共通項を見つけ出す必要もない。これは「キャラクターを持たなきゃいけない病」とも連動することだが、一方向に統一性をもつことを示し続けなくてはいけないなんて、幻想だし、そんなのはもはや人間ではない。「落語は”厄介な存在である人間”をそのまま反映したものである。矛盾しているし、言ってることとやってることが違っている。言うことは変わるし、場面によって行動も違ってくる。それが落語である。そこに『統一性のあるキャラ=特徴的な性格と行動』を持ち込むと、落語が持ってる場が崩れる。ただのわかりやすい単純喜劇になってしまう」
・「サゲは合図でしかない」。「ここで落語が終わった、はい、あなたたちは現実に帰りなさい、という合図として、摩訶不思議な世界を作って案内したものが示しているわけである。ふつうの落語にしても、サゲがあるほうが、終わった感じがしていい、ということだ。サゲにはそれ以上の意味はない」
・落語にはストーリーもあらすじもない。落語は体験である。
・落語はペテン。「架空のもので人を騙すためには、なるたけ狭い所に大勢の人を閉じ込めて、生の声で語りかけるのがいい。ヒットラーは、夕刻から屋外で演説を始め、徐々に暗がりになっていくなかでライトを自分に集中して当てさせ、意味はよくわからないけどなんだかすごい、とおもわせることに成功した」。こういう基本的なペテンは、映像を通すと効き目が弱まる。
・「本当は客全体に『好かれたい』のであるが、みんなに好かれようとすると、なぜか嫌われてしまう。雑多な意識の混合である客全体に『好かれる』のはとてもむずかしい。だから、『誰にも嫌われていない』というのが理想の状態なのである」
・「客との和を以って貴しとなす。落語家の心得第一条である。ただ、形而上的な理想的な“和”をめざさなくていい。善である必要はない。その場かぎり、身過ぎ世過ぎとしての”和”である」
・「客との和を以って貴しとなす、ということは、客に彼我の区別をなるたけ感じさせないほうがいい、ということである。つまり、演者と客であるという距離をなくす。自他の区別をなくす。自他を感じさせないというのが、落語の究極の目的である」
・落語は近代的発展とは無縁のもの。「停滞期」のもの。現在、落語がブームになっているが、それも「20世紀的経済活動の発展が頭打ちになったからだろう。19世紀半ばから150年をかけて、日本人が駈け上がってきた頂上がこれだったのか、そうか、おつかれさんでした、という空気が、落語への流れをつくっているのだとおもう」
・ただ、「停滞」そのものも西洋さんのもんで、東洋は、もう少し無理をしない。ぐるぐるまわるだけで、上に向かっていない。
・「細かに分解し、全体像を捉えられなくなっても、核と法則を見つけ出そうとするのが近代的思考である。(中略) うちは猿と一緒にやっていける。だから、物事を芯まで剥かなくても生きていける」
・「落語が見せるのは『人として生きる全体像の肯定』である」
・落語は近代が主張する普遍性を拒否する。広げるな。「人は、さのみ、広がらなくてもいいだろう、という主張である。インターネットで世界につながり、飛行機で世界中へ飛べ、いつでも携帯電話でどことも連絡をとれようとも、人間一人の大きさは変わらない」
・「この顔を人前に晒して、それでおあしをいただいてるんだ、というのが顔に出てればよろしい」・・・それが「顔ができてる」ということ。「顔は看板である。大事な商売道具だと自覚しておかないといけない。顔のできてない芸人は、芸もまずい」
・「落語は集団トリップ遊戯」
・「その和は、その場でさえ納得できればいい。人類の発展に何も寄与しなくていい。人類の発展を阻害してもいい。いま、そこにいる人たちだけの和を貴いものとする。そしてその考えかたは、おそらく日本の芯とつながっている」
講義や講演のときにも応用できる考え方である。「何を話すか」もさることながら、「どう話すか」のほうが圧倒的に重要という点、落語がお手本になることも多い。場数を多くふんでいくしかないのだけれど。
以前、「螺旋階段を昇っているようなもの」との人類進化論を述べた際に、ある方からの「本当に昇ってるの?」との辛口コメントが、そのときの間も含めてとても素敵でした[E:eye]
「東洋は、ぐるぐる回っている」というのは、言いえて妙です[E:typhoon]