ココ・シャネルがコスチュームジュエリーによって金融資産とエレガンスを切り離してしまい、1920年代にふさわしいエレガンスを示したことで結果的に女性解放をもたらしたように、 金融資産とラグジュアリーを紐づけず、新しいラグジュアリーのあり方を示すことが次の時代を作るだろう。

ブルネロ・クチネリのエッセイのなかに哲学者カントのラグジュアリー観が紹介されていた。

「ラグジュアリーはセンスに恵まれた人間のなかに見出され、その多様性により私たちの判断能力を満足させ、社会生活全体を活気づけながら多くの雇用をもたらす」。このことばのなかにも、ヒントがある。

 

金融資産と切り離す、というのは発想においてそのようにするのがいい、ということである。金融資産のある人の世界に媚びない。むしろ視点の転換をもたらす。

これを実際に現在おこなっているのが、MIZENの寺西俊輔さんで、日本の農民発の知恵と工夫、技巧を「ラグジュアリー」製品に組み込んで発信している。B級とされた繭から生まれた紬。寒さをしのぐために工夫されたこぎん刺し。

結果として富裕層しか買えない価格になるというジレンマは、19世紀のウィリアム・モリスの時代からあった。アーツ・アンド・クラフツ運動を先導したウィリアム・モリスは、低品質の大量生産品に抵抗して、職人が喜びを感じて作ることができる、芸術的な日用品を生産することを目指した。でも実際にそういったものを作ったら、金持ちばかりが買っていく。そこにジレンマを感じて、次第にモリスは社会主義運動に傾倒していく。

このジレンマを解決するひとつの考え方として、クチネリは「利益の再分配」をソロメオでおこなっている。職人の賃金を平均より20%上乗せする。村を修復し、美化する。劇場や図書館を作る。人間を幸福にするための経営だ。

 

つまり言いたかったことは、ラグジュアリービジネスを日本から創ろうとする際に、「富裕層の好きそうなもの」の世界に媚びるな、ということ。むしろ日本土着の発想からサービスや製品を磨き上げ、顧客の価値観をひっくり返すようなものを作ったほうがいい。オリジンに忠実という意味でオーセンティックだし、そもそも人は、価値観がガラッと変化するようなものにお金を喜んで払う。

それが結果的に金融資産のある人しか買えない価格になるとしても、その利益を、別の形で再分配していけばいい。職人への還元、地域の環境の美化、教育、福祉などできることは多い。国があてにならなくなった時代には、そんなラグジュアリービジネスが頼もしい存在になる。かつてないほど、経営者に倫理が求められる。

「きれいごと」でビッグピクチャーを描いているのは百も承知。が、クチネリ、寺西さん、suzusan村瀬さんはじめ、実際にその理想に向けて奮闘している人もいる。であればその努力を応援したい。

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