贈り物の季節になると、思い出す光景がある。
ある日、訪問先の企業で、応接室の片隅の棚に「〇〇さんより」「△△社長から」と付箋の張られた手土産がずらりと並んでいるのを目にした。選ばれたお菓子、包装のセンス、贈り主の肩書がすべて見える形で並べられ、あたかも無言のランキング表のようだった。贈与が、関係性のヒエラルキーを表現するということを、赤裸々に示していた。(このような「さりげない展示」をおこなう企業のあり方に関しては、さまざまな考え方があろうかと思うので、ここでは問題にしない)
贈与は、ヒエラルキーを表現する。誰が誰に、何を贈るのか。その構造のなかに、上下関係や文化資本の差異があらわれる。それをはっきりと認識した瞬間だった。
思えば、この構造を劇場のように演出したのが、ルイ14世のヴェルサイユ宮殿だったかもしれない。「鏡の間」は外交使節を迎え、貴族たちの忠誠と王の恩寵が交換された象徴的な空間である。光と金に満ちたこの部屋では、視線や身振りすら贈与となり、王が誰に言葉をかけるか、誰の前を通り過ぎるか、誰の前で立ち止まるかが、階級と運命を決めた(ルイ14世が登場する映画では、しばしばこのようなシーンが再現される)。存在のあり方、身振り、視線そのものが贈与だった。
その一方で、とても心に響く、ヒエラルキーを超えた贈与もある。たとえば西郷隆盛と中村半次郎(のちの桐野利秋)のエピソード。極貧の半次郎が、自ら育てた芋を西郷に贈った。他の弟子は笑ったが、西郷は「これほど真心のこもった贈り物があるか」と烈火のごとく怒ったという。芋はただのモノではなく、これを育てた彼の時間=命の一部だ、と西郷は解釈したのだ。半次郎はこの日を境に、西郷に生涯を捧げることを決意する。まさに命の交換のような贈り物。
贈与には、人を試すようなおそろしさ、ヒエラルキーを決められてしまう怖さもあれば、人と深くつながる優しさもある。この両方をはらむからこそ緊張がある。
稀少なもの、手間ひまのかかるもの、世間的評価の高いもの、高価なものを通して、相手に何を差し出すのか。「3000円前後のそこそこ名の通ったものを有名デパートで適当に見繕っておいた」みたいなギフトはもっとも手っ取り早いけれど「意味のない」投資に近いことにはまちがいない。もちろん、一見あまり「意味のない」ように見える関係の持続も、何が起きるかわからない時代においては、いつどこでどんな希望の源となるかわからないこともあり、大切にするにこしたことはない。
と書いておきながら、今年の贈り物をますます選びにくくなっている…
*写真は2018年にケリングのご案内でヴェルサイユ宮殿を訪問した時の「鏡の間」と、宮殿内に飾られているルイ14世の肖像
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