来週発売予定で、すでに各サイトで予約受付も進んでおりました『ファッションからたどるディズニー&ピクサーアニメーション』は、出版社の発表にある通り、不可抗力により刊行を断念することになりました。初校・再校をスケジュール通り終え、カバーデザインまで進んでいただけに、書き手としても残念でならない気持ちです。

何より、ご予約をくださった皆様、刊行を待ってくださっていた皆様に、深くお詫び申し上げます。申し訳ございません。

ただ、書いたものは消えません。アニメーションの衣裳に宿る服飾史の層を探るという本書の試みは、形を変えてお届けすべく、現在出版社とともに最大限の努力を重ねています。あのヒロインたちのドレスがなぜあの形をしているのか。その答えをお届けする日まで、いましばらくお時間をいただければ幸いです。

592年の冬、ひとりの女性が飛鳥の豊浦宮で即位しました。日本の歴史に記録された、最初の女性君主です。唐の武則天に先立つこと約1世紀、新羅の善徳女王よりも40年早い。しかも興味深いことに、このとき「天皇」という称号はまだ確立していませんでした。本連載Vol. 6で触れたとおり、天皇号の成立は天武・持統朝とみる説が現在は有力です。つまり同時代の彼女は「大王(おおきみ)」であり、「初の女性天皇」とは後世からの呼び名ということになる。称号が生まれるより先に、実体があった。推古天皇とは、そういう存在です。

欽明天皇の皇女として554年に生まれ、敏達天皇の皇后となります。即位の背景は血なまぐさいものでした。592年、崇峻天皇が蘇我馬子の指図で殺害されます。臣下の手にかかって命を落とした天皇は、記録上この一人だけです。王権が最も深く傷ついた瞬間に担ぎ出されたのが、39歳の彼女でした。ここだけ見れば、伯父にあたる馬子の傀儡と映るかもしれません。実際、そう書いてきた歴史書は少なくない。しかし36年におよぶ治世の中身は、その見立てを裏切り続けます。

推古朝の政治は、甥の厩戸皇子(聖徳太子)と馬子を交えた共同統治として運営されました。603年、冠位十二階。氏族の家柄ではなく個人の功績で人を用いる原理が、初めてこの国に持ち込まれます。604年には憲法十七条。そして遣隋使です。日本書紀が伝える607年の小野妹子に先立ち、隋書には600年の遣使が記録されています。約1世紀ぶりに再開された中国との国交、相手は統一王朝・隋でした。ところで、その隋書は倭国の王を「阿毎多利思比孤」という男性として記しています。玉座にいたのは推古のはずなのに、です。使節がそう説明したのか、隋側の思い込みか、決定的な答えは今日までありません。確かなのはひとつ。女性君主の姿が公式の記録から薄れていく現象は、7世紀にはもう始まっていたということです。

その彼女自身の声が、日本書紀にひとつだけ鮮明に残っています。624年、馬子が朝廷の直轄地である葛城県を所望したときのこと。推古は答えました。自分は蘇我の家から出た身であり、あなたは伯父である。しかし公の土地を私に与えれば、後世は私を愚かな女と言い、あなたを不忠と謗るだろう。育ての氏族に向けた、静かで完璧な拒絶です。傀儡は、こういう文章を残しません。

文化史における推古朝は、飛鳥文化の開幕そのものです。594年の三宝興隆の詔を号砲に、日本最初の本格寺院である飛鳥寺が建立され、609年には鞍作止利の手になる飛鳥大仏が据えられました。度重なる補修を経ながら、この仏はいまも飛鳥の同じ場所に坐しています。そして法隆寺。創建は推古朝、現存の伽藍は7世紀後半の再建ですが、世界最古の木造建築群として1993年、日本初の世界遺産となりました。日本文化の「最古」は、驚くほどこの女帝の治世に集中しているのです。

さて、皇室典範です。日本史上の女性天皇は8人10代。そのすべての起点が推古であり、8人の全員が、父方をたどれば天皇に行き着く「男系の女子」でした。現行典範の第1条は皇位を「男系の男子」に限るため、男系の女子である推古のような即位は、今日の制度では起こり得ません。最初の女性天皇の即位が、1400年後の法律では不可能になっている。この事実をどう考えるかは、読者それぞれの判断に属します。ただ、在位36年という数字だけは添えておきます。歴代の女性天皇で最長。つなぎの玉座に、人はそんなに長く座れません。

628年、推古は75歳で世を去りました。飛鳥大仏は、彼女の即位から1400年あまりを経たいまも、同じ場所から都の跡を見つめています。

歴代女性天皇一覧(新しい順・8人10代)

天皇 生没年 在位
117 後桜町 1740–1813 1762–1770
109 明正 1624–1696 1629–1643
48 称徳(孝謙重祚) 718–770 764–770
46 孝謙 718–770 749–758
44 元正 680–748 715–724
43 元明 661–721 707–715
41 持統 645–703 690–697
37 斉明(皇極重祚) 594–661 655–661
35 皇極 594–661 642–645
33 推古 554–628 592–628

皇極=斉明、孝謙=称徳が重祚のため、10代・8人となります。

661年、ひとりの天皇が軍船とともに西へ向かいました。滅亡した百済を救援するため、難波から瀬戸内海を経て筑紫へ。60代後半の身での親征です。日本の天皇が自ら軍を率いて海を渡ろうとした例は、歴史上ほとんどありません。その稀有な一人が女性であったことは、もっと知られてよいはずです。第37代・斉明天皇。そして彼女は、第35代・皇極天皇と同一人物です。

594年に生まれ、舒明天皇の皇后となり、642年、夫の死を受けて皇極天皇として即位します。のちの天智・天武となる中大兄皇子と大海人皇子は、彼女の息子たちです。日本書紀は即位の年、彼女が南淵の川上で天に祈ると4日にわたって雨が降り、権勢を誇る蘇我蝦夷の祈雨が失敗した後だけに人々が「至徳まします天皇」と称えた、と記します。祭祀の力で権威を示す古代の王権の姿が、ここには生々しく残っています。

645年、飛鳥板蓋宮の大極殿で、彼女の目の前で蘇我入鹿が斬られました。乙巳の変です。実行したのはわが子、中大兄皇子。政変の直後、皇極は弟の軽皇子、孝徳天皇に位を譲ります。記録に残る限り、日本史上最初の譲位でした。そして654年に孝徳が没すると、翌655年、彼女は再び即位します。斉明天皇。一度退いた天皇が再び位に就く「重祚」の、これも史上最初の例です。譲位と重祚。天皇の位からの出口と、そこへ戻る入口。その両方を最初に通ったのは、同じひとりの女性でした。

斉明朝の飛鳥は、巨大な土木工事の時代です。日本書紀は、宮の東の山に石垣を築き、水路を掘るために3万余の人夫を動員した工事を、人々が「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と嘲ったと伝えます。正史が天皇の事業をここまで露骨に腐す例は珍しく、編纂側の意図も含めて研究者の議論があるところですが、2000年に酒船石遺跡で亀形石造物が発掘されると、評価は一変しました。水を導き、湛え、祭祀に用いたとみられる精緻な石の施設群。「狂気の工事」は、水と石による国家祭祀の舞台装置だった可能性が高いのです。悪口だけが千年残り、実物が出てきて名誉が回復される。考古学は時に、こういう痛快な仕事をします。

外に目を向ければ、阿倍比羅夫の船団が日本海を北上し、蝦夷の地へ遠征を重ねたのもこの治世です。そして660年、唐と新羅が百済を滅ぼすと、斉明は救援の派兵を決断し、自ら西下します。伊予の熟田津に停泊した船団を詠んだのが、万葉集の額田王の歌、「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」でした。月と潮が満ちる、さあ漕ぎ出そう。出撃の高揚を詠んで万葉屈指の名歌とされるこの一首には、女帝の心を額田王が代わって詠んだとする代作説もあります。だとすれば、これは日本文学史上もっとも雄渾な「女帝の声」ということになる。斉明は結局、筑紫の朝倉宮で661年7月に没し、海を渡ることはありませんでした。2年後の白村江の大敗は、息子の中大兄が引き受けることになります。

彼女の眠る場所についても、近年動きがありました。明日香村の牽牛子塚古墳が2010年の調査で八角墳と確認され、天皇陵に特有のこの形から、研究者の多くが斉明の真陵とみています(宮内庁の治定する陵は別の場所にあります)。2022年には築造当時の姿に復元整備され、誰でも訪れることができます。

さて、現行の皇室典範です。譲位の規定を持たないことは前号で触れました。重祚に至っては、想定の外です。平成の譲位を可能にした特例法も一代限りの退位を定めるのみで、上皇が位に戻る道は開いていません。1400年近く前にひとりの女性が最初に通った出口と入口は、現在の制度では両方とも塞がれています。皇位継承をめぐる議論は「誰が継げるか」に集中しがちですが、斉明の生涯は「位とは、退けるものか。戻れるものか」という問題も提起しています。

祈雨に始まり、政変を目撃し、二度即位し、石の都を築き、軍船の上で生涯を終えようとした人。波乱という言葉では足りません。飛鳥の亀形石造物は、いまも静かに水を受けています。

歴代女性天皇一覧(新しい順・8人10代)

天皇 生没年 在位
117 後桜町 1740–1813 1762–1770
109 明正 1624–1696 1629–1643
48 称徳(孝謙重祚) 718–770 764–770
46 孝謙 718–770 749–758
44 元正 680–748 715–724
43 元明 661–721 707–715
41 持統 645–703 690–697
37 斉明(皇極重祚) 594–661 655–661
35 皇極 594–661 642–645
33 推古 554–628 592–628

皇極=斉明、孝謙=称徳が重祚のため、10代・8人となります。

春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山。

百人一首の2番歌です(万葉集の原形は「夏来るらし」「衣干したり」。目の前の実景を詠み切る形でした。「干すてふ」すなわち「干すという」の伝聞調に変わったのは、新古今集や百人一首に採られる過程での改変です)。香具山の白い衣を詠んだこの歌人が、日本古代史でもっとも強靭な政治家の一人であったことは、あまり意識されません。第41代・持統天皇。前号の元明天皇にとっては異母姉であり、姑でもあった人です。律令国家の骨格を仕上げたのが元明なら、その設計図を引いたのは持統でした。

645年、天智天皇の皇女として生まれ、13歳で叔父にあたる大海人皇子、のちの天武天皇に嫁ぎます。672年の壬申の乱では吉野から東国への脱出行に同行し、夫の勝利を間近で支えました。686年に天武が没すると、皇太子であった息子の草壁皇子の即位を期し、皇后のまま政務を執ります(称制)。その草壁が689年に早世すると、翌690年、自ら正式に即位しました。息子のための執政が、自身の玉座に転じた瞬間です。

治世の事業は目覚ましい。689年に飛鳥浄御原令を施行し、690年には庚寅年籍という全国規模の戸籍を整備。694年、日本初の本格的な条坊制都城である藤原京へ遷都します。碁盤目の都という発想はここから平城京へ、平安京へと受け継がれていく。元明の平城京は、姑が敷いた線路の延長線上にあったのです。「天皇」という称号についても、推古朝に遡るとする説と天武朝に成立したとする説が長く対立してきましたが、飛鳥池遺跡から天武朝の「天皇」木簡が出土して以降、天武・持統朝での確立を有力視する研究者が増えています。私たちが当然のように使うこの言葉の制度化に、彼女は立ち会っていた可能性が高いのです。

文化史における持統朝は、宮廷文学の最初の頂点です。柿本人麻呂が歌人として仕えたのはこの宮廷でした。690年には伊勢神宮で最初の式年遷宮が行われます。天武の発意を持統が実行に移したこの制度は、1300年を超えて現代まで続いています。また研究者の間には、皇祖神アマテラスが女神として確固たる地位を得た背景に、持統朝の政治的文脈を読む見方もあります。祖母から孫への継承を、女神から孫神への天孫降臨に重ねる読み筋です。仮説の域を出ませんが、神話と王権の距離の近さを考えさせます。

697年、持統は孫の珂瑠皇子、15歳の文武天皇に譲位します。孫への橋渡しという点では彼女もまた「中継ぎ」に数えられがちですが、渡したのは橋というより、国家の設計図一式でした。なお譲位そのものには皇極天皇の先例(645年)があります。持統が最初に行ったのは、退位後に「太上天皇」を称し、上皇として次代を後見する体制の創出です。2019年、上皇の称号が202年ぶりに復活したとき、直近の先例として引かれたのは江戸期の光格天皇でした。しかし、制度の起点まで遡れば、この女帝に行き着きます。

現行の皇室典範には、譲位の規定がありません。平成の譲位が一代限りの特例法を必要としたのはそのためです。皇位を「男系の男子」に限る第1条は議論の的になりますが、退位の不在という論点はその陰に隠れがちです。持統が創った太上天皇の制度は、以後、光格上皇まで1100年余りにわたり受け継がれました。それを持たない現行典範のほうが、歴史のなかではむしろ新参者です。

703年に世を去ると、遺体は火葬され、天武の眠る檜隈大内陵に合葬されました。天皇の火葬はこれが最初です。ところで冒頭の歌。香具山は藤原京を取り囲む大和三山のひとつですから、あの白い衣は、自ら造営した都から眺めた光景ということになります。国家を組み上げた目が、初夏の洗濯物の白に留まる。万葉集はその一瞬を、1300年後の私たちに伝えています。

歴代女性天皇一覧(新しい順・8人10代)

天皇 生没年 在位
117 後桜町 1740–1813 1762–1770
109 明正 1624–1696 1629–1643
48 称徳(孝謙重祚) 718–770 764–770
46 孝謙 718–770 749–758
44 元正 680–748 715–724
43 元明 661–721 707–715
41 持統 645–703 690–697
37 斉明(皇極重祚) 594–661 655–661
35 皇極 594–661 642–645
33 推古 554–628 592–628

皇極=斉明、孝謙=称徳が重祚のため、10代・8人となります。

平城京遷都、和同開珎、そして『古事記』。日本史の教科書で必ず太字になるこの3つは、すべて一人の天皇の治世に属します。第43代・元明天皇。在位はわずか8年ですが、この8年間に律令国家の「顔」が出揃ったと言ってよい。にもかかわらず、彼女の名が3点セットとともに語られる機会は驚くほど少ないのです。

元明天皇は天智天皇の皇女として661年に生まれました。夫は天武天皇の皇子・草壁皇子。ところが草壁は即位を待たずに没し、代わって立ったのが姉の持統天皇、次いで息子の文武天皇でした。その文武が707年、25歳の若さで崩御します。遺された孫の首皇子、のちの聖武天皇はまだ7歳。ここで即位したのが、母である元明でした。

この即位は二重に異例です。第一に、息子から母へという継承。皇位が世代を遡った唯一の例です。第二に、彼女は皇后を経験していません。夫の草壁皇子は皇太子のまま世を去ったため、皇后の座から即位した推古や持統とは前提が違うのです。

では、前例のない即位をどう正当化したのか。即位の詔で元明は、皇位の継承には天智天皇が定めた「変えてはならない永遠の決まり」がある、自分はそれに従うのだと宣言しました。不改常典と呼ばれるこの法、実は条文が伝わっておらず、その中身は今なお研究者の議論の的です。けれども注目すべきは中身より作法でしょう。血の威光でも武力でもなく、法という言葉で自らの正統性を組み立てる。この手つきが、続く治世の性格をそのまま予告しています。

708年、武蔵国から銅が献上されると年号を和銅と改め、和同開珎を鋳造します。710年、藤原京から平城京へ遷都。碁盤目状の新しい都は、以後74年におよぶ奈良時代の舞台となります。712年には太安万侶が『古事記』を撰上し、713年には諸国に風土記の編纂が命じられました。通貨、首都、正史、地誌。近代国家の建設者が手がける事業の目録と、ほとんど重なります。

文化史の観点から見逃せないのは『古事記』です。編纂を発意したのは天武天皇ですが、中断していた事業を引き継ぎ、一冊の書物として完成させたのは元明の命でした。天皇の統治を神代から説き起こす皇統神話の正典は、女性の玉座の下で仕上げられたことになります。

そして715年、元明は退位します。譲った相手は孫の首皇子ではなく、娘の氷高皇女、すなわち元正天皇でした。母から娘へ。女性から女性への皇位継承は、日本史上この一例のみです。

現行の皇室典範は、皇位を「皇統に属する男系の男子」に限っています。この制度をめぐる議論のなかで、歴代の女性天皇はしばしば「中継ぎ」の一語で片付けられます。元明の即位が孫への橋渡しを意図していたことは、確かに事実でしょう。ただ、遷都と貨幣と正史を8年で成し遂げた統治を「つなぎ」と呼ぶなら、同じ物差しを男性天皇にも当ててみたくなります。そして女性から女性への譲位という事実は、「女性天皇は例外中の例外」という通念を静かに揺さぶります。前例がないのではありません。前例が、十分に読まれてこなかったのです。

元明は晩年、厚い葬儀を戒め、簡素な葬送を望む詔を遺したと『続日本紀』は伝えます。国家の骨格を築きながら、自らの記念碑は求めない。この抑制こそ、彼女の統治の様式だったのかもしれません。奈良の都の礎を置いたのは、ほかならぬこの女性天皇です。

歴代女性天皇一覧(新しい順・8人10代)

天皇 生没年 在位
117 後桜町 1740–1813 1762–1770
109 明正 1624–1696 1629–1643
48 称徳(孝謙重祚) 718–770 764–770
46 孝謙 718–770 749–758
44 元正 680–748 715–724
43 元明 661–721 707–715
41 持統 645–703 690–697
37 斉明(皇極重祚) 594–661 655–661
35 皇極 594–661 642–645
33 推古 554–628 592–628

皇極=斉明、孝謙=称徳が重祚のため、10代・8人となります。

I am pleased to share the international announcement of Couture Tokyo: The Art of Japanese Fashion, a new stay experience from Palace Hotel Tokyo.

I had the privilege of curating three private fashion tours for this project, each designed to reveal Tokyo through the histories, aesthetics and evolving identities of its distinctive fashion districts:

— Ginza
— Daikanyama
— Omotesando and Ura-Harajuku

Rather than approaching Japanese fashion simply as shopping, the tours explore the cultural ideas, craftsmanship, urban history and creative innovation that have shaped it.

Guests may join a privately guided tour based on my curation, or select an option in which I personally accompany them through Tokyo. Bespoke half-day tours tailored to individual interests are also available.

The full English-language announcement is now available from Palace Hotel Tokyo.

「25ans」巻頭連載「ロイヤルの肖像」Vol. 6 日本の皇后雅子さまについての記事がウェブ公開されました。

世界から敬愛を受ける天皇ご一家。長い時間をかけて丁寧に国民との心の絆を築いてこられた、真の意味での誇らしい日本の「象徴」です。政府による理不尽な暴走からご一家が守られますように。

読売新聞に掲載された君塚直隆先生によるレビューがウェブに転載されました。あらためて、ありがとうございます。

 

GQ Japanで6月に開催されたサー・ポール・スミスのイベントがウェブ記事として公開されました。「ピカソ展からディナー会へ サー・ポール・スミスと過ごす特別な一夜」。

 

この時「スーツの未来」についてサー・ポールにインタビューしました。とても丁寧にお答えいただきました。ビジネスを見るシビアな目と、スーツの未来をクールに分析する言葉。長きにわたり現役で第一線を走り続けている人の説得力がありました。

サー・ポール・スミスについては『「イノベーター」で読むアパレル全史 増補改訂版』のなかでも解説しています。

歴史のなかには、後にも先にも一度きり、という出来事があります。女性天皇から女性天皇へ、母から娘へと皇位が渡ったのは、長い日本の歴史でここだけです。その娘のほうが、今回たずねる元正天皇です。

元正天皇(六八〇―七四八)は、第四十四代。諱を氷高(ひだか)といい、新家(にいのみ)皇女とも呼ばれました。父は草壁皇子、母は元明天皇。弟に文武天皇、甥にのちの聖武天皇となる首(おびと)皇子がいます。天武天皇と持統天皇の血を父方に引く、皇統の中枢に生まれた皇女でした。

霊亀元年(七一五)、母・元明天皇が譲位を決意します。首皇子はすでに前年に皇太子に立っていましたが、まだ数え十五歳ほど、天皇として世に立つには若すぎました。そこで皇位を継いだのが、元明天皇の娘、氷高内親王です。ここに元正天皇が誕生しました。母から娘への継承は、このとき一度きり、日本史上ただ一つの事例となります。

ただし、元正天皇の即位は、今日いうところの「女系継承」ではありません。彼女の父は草壁皇子であり、男系としては天武天皇の皇統に連なります。母から娘へという継承のかたちは、あくまで男系の血統を安全に次代へ渡すための、当座の選択でした。ここを混同すると、歴史は現代の論争の道具に堕してしまいます。

そのうえで、もう一つ、見落としてはならないことがあります。彼女は、結婚を経ずに即位した初めての女性天皇でした。それ以前の女帝は、みな皇后や皇太子妃という立場を経て位についています。けれども元正天皇は、后(きさき)であった過去を持たず、独身のまま、一人の内親王として玉座に上りました。私的な家族の事情や継承への欲を背負わない——そのことが、かえって彼女に中立の重みを与えたと考えられます。

彼女の即位は、しばしば「中継ぎ」と呼ばれます。中継ぎとは、空白ではありません。むしろ、最も危うい時間を引き受ける役割です。皇位を受け、保ち、次へ渡す。その間も国家は止まらず、政治も文化も動き続けます。そして元正天皇の治世は、まさに奈良国家の骨格が形づくられた時期でした。

養老二年(七一八)には、藤原不比等らによって養老律令が編纂されます。養老四年(七二〇)には、日本最初の勅撰正史『日本書紀』が完成しました。同じ年、南九州では大隅隼人の反乱が起こり、律令国家の支配が周縁へと及んでいく緊張も露わになります。養老七年(七二三)には三世一身法が出され、開墾した土地の権利を三代にわたって認めることで、土地制度に新しい動きが生まれました。律令、正史、土地制度、地方支配。国家の根幹に関わる事業が、彼女の在位中に次々と実を結んでいます。「何も起きなかった時代」では、決してありません。

元号「養老」にも、この時代らしい想像力が宿っています。美濃国の美泉が、老いを癒やし若返らせる霊験あらたかな水として言上され、これを祥瑞として霊亀から養老へ改元されたと伝えられます。のちにこの泉は、貧しくも老父に孝を尽くす男の説話——養老の滝伝説——と結びついて語られるようになりました。水が老いを養う。そこには、仏教的な救済とも儒教的な孝とも響き合う、奈良朝の政治的想像力が見てとれます。

元正天皇その人がまとった装束について、後世の女帝礼服のように確実に語れる資料は、多くありません。しかし彼女は、制度のかたちとして、いまも鮮明に残っています。母から皇位を受けたという事実。甥へ皇位を返したという事実。結婚を経ず、子を持たなかった一人の女性が、それでも天皇として即位し、国家を代表し、次代へ皇統を渡したという事実。その一つひとつが、元正天皇という存在の輪郭を、くっきりと描き出しています。

元正天皇は、皇位を乱した存在ではなく、皇位を守った存在でした。制度が必要としたとき、女性天皇は現に立ち、機能し、次代へ皇統を渡したのです。

彼女の即位が、無条件の男女平等を意味しないことは確かです。むしろそれは、未来の聖武天皇へ皇位をつなぐための、きわめて慎重な政治的選択でした。しかし、その慎重さのなかで選ばれたのが女性だったという事実は、重い意味を持ちます。皇位を安定して保つために、女性天皇という形式が、現実の制度として用いられたのですから。

元正天皇は、強烈な個性で時代を焼きつけた女帝ではありません。けれども、その静けさを弱さと見てはなりません。歴史には、声高に主張する力だけでなく、壊れやすい秩序を壊さずに持ちこたえる力があります。母から受けた皇位を、甥へと渡す。その一見シンプルな動作のなかに、奈良朝の皇統を支えた、高度な政治的知性がありました。

女性天皇を語ることは、単に「女性も即位できるか」を問うことではないでしょう。皇位をどう安定して次代へ渡すのか、そのために制度はどれほど柔軟でありうるのか。それを問うことでもあるのように思うのです。

母から皇位を受けた、ただ一人の女帝。そして次代の聖武天皇へ、その位を確かに渡した女帝。華やかな衣裳が残らずとも、彼女が体現した継承のかたちは、いまなお私たちの前に、はっきりと立っています。

(Top写真は、元正天皇像(南法華寺蔵))

次回は、その母へ。平城京へ都を遷し、奈良の都を開いた女帝、元明天皇をたずねます。

歴代女性天皇一覧(新しい順・8人10代)

天皇 生没年 在位
117 後桜町 1740–1813 1762–1770
109 明正 1624–1696 1629–1643
48 称徳(孝謙重祚) 718–770 764–770
46 孝謙 718–770 749–758
44 元正 680–748 715–724
43 元明 661–721 707–715
41 持統 645–703 690–697
37 斉明(皇極重祚) 594–661 655–661
35 皇極 594–661 642–645
33 推古 554–628 592–628

皇極=斉明、孝謙=称徳が重祚のため、10代・8人となります。

Vol. 3 ——古代女帝の頂点と終焉

これまで、江戸時代の二人の女帝を訪ねてきました。後桜町天皇も、明正天皇も、即位にあたって白を基調とする礼服をまといました。では、その白はどこから来たのか。糸をたぐっていくと、奈良時代の女帝たちの記憶に行き着きます。その中心にいる一人が、孝謙天皇、のちの称徳天皇です。

称徳天皇、すなわち孝謙天皇は、聖武天皇と光明皇后の娘として、養老二年(七一八)に生まれました。諱を阿倍といいます。

彼女の経歴は、女性天皇史のなかでも際立っています。天平十年(七三八)、日本史上初めて、女性として皇太子に立てられました。それまで女性天皇は、皇后や内親王から即位していましたが、正式な皇位継承者として女性が立太子した例はありません。阿倍内親王の立太子は、女性天皇の歴史のなかでもきわめて重大な出来事でした。

天平勝宝元年(七四九)、父・聖武天皇の譲位を受け、阿倍内親王は即位します。第四十六代・孝謙天皇です。

ここで、この連載の冒頭でも触れた「重祚」が登場します。孝謙天皇はいったん淳仁天皇に譲位し、上皇となります。しかし、藤原仲麻呂、すなわち恵美押勝の乱を制したのち、天平宝字八年(七六四)、ふたたび皇位に就きました。これが第四十八代・称徳天皇です。

孝謙と称徳は、同じ一人の女性です。歴代女性天皇が「八人十代」と数えられるのは、このように一人の天皇が二度即位する「重祚」が二件あるためです。もう一件は、飛鳥時代の皇極天皇が斉明天皇として再び即位した例です。

装束の話に戻りましょう。

江戸の明正天皇、後桜町天皇の即位礼において調えられた白い礼服。その様式を考えるうえで、後世の朝廷が参照したのは、奈良時代の女帝たちの遺例と記録でした。天皇の礼服が、赤を基調とし、龍などの十二章を備える冕服として制度化されたのち、成人女性が天皇として即位する例は長く途絶えます。そのため、近世の朝廷は、女帝の即位礼を整えるにあたり、はるか古代の記憶にまでさかのぼるほかありませんでした。

古代女帝の最後に位置する彼女の存在は、後世が女帝の装束を考えるうえで、重要な参照点の一つとなりました。明正天皇と後桜町天皇の白い礼服は、称徳天皇その人の衣裳を単純に再現したものではありません。むしろそれは、女帝の即位が長く途絶えたのち、残された先例をもとに再構成された「制度の記憶」でした。

白とは、ここでは、失われた形式を呼び戻すための色です。女性天皇の歴史が断絶して見えるとき、その細い糸をつなぎとめていたものの一つが、装束だったのです。

(Empress Koken by Kunisada III, 1878)

称徳天皇を語るうえで、装束以上に大きな事績があります。奈良時代の国家仏教と文化事業の中心にいたことです。

孝謙天皇としての在位中、父・聖武太上天皇が発願した東大寺大仏の開眼供養会が行われました。国家の安寧を仏教によって支えようとする聖武天皇以来の構想は、彼女の時代にも受け継がれます。恵美押勝の乱ののちには、西大寺の造営が進められました。

とりわけ有名なのが、百万塔陀羅尼です。乱後の鎮護と国家安泰を願い、木製の小さな三重塔を百万基つくらせ、その内部に印刷された陀羅尼を納め、諸寺に分置しました。この陀羅尼は、現存する年代の確実な印刷物として世界最古級に位置づけられ、日本の印刷文化史の起点として知られます。一人の女帝の祈りは、結果として、技術と文化の記念碑を残しました。

もう一つ、興味深い文化の痕跡があります。奈良時代後半には、「天平感宝」「天平勝宝」「天平宝字」「天平神護」「神護景雲」という四文字の元号が相次いで用いられました。日本史上でも例外的な現象です。これについては、光明皇后や藤原仲麻呂らが、女性でありながら帝位に就いた中国・唐の女帝、武則天、すなわち則天武后の例を意識した可能性が指摘されています。

女帝の即位という異例の事態を、どのように制度の中に位置づけるか。古代日本は、装束においても、元号においても、先例を探し、形式を整え、正統性を可視化しようとしました。称徳天皇の時代には、その緊張が濃く刻まれています。

その一方で、翳もありました。

称徳天皇は僧・道鏡を深く信任し、太政大臣禅師、さらに法王の位にまで引き上げます。やがて、道鏡を皇位につければ天下は太平になる、という宇佐八幡の託宣が伝えられたとされ、朝廷は大きく揺れました。和気清麻呂が宇佐に赴き、これを否定する託宣を持ち帰ったことで、道鏡擁立は退けられます。

この宇佐八幡神託事件は、後世に強烈な記憶を残しました。皇位は血統によって継がれるものなのか。それとも、宗教的権威や天皇の信任によって動きうるものなのか。その問いが、奈良時代末の朝廷に、きわめて生々しい形で突きつけられたのです。

宝亀元年(七七〇)、称徳天皇は崩御します。皇位は、天武天皇系から、天智天皇系の光仁天皇へ移りました。称徳天皇は、天武系皇統から出た最後の天皇となったのです。

現代の私たちは、称徳天皇をどう見るべきでしょうか。

皇位継承をめぐる議論では、しばしば「女性天皇は中継ぎにすぎなかった」という言い方がなされます。しかし、称徳天皇はその図式に収まりません。彼女は女性として初めて皇太子に立てられ、二度即位し、国家仏教の巨大な文化事業の中心にいました。大仏開眼、西大寺造営、百万塔陀羅尼。彼女の時代には、政治と信仰と技術が結びつき、奈良朝文化の一つの頂点が形づくられました。

同時に、道鏡をめぐる混乱が、後世に「女帝は危うい」という警戒の記憶を残したことも否定できません。称徳天皇は、女性天皇の可能性だけでなく、その制度設計が不安定なまま置かれたときに生じる危うさも、歴史に刻みました。

だからこそ、彼女は単純な賛美にも、単純な否定にも回収してはならない天皇です。

女性が皇太子となり、即位し、重祚し、国家事業を支え、同時に皇位継承の根幹を揺るがす事件の中心にもなった。称徳天皇は、そのすべてを引き受けて、古代女帝の歴史は彼女のところで一つの頂点に達し、そして終わりました。

忘れてはならないのは、後世の女帝たちが白い礼服をまとうとき、そこには奈良時代の女帝たちの記憶が息づいていたということです。明正天皇も、後桜町天皇も、直接に称徳天皇を再現したわけではありません。それでも、彼女たちは古代の女帝たちが残した制度の痕跡の上に立っていました。

女性天皇の歴史は、断絶しているようでいて、完全には断たれていません。装束という細い糸、元号という形式、仏教事業という国家の祈り、そして皇位をめぐる緊張。そのすべてが、称徳天皇という一人の女性のもとで交差していました。

称徳天皇は、古代女帝の終着点です。しかし終着点とは、消滅ではありません。後の時代が何度も振り返る、強烈な記憶の場所でもあります。

次回はさらに時代をさかのぼり、元明天皇と元正天皇へ。母から娘へと皇位が渡った、日本史上ただ一度の継承をたずねます。

歴代女性天皇一覧(新しい順・8人10代)

天皇 生没年 在位
117 後桜町 1740–1813 1762–1770
109 明正 1624–1696 1629–1643
48 称徳(孝謙重祚) 718–770 764–770
46 孝謙 718–770 749–758
44 元正 680–748 715–724
43 元明 661–721 707–715
41 持統 645–703 690–697
37 斉明(皇極重祚) 594–661 655–661
35 皇極 594–661 642–645
33 推古 554–628 592–628

皇極=斉明、孝謙=称徳が重祚のため、10代・8人となります。

859年。それが、この女帝が背負った時間の長さです。

奈良時代の称徳天皇が世を去ってから、次に女性が皇位につくまで、日本はおよそ九世紀を要しました。その空白を破って即位したのが、江戸時代最初の女帝、明正天皇(一六二四〔和暦元和九年〕―一六九六)です。第109代、諱を興子(おきこ)といいます。

血筋が、すでに劇的でした。父は後水尾天皇、母は二代将軍・徳川秀忠の五女、和子。のちの東福門院です。つまり明正天皇は、天皇家の血と徳川将軍家の血が一身で交わる、日本史上ただ一人の皇女でした。家康が娘を宮中へ送り込んだ狙いは、徳川の血を引く天皇の誕生にあったといわれます。その野望と、それを拒もうとする父帝の意地。彼女は生まれながらに、二つの権力のあいだに立っていたのです。

穏やかな継承ではありませんでした。寛永六年(一六二九)、紫衣事件に象徴される幕府の圧迫に憤った後水尾天皇は、幕府へ通告もせず、突如譲位します。皇位を継ぐべき皇子はいずれも早世していました。そこへ、わずか数え七歳の興子内親王が立てられます。翌年、即位礼。父帝の怒りが、幼い娘を玉座へ押し上げた——それが実相に近いといえます。

在位のあいだ、政務の実権は父・後水尾上皇の院政にありました。幕府は寛永十四年(一六三七)に女帝の親政をはっきりと否定しています。そして譲位もまた、彼女の意思ではありませんでした。母・東福門院の意向で異母弟が儲君に立てられ、寛永二十年(一六四三)、二十一歳の明正天皇は皇位を譲ります。譲位の直前、将軍家光は四か条の黒印状を送りつけ、外部との接触を厳しく断ちました。彼女は、権力に押し上げられ、権力に降ろされたのです。

明正天皇の即位礼で用いられたのは、白綾の礼服でした。男性天皇の礼服が、龍などの十二章を刺繍でまとう鮮烈な赤であったのに対し、女帝のそれは白綾に文様がありません。なぜ白なのか。天皇の礼服が赤の十二章と定まって以降、女帝の即位が長く絶えていたため、はるか奈良時代・称徳天皇の遺品の記録だけが、頼るべき先例だったからです。約九世紀ぶりに女帝の儀礼を立ち上げるにあたり、朝廷は失われた様式を古い記録から手繰り寄せるほかありませんでした。この白は、清らかさの象徴である前に、断絶した伝統を再構築した跡そのものなのです。のちに最後の女帝・後桜町天皇の礼服も、この明正天皇の例を踏まえて整えられました。

追号にも、同じ意志が刻まれています。「明正」の二字は、奈良時代の女帝・元明天皇と元正天皇から、それぞれ一字ずつ取られたものです。装束においても、名においても、彼女は古代の女帝たちの記憶を近世へ呼び戻す器でした。

明正天皇は、時代を能動的に動かした英雄ではありません。むしろ、政治の前面に立つことを許されなかった一人の女性です。だからこそ、現代の私たちにとって示唆的なのだと思います。

いま、皇位継承をめぐる議論では、女性天皇が日本の伝統にそぐわない制度のように語られます。しかし歴史を開けば、女性天皇はすでに、確かに存在しました。しかも明正天皇は、幼く、制約され、父の院政下にあってもなお、正式に践祚し、即位礼を行い、十四年在位し、次代へ皇統を渡しています。翻弄されながらも重い冠を受け止め続けた、一人の少女の時間によっても天皇制は守られてきたのです。

前回の後桜町天皇が、譲位後に若き光格天皇を導いた能動の女帝であったとすれば、明正天皇は、権力の奔流に立ち位置を定められた受動の女帝でした。同じ江戸の白い装束をまといながら、二人の生き方は対照をなします。

京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵。

次回はさらに時代をさかのぼり、奈良時代へ。近世の女帝たちが振り返り、その名を借りた「原像」——女性天皇のはじまりの記憶をたずねます。

歴代女性天皇一覧(新しい順・8人10代)

天皇 生没年 在位
117 後桜町 1740–1813 1762–1770
109 明正 1624–1696 1629–1643
48 称徳(孝謙重祚) 718–770 764–770
46 孝謙 718–770 749–758
44 元正 680–748 715–724
43 元明 661–721 707–715
41 持統 645–703 690–697
37 斉明(皇極重祚) 594–661 655–661
35 皇極 594–661 642–645
33 推古 554–628 592–628

皇極=斉明、孝謙=称徳が重祚のため、10代・8人となります。

天明七年(一七八七)の夏、京都御所を七万もの人々が取り囲みました。大飢饉に苦しむ民衆が、幕府ではなく御所に向かって祈りを捧げた「御所千度参り」です。このとき、群衆に三万個のりんごを配らせた人物がいます。後桜町上皇——日本の歴史上、いまのところ最も新しい女性天皇です。

第百十七代後桜町天皇(一七四〇〜一八一三)、諱は智子(としこ)といいます。桃園天皇が二十二歳で急逝したとき、その皇子・英仁親王はまだ五歳でした。幼い皇子が成長するまで皇統を守るため、宝暦十二年(一七六二)、桃園天皇の異母姉である智子内親王が践祚し、翌年、即位式が行われました。

この即位は、しばしば「中継ぎ」と説明されます。たしかに彼女の皇位は、幼い親王へ継承するまでの時間を支えるものでした。しかし、皇統が不安定になったとき、成人した皇族が皇位を担い、朝廷の秩序を保ち、次代へ渡す。それは代役ではなく、君主制そのものを存続させる中核的な機能です。ここで問われたのは性別ではありません。危機の局面で、誰が制度を担えるのか。後桜町天皇は、その問いに対する歴史上の具体的な答えでした。

その即位の意味を雄弁に語るものがあります。衣裳です。

男性天皇の即位礼には、赤を基調とし龍などの十二章を備えた冕服、いわゆる袞冕十二章が用いられてきました。ところが、弘仁十一年(八二〇)にこの形式が定められて以後、成人女性が天皇として即位する例はありませんでした。直前の女性天皇である明正天皇は、即位時わずか八歳。さらにさかのぼれば、奈良時代の女帝たちの記憶に行き着くほかありません。

つまり後桜町天皇の即位礼は、長く途絶えた形式をどう現実の制度として立ち上げ直すかという有職故実上の難問であり、皇位継承の柔軟性が試された場でした。伝えられるところによれば、内蔵寮に保管されていた過去の女帝の装束も検討されました。しかし幼帝だった明正天皇の衣裳は成人の身体に合わず、奈良時代の孝謙天皇のものとされる古装束は時代があまりに隔たっていました。結局、後桜町天皇のために、白を基調とする礼服が新たに調えられます。赤地に文様を備える男帝の礼服に対する、白無地。それは制度の記憶が途切れたあと、残された先例と記録を手がかりに生まれた形式でした。白い礼服は、女帝の即位が途絶えていた時間の空白を示すと同時に、その空白を埋めて皇位を現実に動かすための衣裳だったのです。その姿は『冕服図帖』などの図像資料に伝わります。彼女は、失われかけていた儀礼をまとい直し、皇位の連続性を身体で示した天皇でした。

在位九年で譲位したのちも、後桜町上皇の仕事は終わりません。むしろここからが長いのです。甥の後桃園天皇を支え、その後桃園天皇もまた二十二歳で崩御すると、九歳で即位した光格天皇を導きました。仙洞御所からたびたび学問と政務の戒めを与え、血縁上の母ではないにもかかわらず「国母」と称されます。冒頭のりんごの逸話は、この時期のものです。そして民の飢えを見た光格天皇は、幕府への申し入れが朝廷の分を越えることを承知のうえで、民衆救済を要求しました。飢える者に君主はどう応えるべきか——その天皇観を幼帝に仕込んだ教師が誰であったかは、言うまでもありません。

彼女は書く人でもありました。十代半ばから書き継いだ宸筆の日記四十一冊が、いまも京都御所の東山御文庫に伝わります。漢学を好み、和歌は千数百首を残したと伝えられます。近世の朝廷がどう動いていたかを知るための一級の記録を、女性天皇自身の手が残したのです。

そして、ここに現代の読者が見落とせない事実があります。後桜町上皇が育てた光格天皇は、現在の皇室の直系の祖にあたります。今日の皇室の型と精神の源流をたどれば、それを幼い天皇に伝えた一人の女性天皇に行き着くのです。

後桜町天皇以降、約二百六十年にわたり、日本に女性天皇は現れていません。この、いまのところ最も新しい女性天皇は、皇統をつなぎ、朝廷を支え、民に応え、記録を残し、次代の天皇を育てました。歴史が示すのは、皇位の安定に必要なのが性別ではなく、継承を担う資格と責任だということです。

二十一世紀の皇室をめぐる議論で問われるべきは、皇統をもっとも自然に、安定して、尊厳あるかたちで受け継ぐ制度とは何か、ということでしょう。

白い礼服と、三万個のりんごと、四十一冊の日記。後桜町天皇が残したものは、皇位が危機に直面したとき、制度が性別を超えて作動しえたことを伝える、証言です。

次回は一代前へ。江戸のもう一人の女帝、明正天皇をたずねます。

歴代女性天皇一覧(新しい順・8人10代)

天皇 生没年 在位
117 後桜町 1740–1813 1762–1770
109 明正 1624–1696 1629–1643
48 称徳(孝謙重祚) 718–770 764–770
46 孝謙 718–770 749–758
44 元正 680–748 715–724
43 元明 661–721 707–715
41 持統 645–703 690–697
37 斉明(皇極重祚) 594–661 655–661
35 皇極 594–661 642–645
33 推古 554–628 592–628

皇極=斉明、孝謙=称徳が重祚のため、10代・8人となります。

世界のロイヤルについて本や記事を書いておきながら、日本のロイヤルについて取り組む機会がありませんでした。

25ans連載「ロイヤルの肖像」でも紹介しておりますが、ヨーロッパの次代の王位継承者には圧倒的に女性が多い。現時点で、継承順位第一位の女性継承者は、以下の5人です。

継承の確実性という観点で、区別すべき線があります。heir apparent(法定推定相続人/確定的な第一継承者)と heir presumptive(推定相続人)の違いです。

継承順位第一位が確定している女性(heir apparent)は4人

いずれも絶対的長子相続(性別を問わず長子が継ぐ)を採用した国で、弟が生まれても順位が動きません。

ヴィクトリア/スウェーデン(Victoria, Crown Princess of Sweden、1977年生)
カール16世グスタフ国王の長子。スウェーデンは絶対的長子相続を最初に採用した国で、1980年の法改正でヴィクトリアが弟カール・フィリップを追い越して第一継承者となりました。即位すれば1720年以来はじめての、スウェーデン史上4人目の女王となります。

エリザベート/ベルギー(Elisabeth, Duchess of Brabant、2001年生)
フィリップ国王の長女。1991年の憲法第85条改正で長子相続が導入され、彼女はベルギー史上初の女王となる予定です。オックスフォード大学とハーバード大学で学んでいます。2000年代生まれの次世代女性継承者の中では最年長です。の「次期女王」の中では最年長です。

カタリナ=アマリア/オランダ(Catharina-Amalia, Princess of Orange、2003年生)
ウィレム=アレクサンダー国王の長女。オランダは1983年に絶対的長子相続を導入。彼女はウィルヘルミナ、ユリアナ、ベアトリクスに続く近代オランダ王国4人目の女王となりますが、生まれながらに heir apparent であった最初の女王になります。

イングリッド・アレクサンドラ/ノルウェー(Ingrid Alexandra of Norway、2004年生)
やや構造が特殊です。父ホーコン皇太子(その父ハーラル5世国王の第一継承者)の第一継承者であり、ノルウェー王位継承順位では第二位にあたります。ノルウェーは1990年に絶対的長子相続を導入しましたが、改正前に生まれた国王の子世代には旧来の男子優先が残されたため、ホーコン皇太子は姉マルタ・ルイーセ王女より上位にとどまりました。

継承順位第一位だが確定ではない女性(heir presumptive) 1人

レオノール/スペイン(Leonor, Princess of Asturias、2005年生)
フェリペ6世国王の長女。スペインは男子優先の継承法を残しているため、レオノールは heir apparent ではなく heir presumptive です。つまり、もし国王に男子が生まれれば順位を追い越される立場にあります。ただしレオノールは2人姉妹の姉であり、その可能性は低いとみられています。即位すればイサベル2世以来のスペイン女王となります。

トップ写真はヴィクトリア皇太子。彼女自身の第一後継者もエステル王女なので、女帝から女帝へという継承になりますね。(CC-SA 2.0)

翻って日本の現状を見たときに……私はいま、心底、怒りにふるえております。ここで怒りの感情を吐露するだけではなんの事態展開もたらさないので、まずは、日本の歴史においてたしかに存在した女性の天皇をいまいちど、私たちの記憶に呼び戻すことから始めてみたいと思います。

日本の歴史には、女性天皇が8人、10代にわたり、君臨しました。新しい潤に整理します。

歴代女性天皇一覧(新しい順・8人10代)

天皇 生没年 在位
117 後桜町 1740–1813 1762–1770
109 明正 1624–1696 1629–1643
48 称徳(孝謙重祚) 718–770 764–770
46 孝謙 718–770 749–758
44 元正 680–748 715–724
43 元明 661–721 707–715
41 持統 645–703 690–697
37 斉明(皇極重祚) 594–661 655–661
35 皇極 594–661 642–645
33 推古 554–628 592–628

皇極=斉明、孝謙=称徳が重祚のため、10代・8人となります。

次回から、おひとりおひとり、丁寧に記憶に呼び戻してみたいと思います。

本日、パレスホテル東京より、新しい宿泊プラン
Tokyo Fashion Chronicles が発表されました。

東京という街を、日本のファッション、クラフトマンシップ、都市文化の記憶から読み解く、2泊3日の特別な滞在です。

このプランでは、表参道・銀座・代官山を舞台に、着物、時計・ジュエリー、伝統工芸、プレタポルテなど、日本の装いの文化を育んできた場所を訪ねます。

私は本プランのキュレーションおよび監修を務めさせていただきました。プライベートツアーではお客様とともに街を歩きながら、服飾史と都市の物語をひも解きます。

背景にある時間、技術、思想、人の営みを知ることを通して、唯一無二の体験をお届けします。

半年をかけて、パレスホテル東京および多くの日本のファッションブランドの方々とともに丁寧に形にしてきたプランです。東京を、装いの文化から深く体験したい方に届きますように。

Tokyo Fashion Chronicles
Palace Hotel Tokyo
2026年7月8日より予約開始

I am pleased to share that Palace Hotel Tokyo has announced a new accommodation experience, Tokyo Fashion Chronicles.”

This two-night, three-day program invites guests to explore Tokyo through the lens of Japanese fashion, craftsmanship, urban culture, and the layered memory of place.

As curator and supervisor of the program, I have worked closely with the Palace Hotel Tokyo team over the past six months to shape an experience that goes beyond shopping or sightseeing. The private fashion tour, which I will personally accompany, takes guests to Omotesando, Ginza, or Daikanyama, tracing the cultural narratives behind kimono, craftsmanship, fine objects, and Japanese prêt-à-porter.

True luxury is not only about access to beautiful things. It is about understanding the time, skill, philosophy, and human stories that give those things meaning.

Tokyo Fashion Chronicles begins at Palace Hotel Tokyo on July 22, 2026

本日7月5日(日)付読売新聞朝刊の書評欄に、君塚直隆先生による『エレガンス入門』の書評が掲載されました。ありがとうございます。

西日本新聞「カリスマ書店員の激オシ本」においてもご紹介いただきました。こちらは有料記事ですが、ありがとうございました。

 

トップ写真は、成田空港第一ターミナルです。久しぶりに成田空港に行ったらとんでもなくきれいになっていて驚きました。

アロマでよい香りも漂い、和の落ち着きもあり、待ち時間を思い思いに気持ちよく過ごすことができる設計になっていました。なんと足湯までありました。

北日本新聞webun⁺にて、連載「ラグジュアリーの羅針盤」Vol. 44で書いた記事が公開されました。

無国籍の未来から、ヘリテージを考える」。

 

英語版は、こちらでお読みいただけます。

25ans 巻頭連載「ロイヤルの肖像」、天皇皇后両陛下のオランダ訪問においても記憶に新しいマキシマ王妃についての記事がウェブ公開されました。こちらでお読みいただけます。

 

3日(金)午後10:45~ 「ステータス」再放送です。(3月にNHK BS 4Kで放送済み)

#8 社交界デビュー | ステータス | NHK

スタジオ撮影は半年前。やはり緊急性もなければニッチすぎる分野なので「総合」での放送は先送りにされ続けてきたのでしょうか…。いずれにせよ、制作チーム ten ten filmのがんばりがすばらしいのです。これまで閉じられていた扉を開けたスタッフのチャレンジに心より敬意を表します。

『エレガンス入門』では第9章「階級演出装置としてのエレガンス」において、ル・バル・デ・デビュタントの歴史と現在のシステムを詳述しております。これを執筆している最中に、偶然、この番組への出演オファーをいただき、スタッフとの議論が大いに役立ちました。番組とあわせて参照いただくことで、この時代錯誤にも見えるシステムにおける「エレガンス」の仕組みと働きを、より深く理解できることと思います。

 

番組は、10日まで配信されています。

Princess Diana & The Royals: The Exhibition.

ウェディングドレスとエンゲージメントドレスに関しては、精巧な「紙」によるレプリカでしたが、あとは本物が展示されています。

有名な「ブラック・シープ」のセーターも。こちらのセーターはレプリカがお土産ショップで販売されています。ジムウェアとして着用していたヴァージン・アトランティックのジャージも。

ダイアナ妃の結婚式に出席したグレース・ケリーのコーナーもあり。

めずらしいのは、かのウィンザー公夫人、ウォリス・シンプソンのコーナー。ウォリスはモノクロの写真で見慣れていたので、こうしてカラフルなドレスを見ると、また違ったウォリス像が立ち現れてきます。

「オリエント」にインスパイアされたケープとな…。

そのウォリスを憎んでいたと言われるジョージ5世の妻、クイーン・マザーことエリザベス・バウズ・ライアンの戴冠式の衣装も。

 

そしてキャサリン妃がウィリアム王子に見初められるきっかけになったカレッジファッションショーで着用したドレス。

やはり物語をもつ服というのはイマジネーションをかきたててやまないですね。