平城京遷都、和同開珎、そして『古事記』。日本史の教科書で必ず太字になるこの3つは、すべて一人の天皇の治世に属します。第43代・元明天皇。在位はわずか8年ですが、この8年間に律令国家の「顔」が出揃ったと言ってよい。にもかかわらず、彼女の名が3点セットとともに語られる機会は驚くほど少ないのです。

元明天皇は天智天皇の皇女として661年に生まれました。夫は天武天皇の皇子・草壁皇子。ところが草壁は即位を待たずに没し、代わって立ったのが姉の持統天皇、次いで息子の文武天皇でした。その文武が707年、25歳の若さで崩御します。遺された孫の首皇子、のちの聖武天皇はまだ7歳。ここで即位したのが、母である元明でした。

この即位は二重に異例です。第一に、息子から母へという継承。皇位が世代を遡った唯一の例です。第二に、彼女は皇后を経験していません。夫の草壁皇子は皇太子のまま世を去ったため、皇后の座から即位した推古や持統とは前提が違うのです。

では、前例のない即位をどう正当化したのか。即位の詔で元明は、皇位の継承には天智天皇が定めた「変えてはならない永遠の決まり」がある、自分はそれに従うのだと宣言しました。不改常典と呼ばれるこの法、実は条文が伝わっておらず、その中身は今なお研究者の議論の的です。けれども注目すべきは中身より作法でしょう。血の威光でも武力でもなく、法という言葉で自らの正統性を組み立てる。この手つきが、続く治世の性格をそのまま予告しています。

708年、武蔵国から銅が献上されると年号を和銅と改め、和同開珎を鋳造します。710年、藤原京から平城京へ遷都。碁盤目状の新しい都は、以後74年におよぶ奈良時代の舞台となります。712年には太安万侶が『古事記』を撰上し、713年には諸国に風土記の編纂が命じられました。通貨、首都、正史、地誌。近代国家の建設者が手がける事業の目録と、ほとんど重なります。

文化史の観点から見逃せないのは『古事記』です。編纂を発意したのは天武天皇ですが、中断していた事業を引き継ぎ、一冊の書物として完成させたのは元明の命でした。天皇の統治を神代から説き起こす皇統神話の正典は、女性の玉座の下で仕上げられたことになります。

そして715年、元明は退位します。譲った相手は孫の首皇子ではなく、娘の氷高皇女、すなわち元正天皇でした。母から娘へ。女性から女性への皇位継承は、日本史上この一例のみです。

現行の皇室典範は、皇位を「皇統に属する男系の男子」に限っています。この制度をめぐる議論のなかで、歴代の女性天皇はしばしば「中継ぎ」の一語で片付けられます。元明の即位が孫への橋渡しを意図していたことは、確かに事実でしょう。ただ、遷都と貨幣と正史を8年で成し遂げた統治を「つなぎ」と呼ぶなら、同じ物差しを男性天皇にも当ててみたくなります。そして女性から女性への譲位という事実は、「女性天皇は例外中の例外」という通念を静かに揺さぶります。前例がないのではありません。前例が、十分に読まれてこなかったのです。

元明は晩年、厚い葬儀を戒め、簡素な葬送を望む詔を遺したと『続日本紀』は伝えます。国家の骨格を築きながら、自らの記念碑は求めない。この抑制こそ、彼女の統治の様式だったのかもしれません。奈良の都の礎を置いたのは、ほかならぬこの女性天皇です。

歴代女性天皇一覧(新しい順・8人10代)

天皇 生没年 在位
117 後桜町 1740–1813 1762–1770
109 明正 1624–1696 1629–1643
48 称徳(孝謙重祚) 718–770 764–770
46 孝謙 718–770 749–758
44 元正 680–748 715–724
43 元明 661–721 707–715
41 持統 645–703 690–697
37 斉明(皇極重祚) 594–661 655–661
35 皇極 594–661 642–645
33 推古 554–628 592–628

皇極=斉明、孝謙=称徳が重祚のため、10代・8人となります。

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