春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山。

百人一首の2番歌です(万葉集の原形は「夏来るらし」「衣干したり」。目の前の実景を詠み切る形でした。「干すてふ」すなわち「干すという」の伝聞調に変わったのは、新古今集や百人一首に採られる過程での改変です)。香具山の白い衣を詠んだこの歌人が、日本古代史でもっとも強靭な政治家の一人であったことは、あまり意識されません。第41代・持統天皇。前号の元明天皇にとっては異母姉であり、姑でもあった人です。律令国家の骨格を仕上げたのが元明なら、その設計図を引いたのは持統でした。

645年、天智天皇の皇女として生まれ、13歳で叔父にあたる大海人皇子、のちの天武天皇に嫁ぎます。672年の壬申の乱では吉野から東国への脱出行に同行し、夫の勝利を間近で支えました。686年に天武が没すると、皇太子であった息子の草壁皇子の即位を期し、皇后のまま政務を執ります(称制)。その草壁が689年に早世すると、翌690年、自ら正式に即位しました。息子のための執政が、自身の玉座に転じた瞬間です。

治世の事業は目覚ましい。689年に飛鳥浄御原令を施行し、690年には庚寅年籍という全国規模の戸籍を整備。694年、日本初の本格的な条坊制都城である藤原京へ遷都します。碁盤目の都という発想はここから平城京へ、平安京へと受け継がれていく。元明の平城京は、姑が敷いた線路の延長線上にあったのです。「天皇」という称号についても、推古朝に遡るとする説と天武朝に成立したとする説が長く対立してきましたが、飛鳥池遺跡から天武朝の「天皇」木簡が出土して以降、天武・持統朝での確立を有力視する研究者が増えています。私たちが当然のように使うこの言葉の制度化に、彼女は立ち会っていた可能性が高いのです。

文化史における持統朝は、宮廷文学の最初の頂点です。柿本人麻呂が歌人として仕えたのはこの宮廷でした。690年には伊勢神宮で最初の式年遷宮が行われます。天武の発意を持統が実行に移したこの制度は、1300年を超えて現代まで続いています。また研究者の間には、皇祖神アマテラスが女神として確固たる地位を得た背景に、持統朝の政治的文脈を読む見方もあります。祖母から孫への継承を、女神から孫神への天孫降臨に重ねる読み筋です。仮説の域を出ませんが、神話と王権の距離の近さを考えさせます。

697年、持統は孫の珂瑠皇子、15歳の文武天皇に譲位します。孫への橋渡しという点では彼女もまた「中継ぎ」に数えられがちですが、渡したのは橋というより、国家の設計図一式でした。なお譲位そのものには皇極天皇の先例(645年)があります。持統が最初に行ったのは、退位後に「太上天皇」を称し、上皇として次代を後見する体制の創出です。2019年、上皇の称号が202年ぶりに復活したとき、直近の先例として引かれたのは江戸期の光格天皇でした。しかし、制度の起点まで遡れば、この女帝に行き着きます。

現行の皇室典範には、譲位の規定がありません。平成の譲位が一代限りの特例法を必要としたのはそのためです。皇位を「男系の男子」に限る第1条は議論の的になりますが、退位の不在という論点はその陰に隠れがちです。持統が創った太上天皇の制度は、以後、光格上皇まで1100年余りにわたり受け継がれました。それを持たない現行典範のほうが、歴史のなかではむしろ新参者です。

703年に世を去ると、遺体は火葬され、天武の眠る檜隈大内陵に合葬されました。天皇の火葬はこれが最初です。ところで冒頭の歌。香具山は藤原京を取り囲む大和三山のひとつですから、あの白い衣は、自ら造営した都から眺めた光景ということになります。国家を組み上げた目が、初夏の洗濯物の白に留まる。万葉集はその一瞬を、1300年後の私たちに伝えています。

歴代女性天皇一覧(新しい順・8人10代)

天皇 生没年 在位
117 後桜町 1740–1813 1762–1770
109 明正 1624–1696 1629–1643
48 称徳(孝謙重祚) 718–770 764–770
46 孝謙 718–770 749–758
44 元正 680–748 715–724
43 元明 661–721 707–715
41 持統 645–703 690–697
37 斉明(皇極重祚) 594–661 655–661
35 皇極 594–661 642–645
33 推古 554–628 592–628

皇極=斉明、孝謙=称徳が重祚のため、10代・8人となります。

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