592年の冬、ひとりの女性が飛鳥の豊浦宮で即位しました。日本の歴史に記録された、最初の女性君主です。唐の武則天に先立つこと約1世紀、新羅の善徳女王よりも40年早い。しかも興味深いことに、このとき「天皇」という称号はまだ確立していませんでした。本連載Vol. 6で触れたとおり、天皇号の成立は天武・持統朝とみる説が現在は有力です。つまり同時代の彼女は「大王(おおきみ)」であり、「初の女性天皇」とは後世からの呼び名ということになる。称号が生まれるより先に、実体があった。推古天皇とは、そういう存在です。
欽明天皇の皇女として554年に生まれ、敏達天皇の皇后となります。即位の背景は血なまぐさいものでした。592年、崇峻天皇が蘇我馬子の指図で殺害されます。臣下の手にかかって命を落とした天皇は、記録上この一人だけです。王権が最も深く傷ついた瞬間に担ぎ出されたのが、39歳の彼女でした。ここだけ見れば、伯父にあたる馬子の傀儡と映るかもしれません。実際、そう書いてきた歴史書は少なくない。しかし36年におよぶ治世の中身は、その見立てを裏切り続けます。
推古朝の政治は、甥の厩戸皇子(聖徳太子)と馬子を交えた共同統治として運営されました。603年、冠位十二階。氏族の家柄ではなく個人の功績で人を用いる原理が、初めてこの国に持ち込まれます。604年には憲法十七条。そして遣隋使です。日本書紀が伝える607年の小野妹子に先立ち、隋書には600年の遣使が記録されています。約1世紀ぶりに再開された中国との国交、相手は統一王朝・隋でした。ところで、その隋書は倭国の王を「阿毎多利思比孤」という男性として記しています。玉座にいたのは推古のはずなのに、です。使節がそう説明したのか、隋側の思い込みか、決定的な答えは今日までありません。確かなのはひとつ。女性君主の姿が公式の記録から薄れていく現象は、7世紀にはもう始まっていたということです。
その彼女自身の声が、日本書紀にひとつだけ鮮明に残っています。624年、馬子が朝廷の直轄地である葛城県を所望したときのこと。推古は答えました。自分は蘇我の家から出た身であり、あなたは伯父である。しかし公の土地を私に与えれば、後世は私を愚かな女と言い、あなたを不忠と謗るだろう。育ての氏族に向けた、静かで完璧な拒絶です。傀儡は、こういう文章を残しません。
文化史における推古朝は、飛鳥文化の開幕そのものです。594年の三宝興隆の詔を号砲に、日本最初の本格寺院である飛鳥寺が建立され、609年には鞍作止利の手になる飛鳥大仏が据えられました。度重なる補修を経ながら、この仏はいまも飛鳥の同じ場所に坐しています。そして法隆寺。創建は推古朝、現存の伽藍は7世紀後半の再建ですが、世界最古の木造建築群として1993年、日本初の世界遺産となりました。日本文化の「最古」は、驚くほどこの女帝の治世に集中しているのです。
さて、皇室典範です。日本史上の女性天皇は8人10代。そのすべての起点が推古であり、8人の全員が、父方をたどれば天皇に行き着く「男系の女子」でした。現行典範の第1条は皇位を「男系の男子」に限るため、男系の女子である推古のような即位は、今日の制度では起こり得ません。最初の女性天皇の即位が、1400年後の法律では不可能になっている。この事実をどう考えるかは、読者それぞれの判断に属します。ただ、在位36年という数字だけは添えておきます。歴代の女性天皇で最長。つなぎの玉座に、人はそんなに長く座れません。
628年、推古は75歳で世を去りました。飛鳥大仏は、彼女の即位から1400年あまりを経たいまも、同じ場所から都の跡を見つめています。
歴代女性天皇一覧(新しい順・8人10代)
| 代 | 天皇 | 生没年 | 在位 |
|---|---|---|---|
| 117 | 後桜町 | 1740–1813 | 1762–1770 |
| 109 | 明正 | 1624–1696 | 1629–1643 |
| 48 | 称徳(孝謙重祚) | 718–770 | 764–770 |
| 46 | 孝謙 | 718–770 | 749–758 |
| 44 | 元正 | 680–748 | 715–724 |
| 43 | 元明 | 661–721 | 707–715 |
| 41 | 持統 | 645–703 | 690–697 |
| 37 | 斉明(皇極重祚) | 594–661 | 655–661 |
| 35 | 皇極 | 594–661 | 642–645 |
| 33 | 推古 | 554–628 | 592–628 |
皇極=斉明、孝謙=称徳が重祚のため、10代・8人となります。


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