大学のファッション文化史の授業に、ISSEY MIYAKE クリエイティブディレクターの藤原大さんをお招きする。日本発のクリエイションについて、ISSEY MIYAKEのワールドワイドなお仕事の具体例を通じてお話いただく。

藤原さんは、ISSEY MIYAKEブランドのメンズ、レディス双方を手がける。パリコレにも出展し続けているばかりか、世界の様々な分野の方とデザインを通じて交流する超多忙なディレクター。デザインに対する考え方がユニークで、A-POCのデザインにおいて2000年度グッドデザイン賞、2003年度毎日デザイン賞を受賞している。ジャングルにカラーハンティングに出かけたり、ジャパンブルー(日本の藍)を追求するデニムのプロジェクトを行なったり、掃除機のダイソンとコラボレートしたりなど、毎回の意表をつく試みにいつも驚かされていた。

デザインとはなにか、クリエイティブとはどういうことを言うのか、環境とデザインの関係、デザインと社会や文化との関係など、さまざまな刺激がきらきらとちりばめられた、濃い90分を堪能。

A-POC(A Piece Of Cloth=一枚の布&Epoch=時代)は、コンピューターテクノロジーを用いて、一本の糸から一体成型で服をつくり出す製法で、私も何度か展示会で拝見していたのだが、そのデザインの根本にあったのは、「もったいない」という日本独特の発想だった! 服地のムダをいかに省くか? 「もったいない」部分をいかに小さくしていくか? その発想をもとに生まれたのが、あの「画期的な一枚の布」だった。

広い範囲にわたって興味深い視点に目が見開かれた印象だったのだが、すべて書ききろうとすると永遠に終わらないので、とりわけ強く心に刻まれたことをメモ。

・デザインとは、単に表面的に美しいものをつくることではなく、考え方を相手に伝えるものであること。しかも継続して伝え続けるものであること。デザインとはそんなコミュニケーションの手段である。これからは、私たちひとりひとりに、デザイン力が必要になる時代がくる。

・コンセプト、素材、そしてそれらを活かす技術。その三つを結びつけるのがデザイナーの仕事であり、デザイナーの仕事をさらにインパクトのある形で世に問うには、デザイナーの力を超越する異分野の才能の協力や、チームの力も必要。

・立体である人間の服を、平面である型紙におこす。このような服作りの過程に生じる問題を考えるため、デザイン学校の学生に、みかんの皮をむかせてみた。立体をおおっていたみかんの皮が平面になる。それを紙にパターンとしておこし、「みかんの服」を作らせてみるのである。

丸くもとの形に近づけることをはじめから放棄し、四角いみかんを作った学生がいた。また、紙をくしゅくしゅともんで、縮みを入れ、伸縮性をもたせてみかんを作った学生がいた。杓子定規に「もとのみかんに近づける」ことばかりを考えるのではなく、こうした大胆な発想でアプローチしていくこと。それこそが、クリエイティブ、ということ。

・ジャパンブルー、日本の藍色とは、瀬戸内海の中にデニムを沈めていって、海の色と一致したときの色。いわば黒潮の色。

写真は学生からの質問に耳を傾ける藤原さん。

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「たえず実験しながら、利益もとっていかなくてはいけない」。最先端の現場で数字とも闘い続けなくてはならないディレクターの、並みならぬ努力を思わずにはいられない。それを苦にせず、むしろ楽しんでいらっしゃる様子に、エネルギーのおすそ分けをいただいた思いがする。藤原大さん、ありがとうございました!

 

岡田温司「グランドツアー 18世紀イタリアへの旅」(岩波新書)。グランドツアーに関するイギリス側の事情は読んだことがあったが、この本ではおもにイタリアの話が紹介される。実際に貴族の子弟が訪れた、18世紀当時のイタリアの事情が、旅しているように具体的に描かれる。「人」「自然」「遺跡」「美術」という章立て。

「人」の章で発見あり。かのイギリスの「マカロニ」が、イタリアの「チチスベイ」や「カストラート」に象徴される、あやしいジェンダーに影響を受けている、と。なるほど。ファッション史上ではたんに「イタリアかぶれの軽薄な洒落者」と位置づけされていることが多い「マカロニ」だが。チチスベイやカストラートの文化にまで視野を広げると、見え方もちがってくる。

「男が男らしさを失ってしまうのは、イタリアが『チチスベイ』と『カストラート』の温床だからであり、反対に女が強くなるのは、同じ国が『アマゾネス』たちの活躍する国だからである。イギリス紳士の卵である若者にとって教育の最後の仕上げとなるグランドツアーが、あろうことか反対に、その彼らを堕落させてしまうとは。イタリアにかこつけたこのようなステレオタイプ化にはまた、同性愛にたいするイギリス上流社会の強迫観念が投影されているように思われる」

騎士道とチチスベイとカストラートとアマゾネスとジェンダーレスとジェントルマンと同性愛。マカロニの背景にこれだけの文化的事情を語ることができるとは。

「自然」の章で紹介される、18世紀のピクチャレスクと崇高と廃墟&絵画との関係も、具体的でわかりやすかった。ぎっしりと18世紀のヨーロッパ文化が学べる充実した本。

ただ、ときどき出てくる「周知のように」という表現に小さなひっかかりを覚える。「周知のように」いう前置きで語られる読者対象は、ある程度、学問的素養のある層なのだ。「周知のように」と言われて「知らねえよ!」と心の中で叫ばずにはいられない読者には、ハードルが高く感じられるのではないか。

大学のファッション文化史の講義で、靴作り&靴デザインのエキスパートをお招きしてスペシャルトークセッションをおこなう。NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」にも出演経験のある、オーダーメード靴界の第一人者、「ギルド」の山口千尋さんと、「JILAレザーグッズデザインアワード」グランプリ受賞の気鋭のデザイナー、串野真也さん。串野さんは京都から。

山口さんは5000年前の靴の話に始まり、革のすぐれた特性、人間の足の構造、靴と足の不思議な関係など、基本的な事柄に見えて案外知らない靴のお話を丁寧に解説。「足の形のまま靴を作ると、実はゆるい」という意外な事実。人間の足には56個もの骨があること。「履くときにはすっと抵抗なく履けなくてはいけないが、いったん履いてしまうと脱げては困る」というパンプスの不思議。「自分に合った一足」を見つけることの大切さを学ぶ。写真はオーダーメイドのブーツを手に講義する山口さん。

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串野さんは、非日常的なファンタスティックな靴やバッグなどを作り続ける。「ソマルタ」と2010-11秋冬コレクションでコラボレーションして話題になったことも記憶に新しい。伊勢海老にヒントを得た(!)という羊をイメージした靴や、

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「ジンガロ」を見て風のように駆け抜ける馬をイメージしたという、ヒールのない靴(!)や、

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ギリシア神話のキメラからインスピレーションを得たという靴の数々は、靴というよりアートピース。作品の実物を手に取りながらのお話は、説得力あり。上の「ヒールのない」靴を、わたくし、実際に履かせていただきました! 土踏まずでしっかりと安定し、ちゃんと歩けることに驚く。

下の写真は、大量生産や模倣は不可能な、世界にたったひとつの靴を作り続けたい、という思いを熱く語る串野さん。

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串野さんの新作、ピーコックにも驚き。テキスタイルデザイナー、今井美沙さんが創る、デザインにあったオリジナルのテキスタイルが使われている。孔雀の羽やヒールにぱっと目を奪われるが、よく見ると、地模様のテキスタイルによって、幻想的な孔雀ワールドがより強化されている。

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地に足をつけてしっかりと現実世界を歩くための靴を作る山口さんと、現実を超える夢を見せてくれるシュールで美しい靴を作る串野さん。一見、対極の態度に見えるが、ふたりのお話から、相通じる志の高さを感じとる。大量生産、大量消費に異を唱え、世界にたった一つの、コピーなんてできない(無意味な)オリジナルな靴を極めようとしていること。

現実生活も、追い求める夢も、とりかえのきく大量生産品だったり誰かの安易なコピーだったりしたらつまらないよね、と深く共感。

学生からの質問にも丁寧に答えていただく。左から串野さん、山口さん。

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「新しく、誰も見たことのない斬新なものを作るべきクリエイターにとって、歴史を学ぶことはかえって邪魔になるのではないか? 歴史を学ぶことの意義は?」という質問あり。それに対する山口さんの答え―「人間は5000年前から靴を作り続けていて、その5000年の間に、人間が考えうるありとあらゆることはだいたい行われつくしている。その長い年月の最後というか最先端のラインに私たちがいる。歴史を知ってこそ、何が新しくて新しくないのかということもわかる」。

歴史は、不動のものとしてあるのではなく、その「最先端」にいる私たちの見方次第でさまざまな顔を見せてくれる。そんな歴史の面白さも伝えて続けているつもりの講義だったので、現場のクリエイターからの説得力あるお話として感激。

山口千尋さん、串野真也さん、ありがとうございました! 企画実現のために奔走してくれた、元ゼミ生の大橋君にも感謝。

◇「サライ」記事のためロングホーズの取材@新宿伊勢丹。プレスルームでバイヤーの方にお話を聞いたあと、メンズ館靴下売り場でロングホーズの存在感やメンズ靴下の現状などを確認。しばしミッションを忘れて、かわいくポップな靴下の数々にも見とれる。トルコ製の遊び心いっぱいの柄靴下など、思わず笑みがもれてくる。誰が買うんだろう?! さすがは伊勢丹メンズ、圧巻の品揃え。

同フロアの靴売り場も、愛好家が通う売り場だけあって、ぴーんと清澄なオーラが漂っている。販売員の表情や姿勢が違う。並みならぬ意気込みとプライドが感じられる。ちょっとこわいくらい。手頃な価格の靴も、超高級品も、カジュアルシューズも、一足一足、手をぬかず丁寧に陳列されている。靴に対する愛とプロ意識が感じられて、気持ちがいい。

◇ヘンリー・ペトロフスキー『フォークの歯はなぜ四本になったか』(平凡社ライブラリー)。新装復刊させた平凡社に心から敬意を表したい。大昔に一度読んでいたが、モノについても書いたり調べたりするようになった今の方が、この本の面白さを味わえる気がする。

・17世紀、イギリスにフォークをもちこんだコリヤットは「フルキフェル」と呼ばれた。「文字通りに解せば、『フォークを持つ人』の意味だが、『極悪人』つまり絞首刑に値する人間をさす言葉である」

・「われわれがすでに手にしているモノ―それが何であれーに内在する問題を見きわめることから発明が始まる」

・ポストイット・ノートを発明した「3M」は、「ミネソタ・マイニング・アンド・マニュファクチャリング」という会社。1902年設立で、金剛砂を採掘する会社だった。砥石車→紙やすりの製造を細々としていた。

1925年、ツートンカラーの自動車が人気。自動車をツートンカラーに塗り分けるにあたり、はじめにぬった部分を紙かなにかでマスキングする必要があった。でも接着剤が強いと、紙と一緒にペンキもはがれてしまう。つまり、「粘着力がさほど強くない接着剤のついたテープ」が求められた。試行錯誤をくりかえしたのち、テープができた。

ところが最初は溶剤が少なかったために、紙の重さにまけてテープがはがれる。癇癪を起した塗装工が、「このテープを、お前の上司のスコッチ(スコットランド人&けちけち野郎)のところに持ち帰って、もっとたっぷり接着剤をつけるように言えや」と。これがタータンチェックの「スコッチ」というテープが生まれるようになったきっかけ。

「会社側が接着剤をけちったからではなく、むしろ、消費者がそのテープを使って数多くの家庭用品を経済的に修理できるからそう命名されたのだろう」

1974年、3Mの化学技術者、アート・フライは、日曜日には教会の聖歌隊の一員として讃美歌を歌っていたのだが、二度めの礼拝のときに、しばしば讃美歌集にはさんでおいた紙片がもとの位置から抜け落ちて困惑するはめになった。で、自社の弱い接着剤のついたしおりを試す。一年半の試行錯誤の末、ポストイットの原型を完成。

→紙やすりに使う金剛砂を掘っていた会社が、スコッチテープやポストイットを開発するにいたった過程。けなされたり、バッシングを受けたり、不便な思いをしたりしながら、それを受け止めて、ネーミングに使ったり新しいものを生む契機にしたりする作り手の姿勢がすばらしい。わくわくする。

ほかにもクリップ、ジッパー、マクドナルドの包装などなど、身近なもののデザインが秘める奥深い歴史。

小笠原敬承斎先生『誰も教えてくれない男の礼儀作法』(光文社新書)。小笠原流礼法の解説。第一章の「男のこころ」は、武士道における心のあり方を説いているが、ジェントルマン道にも通じる点があり、興味深く読み込む。男性向けとされているが、男と同じような社会性を求められる現代の女にも通じる話である。以下、暗記したいと思ったセンテンス。

・「前きらめきを慎む」-自分の能力や個性を人前で得意げに見せない。

・「無躾は目に立たぬかは躾とて目に立つならばそれも無躾」(作法の知識があるのだ、とひけらかすことは、作法を知らないことと同じく、非礼に通じる)

・(徳川家康 遺訓)「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時をおもいだすべし。堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思え。勝つことばかり知りて負くることを知らざれば害その身にいたる。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるに勝れり」

「義侠」とは、心と身を修める忍耐強さのこと。

礼法の目的とは、こころを練磨すること。「こころが平穏で落ち着き研ぎすまされている人と出会ったとき、自分の本質を見抜かれてしまうように思うことがある。自分の言動に後ろめたさがある人にとっては、相手のこころの落ち着きが脅威に感じられることもあるのではないかと思う」

名越先生の本の教えを連想する。武士たちが身につけ、実践してきた礼法というのは、ウツにならず、心を意志的に強くするための修行法のひとつでもあったのではないか? 礼法で心身を修めることができていれば、ウツになりにくいのではないか、と感じる。

これから社会に出ていく若い人には、甘やかすのではなく、学校でも(もちろん家庭でも)、きっちりと礼法の基本を教えるべきではないのか。それによって心のコントロールを学ぶことができれば、社会でのサバイバル力にもつながるはず。

◇リリー・フランキー二冊。まずは『エコラム』(マガジンハウス)。分厚い。久々にたっぷり、リリーワールドを堪能。下ネタばっかりといってもいいくらいなのだが、リリーさんが正直なので読後感が不思議にさわやか。笑いをこらえるのに必死な、しょうもなすぎるバカ話のなかに、鋭い真実があるのがいい。

この本の白眉は、「男と女の妄想力」(前篇・後篇)。思い違いをしていたり、メディアのつくった幻想にまみれすぎていたりする男女のみなさんには必読でしょう(賛否はかなーりありそうだが)。

下ネタも出しっぱなしではなく、きちんと(時々)収束させているところに、独特の知性が光っている。

「歴史上の哲学者などが、愛や平和や人間について考え、哲学する時は何か統一した答えを探し出そうと話し合ったものだが、ことエロに関しては、その時代から、完全に個人の見解なのである」

で、リリー氏が感じるエロとして、「月給よりも、時給の方がエロい」というセンテンスがあったりするのである。超個人的。

◇もう一冊は、『リリー・フランキーの人生相談』(集英社)。週プレの連載コラムの単行本化版。リリーさんが実際に相談者に会って、話を聞く。どうしようもないほどくだならい、脱力レベルの相談が多いのだが、それに対するリリーさんのリアクションの言葉がなんともおかしいので、虚しくならずに読める。

「実際に話していくうちに、その人物の最大の悩みは、アンケート用紙に書かれていることではないことに気付いていく」という指摘にはっとさせられる。「人は、人に相談する時、相談用の相談を用意して紙に書いてくる」。

堀江貴史氏と田代まさし氏の相談も収録されている。相手に遠慮なく(といってもリリーさんなりの繊細な気配りはあるのだが)、ずばずば言ってやっているのが気持ちいいし、なんともいえぬおかしさが生まれている。私も相談に乗ってほしいくらい。

◇名越康文先生二冊。まず『心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」』(角川SSC新書)。自殺寸前、ウツ(への助走期間)にある人々にとっては処方箋とも読める本。地獄は外界の現実の風景ではなく、頭というか心の中で自分がどんどん生み出しているネガティブ思考が渦巻いているにすぎない光景なのだから、頭の中の地獄を追い払うためには、「いま・ここ」だけに集中しろ、という教え。多くの宗教本、哲学書、自己啓発系の本が書いていることと通底する内容も多かったが、それらを心理学の表現で書くとこうなる、と。とくに覚えておきたいと思った箇所を以下に引用。

・「現実的に起こっている事態は同じでも、つないだジャックによってまったく違う風景に見えてくる。極端に言うと、ジャックのつなぎ方次第で、外界の物事は天国にも地獄にも見えてしまうわけです」

・「ストレスから逃れるための本当に効果的な方法は、おそらく集中力を高める訓練以外にはないような気がします」

・「うつの人はものすごくアクセルを踏み込んでいる。ところが、同時にブレーキも思いっきり踏んでいる。だから、動けないままエネルギーはどんどん消費される」「(アクセルとブレーキを同時に踏んでいるので)エンジンがヒートアップして、車自体を、つまり自分自身を傷つけているかもしれない」

・「自分がモヤモヤした気分に覆われていると思った時、『とりあえず目の前のことにちゃんと取り組もう』と思い直します。そうやって、自分がブレーキを踏んでいることに気づいただけでその瞬間に、かなりブレーキが緩まります」

・「人間は空想に殺される」「外的な事実ではなく、自分自身で内的に生産しているものに翻弄され続けていることが、実は人間の精神活動の根本にある」

・「具体的なひとつの事件が、ネガティブな思考の引き金になることはあっても、死に至る病全体の原因になることはありえない」(中略)「根本的で恐ろしいのは、心の中にとめどもなく作りだされる、もしかしたら妄想と呼んでいいくらいの、ネガティブな思考の連続のほうなのだと思うんです」

・「十分な観察力と集中力があったら、ネガティブな巨大勢力を自分で止めることは可能」(中略)「自分を苛む原因は外側に渦巻いているのだと決めつけないで、『すべては自分の心の中で起こっているのだ』と、とりあえずでもいいから理解すること。その認識を可能にするのが、この場合の観察力」

・「自分の執着を少し自分から引き離して、最良の状態に自分の心をセルフコントロールできる力を持つことが、本当の意志」

・「『これもまた過ぎ去る』は、言わば『諸行無常』を肯定的なニュアンスで捉えたような言葉です。つまり、『幸福なこともまた過ぎ去るもの」である。だけど一方、『苦しみもまた、同じように過ぎ去るもの』である」

・「ルーティンワークの仕事の中身を問わないで漫然とやっている人と、たとえルーティンワークでも中身を実感して一日一日を二度と起こらない一回性の経験というふうに、ものの本質を見据えてやっている人との間では、実力が天と地の差ぐらい違ってくる」

・「本当にクリエイティブな人というのは、『こだわり』という自分の価値観や美学を押し付ける人ではなくて、どんなミッションを与えられても独自の工夫でこなすことができる人」

・「地道さを心がけている人の方が、近い将来の『賭け』に勝つ確率が高くなる。その小さな勝利を、さらに地道につなげていくことで、ようやく僕たちは初めて自分の夢や理想に近づけるのではないでしょうか」

・「絶望と絶望的って違うんじゃないでしょうか。絶望という状態は『すべての望みが断たれた』ということですから、もう何も余計なことは考えないという、ある種、透明な境地に至っているわけですよね。でも、絶望的という状態は、いわば『生焼けの生き地獄』です」

・「絶望的というのは、まだどこかに希望を持っているんですよ。(中略)希望がある限り、ずっと苦しむわけです。これは不思議なことでもあるんです。希望が人の心を苛むわけですから。でもこの希望は、いわば勇気や開き直りを伴わない希望なわけですね。だから実は、この希望は偽の希望であり、むしろ精神のトラップなんです。別の言い方で言うと、まさにこれこそが『迷い』というやつなんですね」

脳内ジャックを切り替えるための観察力と意志力が少しでも発揮できるのは、いくばくか体力が残っている間だろう、とも思う。体力まで落ちこむと、すべてがどうでもよくなってしまう。ここ半月ほど、起こってほしくはなかったできごとが立て続けに襲ってきて、笑えない→字を書く気も起きない→声を出す気もしない→ものを食べる気がしない、という崖っぷちに来ていた。まずは食べないといかんな。

◇名越先生もう一冊。『女はギャップ』(扶桑社)。美貌でマナーも完璧な女がモテない理由と、壁を低くするための助言。まえがきから鋭い。

「人に迷惑をかけない。スマートにあっさり。そんなことを気にするのであれば、いっそ、つきあわなければよいのではないでしょうか。(中略)人と会って疲れたり、頭にきたり、絶望したりしながら、楽しさや希望や夢を見つけていくことが、つきあうということです」

「男は『臆病と気遣い』を、鎧に生きています。この鎧をうまくはがす女性たちがモテるだけの話です」

本文で助言されていることを実行するのは、はっきりいって、かなり難しいと感じる(易しく書いてはあるが)。名越先生が助言する具体的なことを難なくできる人は、やはり天性のモテ資質を備えた人か。