◇浅田次郎『すべての人生について』(幻冬舎文庫)。小松左京、津本陽、北方謙三、渡辺惇一、岩井志麻子、宮部みゆき、山本一力ら14人の大物さんたちとの対談集。浅田次郎のエッセイによくでてくるネタがかぶっていたところもあったが、相当の準備をして対談に臨んだことがうかがわれる。一切の手抜きをしないプロフェッショナリズムに、あらためて感心。

それぞれ面白いのだけど、とりわけインパクトがあったのが、山本一力との対談。ふたりとも大借金王で、人生の浮沈をいやというほど経験しているだけあって、笑って紹介されるエピソードにもフィクション顔負けの凄みがあった。

なかでも、「仕事をする」ということに関して光っていたことば。吉川栄治文学賞の受賞パーティーでの話。同時受賞者が北海道で僻地医療に42年間専心してきた老齢のお医者様だったそうなのだが、その方はパーティー半ばで浅田氏に近づき、「これで失礼します。患者が待っていますから」と言って会場を出て行ったとのこと。

浅田「それだけのことなんだが、鮮烈でしたね。胸が震えました。仕事をしている人は誰でも公器、公の存在なのだとつくづく思ったのです。仕事をする限り、誰かと関わっているんだ。私が書いたものも一人でも二人でも楽しんでくれて、なかにはその人生や生き方に影響を及ぼすかもしれない。そのことをいつも頭に入れて、あの人が『患者が待っている』とさり気なく言われたように、私も『読者が待っている』とごく普通に言えるようにならなければならないと、褌を締め直す気持ちになりました」。

あとがきも、読ませる。

「世の中何だってそうだが、無駄な努力というものはない。骨惜しみだけが人生の空費となる」。

共感。高校生向けの講演などでも言っているが、真剣にとりくめば、無駄なことなどひとつもない、と思う。必ずあとで(何年先になるかわからないが)その果実がかえってくる。これやっても時間のムダ、と思って手抜きしたりこっそり内職したりすることこそが、最大の空費になる。

◇朝日新聞28日付オピニオン欄、高橋源一郎「身の丈超えぬ発言に希望」。昨日の斎藤氏の提言をさらに深めるような議論に加えて、城南信用金庫の理事長による「脱原発宣言」が紹介されていた。

「そこで目指されているのは、すっかり政治問題と化してしまった『原発』を、『ふつうの』人びとの手に取りもどすことだ。『安心できる地域社会』を作るために、『理想があり哲学がある企業』として、『できることから、地道にやっていく』という彼らのことばに、難しいところは一つもないし、目新しいことが語られているわけでもない。わたしは、『国策は歪められたものだった』という理事長の一言に、このメッセージの真骨頂があると感じた。『原発』のような『政治』的問題は、遠くで、誰かが決定するもの。わたしたちは、そう思いこみ、考えまいとしてきた。だが、そんな問題こそ、わたしたち自身が責任を持って関与するしかない、という発言を一企業が、その『身の丈』を超えずに、してみせること。そこに、わたしは『新しい公共性』への道を見たいと思った」。

力強いことばに導かれて、城南信用金庫理事長のメッセージを聞く。迷いなく、まっすぐな視線とともに発せられることばに、背骨がのびる思い。こんな素敵な経営者がいたのだ。

http://www.youtube.com/watch?v=CeUoVA1Cn-A

国策は歪められたものだった。影響力のある?タレントやブンカジンはカネ持ち企業の操り人形だった。そんなこんなの背景があばかれた今、理想や哲学をもつ企業や個人が、国や「エラい人」に問題を丸投げせず、身の丈に応じて発言し、地道に行動していく態度を表明することが、地に足のついた「希望」を感じさせてくれる。

◇「25ans」6月号発売です。ロイヤル婚特集にて、歴代の英王室のロイヤルウーマン5人分のラブストーリーと総論、「スローニー」ファッション特集にて扉の解説コラムを書いています。合計7本分のエッセイ&コラムですが、心血注いで書いてます。機会がありましたら、ぜひご笑覧ください。

◇朝日新聞27日付朝刊、斎藤美奈子の文芸時評。「原子力村と文学村 勇気を試される表現者」。さすが斎藤氏、他の「村」の人々にも訴えかける、タイムリーな問題提起をしていた。

伊坂幸太郎の「PK」を論じての結び。

「誘惑や脅しに屈しただれかの諦めと妥協と挫折の結果がたとえば戦争であり、原発事故ではなかったのか。先の戦争の後、『文学者の戦争責任』が取りざたされた時期があった。ならば『文学者の原発責任』だって発生しよう。安全神話に加担した責任。スルーした責任」。

続いて、川村湊が『福島原発人災記』を出したその態度を褒めたあとの結び。

「今月の文芸誌にも震災をめぐる作家の言葉が多少は載ったが、高橋源一郎が連載小説の丸々一回分を費やしてこの震災と先の戦争との薄気味悪いほどの類似を語ったのが目についたくらいで、多くはモゴモゴとした『文学的』な内省を語るのみ。文学の人は文学だけを追求してりゃいいんだよ、という態度は、『文学村』の内部の言語である点において、『原子力村』と同質ではないか?」

最後に、「PK」のフレーズを引用し、文学村に向けてハッパをかける。

「『臆病は伝染する。そして、勇気も伝染する』。ほとんど少年漫画のせりふである。でも『つながろう日本』よりはずっといい。(中略)いま必要なのは、『勇気の伝染』なのではないか。文学村から放たれるシュートを待ちたい」。

「文学村」ばかりではなく、ほかのさまざまな「村」からのシュートも待たれている(自戒をこめて)。

朝日新聞23日(土)朝刊、オピニオン欄。「いまこそ歌舞音曲」。悲嘆、自粛ムードが世を覆い、復興に向けて具体的に建設的に貢献しなくてはいけないというプレッシャーが押し寄せる中、たとえばファッションのような「浮薄な」(と思われている)領域で働く者は、どのような気持ちで仕事に取り組んだらよいのだろうか? と日々仕事をしながら自問していたが、この記事もまた考えるヒントを与えてくれた。

舞踏家の麿赤児さん、指揮者の松尾葉子さん、そして吉本興業の社長、大崎洋さんという、「踊り、音楽を奏で、笑わせる」ジャンルで働く人々の言葉。

麿「死や自然災害など、どうしようもないものに対する恐怖と折り合いをつけるために、宗教や芸術というものがある。ただ、宗教は価値観を固定化するけど、芸術は抽象的だから、むしろ価値観をどんどん多様にしてゆく」

麿「原発を見てると、太陽に向かって、ろうの翼で飛んでいくイカロスを思い出す。手にしてしまった便利さを手放せず、もっともっと、と破滅に至るまで欲望を肥大化させてゆく。これもまた、人間の業なのだろうが」。

原発=イカロス の喩えに膝を打つ。たしかに、いまの原発の状況は、破滅に向かおうとも、「もっともっと」と欲望をコントロールできない哀しい人間の業をあらわした図に見えてくる。

松尾「音符や言葉を介さず、音と自らの心を直接結ぶ回路を、子供たちは持っている。遠くの人を思いながら音楽を奏でる経験は、子供たちに、真の音楽の力を知ってもらう最高のきっかけになったはずなのに」

大崎「歌や笑いは、根底に愛情というか、人と人との心のつながりがないと成立しないんです。吉本興業の公共性は、芸能を通じて、この心のインフラを確保することにある。現実がどんなに荒れ狂っている時でも」。

芸能を通じた心のインフラ確保。なるほど。ファッションだって似たようなものかもしれない。「心のインフラ」というキーワードを少し心にとどめておくことにする。とはいえ、現実離れしたように見える世界の仕事をしながら、やはり少しばかり、揺れ続ける。

野地秩嘉『一流たちの修業時代』(光文社新書)。会社創業者、アーティスト、職人、営業マンなど、15人の一流の人たちが登場。今は輝かしい成功者として名高い彼らが、「修業時代」にいかに考えて行動したのか?を語る。 仕事の合間に一人か二人分ずつ読むつもりが、あまりにも面白くて全部読み終えてしまう。なんだかもったいないことをしてしまったような気分。

創業者のなかでは、CoCo壱番屋の宗次徳二さんに圧倒される。孤児で、養父母に引き取られるも貧乏のどん底で苦労がたえない。そこから会社を創業、一部上場まで育てあげるのだ。

ユニクロの柳井社長のことば。「しないうちからあきらめるな。だって、若い人って、まだ何もしていないんでしょう。あきらめることなんかない。まだ、何にも始まっていないんですよ、あなた方は」。

クレイジーケンバンドの横山剣は昔からのファンなので、デビューまでの物語は知っているつもりではあったが、やはりインタビュアーが違うと、知らなかった話や言葉がでてくる。「人間、どうせいつかは死にます。どんどん妄想して、勘違いして、やれるうちに何でもやったほうがいい」。

日本画家の千住博による、「世に出るとは」。

「世に出るとは、打たれても打たれても舞台に立ち続けること。厳しい批評にさらされても、描くことを放棄せず、じっと耐えて、また絵に向かい合う。人はあまりに打たれ続けると、打たれることがつらくなってしまい、褒めてくれる人を探すようになります。そうして自分で小さな舞台を作り、自分を理解してくれる少数の人の前だけで作品を発表するようになる。でも、それは、本当の芸術行為ではない」。

続いて、芸術の定義。「本当の芸術とは、わかってくれない人たちを美の力で引き寄せる、あるいは説得することです。つまり、わかりあえない人とわかりあうための手段が芸術なんです」。

そういう芸術家にとって、「修行が終わりということはない」と。

ここのところ、毎夜、地震で起こされる。3~4夜連続。下から突き上げるようなブキミな揺れ。地震雲や赤黒い空やミミズやカラスやモグラやイオン濃度の異常を「前兆」視する声もあちこちで聞こえる。いつ死ぬかわからない漠然とした恐怖がひたひたと現実味を帯びてきている感じ。でも、とりあえず生きている間はビクビクしてもしょうがない。ビクビクしている時間がもったいない、生きている短いうちに、妄想でも勘違いでも、やれることはやれるだけやっとこう、という気持ちにさせてくれた本だった。

◇「サライ」記事のため、銀座の「トラヤ帽子店」に取材にうかがう。店長の大滝雄二朗さんがボキャブラリー豊かで、帽子かぶれば渋チャーミング、という素敵な方であった。とても楽しい取材になった。感謝。詳しくは6月発売の本誌にて。

トラヤ帽子店の品揃えは、たぶん、世界一とのこと(店舗は入りにくいし、どちらかといえば狭めだが、それがかえってよい効果をもたらしているようだ)。カジュアルなハンチングから、トップハットに至るまで、世界のあらゆるブランドから。個人的にほしいな~と思ってしまったのが、ロンドンのおまわりさんがかぶっているようなヘルメット。

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時節柄、災害用というか工事用のヘルメットはいちおう、家族の人数分、身近において眠ってはいるが、こういうしゃれっ気のあるヘルメットが並んでいると、重苦しい気持ちも少しは明るくなるかも?と。

どさくさにまぎれての個人的希望。いざというときに5時間歩いても疲れないかわいいシューズ。パジャマとして着てよし、避難着としてもよし、ついでにそれ着て仕事してもヘンではない、という万能ウエア。最低限の避難用品ひととおりコンパクトに入るきれいめバッグ。デザイナーの皆さんにぜひ、作ってほしい。ビジュアルの要望などゼイタク、という世界ではあるけれど、「それどころではない」という気分のときこそ、明るいエネルギーを感じられるようなものがあると、心がほっとすることもある。

今は、華奢なヒールの靴やモノの入らないバッグなど到底買う気になれない。かといって災害用一点張りなのもなんだかなあ、である。危機がひそむ日常を、せめて何もない間は明るい気持ちで過ごせるようなモノを作っていただきたい、と強く希望。

◇往復に読み終えたのが、野地秩嘉『日本一の秘書』(新潮新書)。ぐいぐい引き込まれて、帰りなんぞ乗り過ごしたほど。ホテルニューグランドの名物ドアマン、カレーチェーンCoco壱番屋の秘書、似顔絵刑事、秋田のヒーローたる超神ネイガー、シミ抜きの天才、焼き鳥屋、富山の売薬。サービスの達人たちにみっちり取材し、その秘密を門外漢にもわかるように丁寧に分析した、これまたライターとしてのサービス精神あふれる一冊。

超神ネイガーの項、ヒーローの分析が光る。

「大人にとってのヒーローとは常に勝つ者、万能のスーパーマンを言う。しかし、小さな子どもにとってのヒーローとは万能でも常勝の人間でもない。子どもにとってのヒーローとは窮地に陥って、しかし、あきらめない人間だ。子供たちはヒーローになりたくて、ショーを見ているのではない。

ヒーローを応援したい。ヒーローを救ってあげたい。ヒーローを男にしてやりたい。そうして、ヒーローが窮地を脱するところを見たいのだ。つまり、子供にとってのヒーローとは窮地にはまり込むことが多い人間であり、苦しい目にあっているヒーローが大好きなのだ」

取材対象にみっちり沿って、意外な、でも普遍的でまっとうな法則を引き出す野地さんのやさしさとプロフェッショナリズム、いいなあ、と思う。

「ワンピース ストロング・ワーズ」上・下巻(集英社新書 ヴィジュアル版)。ワンピースの「名言集」。力強い言葉は、今だからこそ響くものもあり、読みながら思わず手に力が入るほど。

「普通じゃねェ”鷹の目”(あいつ)に勝つためには 普通でいるわけには いかねェんだ!!!」

「災難ってモンは たたみかけるのが世の常だ 言い訳したらどなたか 助けてくれんのか? 死んだらおれはただ そこまでの男……!!!」

各巻の後につく内田樹先生の解説がまたすばらしい。内田先生はいろんな本や論壇誌でたぶん同じことを繰り返して語っているのだけれど、ここにもその繰り返されてきた言葉があり、その言葉はなんど読んでも読み飽きることがない(今のところは)。

「いわば、ルフィは『「ONE PIECE」的世界の生物学的多様性の守護者』として働いています。仲間を絶対に死なせないというルフィの決意は、『友情に厚い』とか『人情がある』というレベルのものではありません。それは、『一人を失うことは、ほとんど世界を失うことに等しい』という原理的な確信にルフィが領されているからです」

「仲間になる者については、名前と肩書と官名あるいは懸賞金額を示して終わり、というわけにはゆかない。ルフィとの出会いに至った、それぞれの長い歴史を物語らなければならない。それはこれから先も、彼ら彼女らには一人ひとりまたそれぞれ固有の物語が続いてゆくということです。ルフィとの冒険の後も、彼らはそれぞれに別の物語を生き続ける。未来は『オープンエンド』なのです。  (中略)   かつては違うところにいた。今はここにいる。いずれまた違うところに去っていく。そのような流動性のうちにある。たぶんそれが『生きている共同体』だと作者は信じている」

武道家としてのルフィの強さを分析した下巻の解説はさらに面白く、定形的な増量法でごりごりやってるかぎり、強さには限界がある、という指摘に続くくだりは、静かに心に響いてくる。

「たいせつなもののために生きる人間は、自分の中に眠っているすべての資質を発現しようとします。『スタイル』とか『こだわり』とか『オレらしいやり方』というような小賢しいものはルフィにはありません。そんなものは選択肢を限定するだけだからです。この解放性こそが本作中でルフィを際だって爽快な登場人物たらしめている理由だと僕は思います。ゾロもサンジも能力は高いけれど、『勝つこと』にこだわりがある。それも『自分らしい勝ち方』にこだわりがある。冷たい言い方をすれば我執がある。ルフィのような、仲間を救うためには使えるものは何でも使う(使えるものなら『敵』でも使う)という思い切りのよさがありません。それが現実に、身体能力の開発というプログラムにおけるルフィの圧倒的なアドバンテージをもたらしている」

そこから「組織論」へとつなぐあたりは、内田先生の真骨頂。

「僕たちはふつう自分の強さや才能といったプラス要素を誇示すれば、人々の尊敬や愛情を獲得できると考えています。でも、ほんとうはそうではない。僕たちは『あなたなしでは生きてゆけない』という弱さと無能の宣言を通じてしか、ほんとうの意味での『仲間』とは出会うことはできない」

自立した強い人間の強さには、限界があるという話。その人が死の限界を超えてもなお踏みとどまることができる強さを発揮するには、「私はここで死ぬわけにはいかない」という異常な使命感が必要だ、と。

「自分をほんとうに強めたいと思うなら、限界を超えて強めたいと思うなら、『私は誰かの支援なしには生きられない』『私の支援なしには生きられない人がいる』という二重の拘束のうちに身を置く必要がある」

ほかにも、くりかえしくりかえし読みたい、バイブルのような(!)言葉が連なる。「人に頼る」のはメイワクをかけることであり恥ずかしいことと思って遠慮してきたフシがあったが、発想を改めたほうがよさそうだ、と促される。考えてみれば、「人に頼られる」のはとてもうれしいことで、それに応えようとするなかで、自分にあるとは思ってもいなかった力が発揮された経験は少なくない。ほかの人だって同じはず。

◇DVDで「死刑台のエレベーター」。ルイ・マルのオリジナル版のしっとりノワールな雰囲気には遠く及ばなかったが、ハラハラ感はそれなりに楽しむ。

ストーリーはリメイクすることができても、雰囲気をリメイクすることは難しい、とあらためて感じる。洋服やバッグのコピーにおいて、カタチだけなぞることはできても、「本物」が漂わせる風格までは決して再現できないのと、ちょっと似ている。そっくりであればあるほど、本物の格が上がっていく。「コピー歓迎」と言っていたココ・シャネルは、正しかった。

◇DVDで「悪人」。原作の哀感、複雑な人間像をみごとに視覚化。俳優陣がそろって力強くすばらしい。クライマックスにおいて、被害者の父、加害者の祖母、逃亡する二人のカットをそれぞれ短くつないで感情をぎゅーと盛り上げていく手法も絶妙で、世間の高評価にも納得。

「遠距離恋愛」を観たときに、「遠距離恋愛中に、会いたいときに会えないことの地獄の苦しみ」が吐露されていて、その苦しみと、まったく一人であることの平穏と、どっちがマシなのだろう?とつらつらと思っていた。

「死刑台のエレベーター」を観た時にも、「愛のために殺人に走る甘美な地獄」と、愛がないゆえの平穏と、どっちがマシか?と思わされた。

「悪人」のヒロインは、閉塞しきった日常の平穏な砂漠よりも、「愛のために危険な逃亡をする地獄」を選んだ。「愛」が幻想だったかもしれないとしても、たぶん、そっちのほうが「生きている」実感は大きいのだろう。

愛のための地獄>愛のない平穏。すくなくとも虚構の世界においては、そうじゃないとドラマにならない、ということはあるが。

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寺家町にも春。森の中を歩くと汗ばむほどの陽気。

空気中の放射線物質のレベルが昨日と同じ、依然高いままであることが、「異状なし」という事態。このような異常な「異状なし」が続くような現実生活において、平穏に日々を過ごしていることそのことが、なにか特別なことのようにも思えてくる。

◇「メンズプレシャス」2011 spring号発売です。特集「奥深き"御用達"名品の真実」において、扉の記事と英国王室御用達についてのエッセイ、2本を書いています。機会がありましたら、ご笑覧ください。

今号には、チャールズ皇太子・讃、の記事が目立つ。政治的にはともかく、メンズファッション業界では絶大な人気を誇る人であること、再認識。

◇4月末のケイト&ウィリアムご成婚にあわせた記事を7本書く。一冊の雑誌でこれだけの数を書いたのは初めてのこと。志なかばで人生を断たれたり、仕事をしたくてもできない、つらい状況におかれている人々のことを思うと、「ムリ」なんてぜったい言えるわけがない。被災者の方々に励まされてできたような仕事だった。おまえが励まされてどうするっ!てもんだけど、ほんとうにそんな思い。

日本のシビアな現実とはかけ離れた世界の話だが、たとえば避難所で雑誌を広げた時に、心の滋養になったり、少し士気が高まったりするような記事になるようにと、祈りをこめて書く。編集者もみな同じ思いである。

◇そうこうするうちに、1号機が水素爆発の危機にあるらしいことが報じられる。政府は被爆量の上限を引き上げるとか、不条理なことばかり言っている。与党も野党もこの危機にあってせこいプライドだかなんだかしらないが、大連立するのしないの、駆け引きみたいなことに奔走している。未来を描けない福島の人の悲痛な叫びが聞こえてくる。リーダーのことばがどこからも聞こえてこない。というよりリーダーの顔も見えない。世界中で日本レストランの多くが倒産の危機に追い込まれているというニュースが届く。

こういう「有事」において、外界の現実とどうやって心の中で折り合いをつけて仕事をしていくのがいいのか、日々、考える。納得のいく答えなんか出ないだろうが、少なくとも、同じ状況を生きる読者の心の中の反応というのを、以前よりも長時間、考えるようになった。てんでばらばらの現実を生きる読者の関心事が多岐にわたっていた以前は、「あとは受け取る人まかせ」にしていた部分もあったが(それはそれで信頼のつもりで)、今は多くの読者が同じ苛酷な現実を共有している(共有部分の大小はあるかもしれないが)。そこに届くことばを見つけることが、私などが仕事をする領域で果たして可能なのかどうか。重苦しい現実と、美しい虚飾の世界を、手探りで行きつ戻りつ。

◇昨日の森川先生のツイートからつらつら考え、今さらながらはっきりとわかったこと。カワイイ礼賛・美魔女志向・アニメとマンガに対する過度な崇拝っていう3・11前の日本のカルチュアと、大人の責任がとれるリーダー不在という現実は、地続きである。それでもなお、幼稚なカルチュアを「クールジャパン」とかいってもてはやすのか。大人はちゃんと成熟して、大人の責任をとれ。

◇日々少しずつ数字が加算されていく死亡者数。日々状況が悪化する原発。ついに東電は低濃度の(っていう表現もごまかされているようで気持ち悪い)汚染水を意図的に海へ流し始めた。高濃度の汚染水の流出も止められないまま。茨城ではコウナゴ汚染。

シャングリラホテルの休業。外国船の日本への寄港忌避。農業と漁業への長期的なダメージ。

じりじり、じりじり、と事態が悪化していくことに対し、不思議なことに、最近は、当初のような不安を覚えない。長期間こういうのが続いて、心身が<日々、悪いことが加速していくこと>に慣れてしまったようなのだ。それとも感覚がマヒしたのだろうか。「関心がなくなった」とか「ニュースに飽きた」ということとは違う。「冷静になった」「楽観するようになった」というのとはもっと違う。毎朝NYタイムズやウォールストリートジャーナルの記事と日本政府の発表を読み比べては、腹を立てたり疑問を抱いたり、<気にしすぎない努力>をしたりしている。ただただ、身体が「不安に慣れた」としか思えない状態。

大戦中、空爆の恐怖をどのように人々はしのいだのか、と常々不思議に思っていたが、ここにも「不安や恐怖に対する、慣れ」のようなものが、ひょっとしたら生まれていたのだろうか? 憶測にすぎないが、ある程度の慣れによって、極度のストレスから心身が守られるということもあるのではないか、と感じる。

あるいは、来るかもしれないより大きな恐怖に備えて、心身が自発的にエネルギーを消耗させないようにしているのだろうか? との思いもよぎる。

大学の同僚、森川嘉一郎先生のツイートより。あまりにすばらしいので引用させていただく。

「今回の地震対応に対する海外の報道を見ると、日本という「国家」には、よく訓練された子供達(国民)がいる一方、責任を担う大人達がいないという、既成の日本観をさらに戯画化したようなイメージが醸成されつつある。他方でそうした自国の戯画を笑えるかどうかが、文化的成熟の一つの指標でもあるが」。

さすがの洞察。

責任を担う大人が、笑いごとではなくて、いない。政府と東電の、後手後手の無責任ぶり(がんばりは認めるが、それとこれとは別問題)。あれだけは、ぜったいに「慣れ」てなんかやらない。そもそも、そういう政府を<しかたなく>選んだ私たち大人、原発のことを深く考えずにいいとこだけ享受していた私たち大人の無責任にも、これ以上、「慣れ」てはいけない。自戒。

◇「メンズファッションの教科書シリーズ vol.7  The Coordinate」(学研)、発売です。本書の中で、小さなコラムですが、スティーブ・マックイーンのスリーピース・スーツの着こなしについて書いています。機会がありましたら、ご笑覧ください。

◇DVDで「エクスペンダブルズ」。スタローン監督。スタローンのほか、ジェット・リー、ジェイソン・ステイサム、ドルフ・ラングレン、ミッキー・ロークらアクションスターの競演。そのことだけが大事で、ストーリーはほとんどあってもなくてもいいような感じ。

個人的には、スタローンとシュワルツネガー、ブルース・ウィリスが同じ画面で話しているというワンシーンだけで、かなりウケた。(シュワとウィリスはクレジットなしの友情?出演で、このシーンのみ)。

このときのスタローンとシュワの会話。「こんど食事でも」「いいね、いつにする?」「1000年後でも」「急だな」。

日頃、「こんど食事でも」という虚しい社交辞令にうんざりしていたので(まに受けるとバカにされるのだ)、シブく痛快。

◇奇しくも、1週間ほど前に、スタローンがメンズファッションブランドを立ち上げるという発表をしている。

「ロッキー」や「ランボー」のキャラクターをベースにした、ジーンズやTシャツ、アウトドアものがメインになるらしい。2012年から具体的に商品を展開するとのこと。対象は25歳から40歳くらいの男性で、イメージは「反逆者にして紳士(rebel & gentleman)」。なんじゃそりゃ?と思ったが、64歳のスタローンの挑戦欲は衰えない。あっぱれ。映画の中で走る姿が鈍重になった印象を免れず、(最盛期にファンだった身には)ややつらかっただけに、なにか「恩返し」とか「ドネイション」をするような感じで応援したくなる。