ファッション研究からラグジュアリー研究に対象を拡大し、新しいラグジュアリーの価値について発信するなかで、なぜ日本文化なのか? なぜ伝統工芸なのか? を問われることが増えた。気まぐれな移行ではなく、すべてつながっているのである。じっくり考えてみたので書き留めておきたい。

大量生産・大量消費の仕組みに、私たちは深く組み込まれている。安く、早く、便利に手に入るモノが都市と生活空間を覆い、衣服や家電は「直す」よりも「買い替える」のが当然とされるようになった。この大量生産・大量消費型の社会は、20世紀の経済成長を支えた中心的な構造であると同時に、いま世界はその副作用に直面している。私が「これからのラグジュアリー」を問う必要性を感じた出発点も、まさにそこにある。

大量生産が制度として確立されたのは、19世紀の産業革命以降、とりわけアメリカの自動車産業における流れ作業の導入による。フォード社の工場は象徴的な事例であり、同一の製品を均質かつ短時間で、以前の何分の一のコストで製造することを可能にした。この技術革新によって、冷蔵庫、テレビ、洋服、時計といった従来は富裕層の特権であった品々が一般市民の手に届くようになり、生活水準は飛躍的に向上した。大量生産はまた、工場労働の需要を拡大させ、雇用を生み出し、中間層の形成を促した。すなわち、大量消費は「民主化された豊かさ」を実現した装置でもあった。

しかし、その恩恵を享受する構造は、今まさに制度的限界を迎えつつある。最も深刻な問題は、環境への影響である。資源の過剰な採掘、製造と輸送過程におけるCO₂の大量排出、さらに水や土壌の汚染が各地で進行している。ファッション産業は、その環境負荷の大きさから、世界で二番目に「環境に悪い」産業とすら言われている。たとえば、ケニアなどの国々には世界中から廃棄された衣類が流入し、腐敗・堆積しながら、海洋や土壌を深刻に汚染している現状がある。

また、大量消費の維持には、労働コストの抑制が不可欠であり、多くの企業が生産を賃金の安い国へと移した結果、劣悪な労働環境に置かれた労働者が低賃金で働かされているという構造的搾取も横たわっている。私たちが享受している安価さや利便性の背後には、可視化されにくい「誰かの犠牲」や「どこかの破壊」が存在している。

加えて、消費意識そのものの変質も見逃せない。かつては修理して使い続けることが当然とされた道具や衣類が、今や「安いから捨てる」「新品を買うほうが早い」という考え方に取って代わられた。流行が変われば、まだ使えるモノですら処分の対象となる。このような価値観の常態化は、モノに対する意味や愛着の希薄化をもたらしている。

さらに、情報と商品が過剰に流通することによって、「何を選べばいいのかわからない」という消費疲れも広がっている。選択肢が増えるほどに、判断力と精神力が消耗され、結果として無関心と倦怠が広がる。大量消費社会がもたらした精神的副作用とも言える。

いま必要とされるのは、大量生産・大量消費の全否定ではなく、仕組みの見直しと再設計である。必要なものを、必要な分だけ、丁寧につくる。長く使えるものを選び、壊れたら修理して使い続ける。「所有」よりも「共有」や「体験」に価値を見出すような方向転換が、すでに各地で模索され始めている。

この文脈において、あらためて見直されつつあるのが、日本に古くから根づく「もったいない」の感覚である。「もったいない」とは、単なる節約や倹約ではなく、モノに込められた時間・労力・命に対する敬意の言葉であり、倫理的態度の表明である。破れた布は繕い、使い古した道具は手入れしながら別の用途に転用する。かつての日本人の暮らしには、自然と「再利用」の所作が組み込まれていた。

このような感覚は今、世界のラグジュアリー領域でも新たな価値として注目されている。機械で量産されたプロダクトではなく、時間と手間が込められた一点物、希少な手仕事、職人の痕跡が残る製品が求められるようになってきた。速さや多さではなく、「どれだけ唯一無二であるか」「どれだけ手間と時間が積み重なっているか」が、新たな評価軸となっている。

こうした価値観の転換において、日本の美意識――たとえば、静けさ、簡素、陰翳、内面性といった感覚――にも再び光が当てられている。「たくさん持たない」「主張しない」「けれど深い」という姿勢が、むしろ未来志向の美学として、世界的に再評価され始めている。

大量消費社会が飽和に達しつつある現在、問われているのは「何をどれだけ持つか」ではなく、「どのように使い、どのように手放し、どのように循環させるか」という美意識である。日本の文化や暮らしの所作は、未来型の価値観のプロトタイプとしてこそ再発見されるべきである。

それを買うことで、どのような世界を支持することになるのか。ここに視点が移っている。

いま静かに立ち上がっているのは、「少なくても、丁寧に、意味をもって持つ」という姿勢であり、まさにこの点を、世界のラグジュアリービジネスに関わる方々が話題にし始めている。

そのような経緯の中にあって、ごく自然に、これからのラグジュアリーに対する考え方を、日本と世界で同じ語彙で交わす必要がある、と考えるに至ったわけである。どうなるかは、やってみなければわからない。少なくとも、2,3年くらいは地道に発信と交流を続けてみたい。悔いのないプロセスを経ても難しいとなれば、その時はその時、ですね。

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